七話
ピュイーっと不吉な音が鳴り響いた。さらわれる時に聞いた獣人の指笛の音……見つけられてしまったか。私は樹木の間を走りながら周囲に目を配り続けた。
「……いる」
数はわからないが、追っ手の他にも、木や岩の陰に隠れて移動している獣人がいる。機会を見て私に飛びかかろうという魂胆か。このまま走り続ければ、足の速い獣人に確実に追い付かれるだろう。だがここは森だ。地形は複雑で障害となる樹木もある。それを活かせば逃げ切れる可能性もあるはずだ。その前に体力が尽きなければいいが……。
「――、――!」
背後の追っ手が何やら大声を上げている。それに対して別の獣人も大声で返している。私を捕らえる作戦でも話し合っているのか? それにしては気合いの入り過ぎた声に聞こえる。
その時、側の岩陰に獣人の頭が見えた。罠には捕まらない――私は咄嗟に進路を曲げ、その岩を避けた。すると隠れていた獣人が石斧を手に飛び出そうとしてくる……が、その武器を持つ腕を、なぜかもう一人の獣人が後ろから押さえ、引き止めていた。あれは何だ? 何をしようとしているのか……。
「あっ――」
そんな光景に気を取られたせいか、折れて転がっていた枝につま先が引っ掛かり、私は前のめりに傾いた。ちょうど前に岩があり、そこに手を付いて転ばずに済んだが、足は完全に止まってしまった。後ろを見れば、数人の獣人達が駆けて来るところだ。止まった私を見て、その足は速さを増す――また転べば戦闘は避けられない。ルギルはあっても、この多勢では勝ち目はない。息が切れようとも走らなければ!
「!」
前を向いた瞬間、そこに獣人が石鎚を構えて立っていた。鋭い目はこちらをとらえ、ゆらりと腕が動く――心臓が跳ねるのと同時に、私は横へ飛び退いた。直後、振り下ろされた石鎚はガンッと派手な音を鳴らして岩にぶつかった。逃げるための体力は残しておきたい――私はすぐさまルギルを振り、その切っ先で獣人の腕を切り付けた。
「オグッ……」
わずかな鮮血が散り、獣人は石鎚を落として傷を押さえた。鋭かった目は警戒と怯えの色を浮かべる。それをいちべつし、私は再び駆け出す。逃げる隙があるうちは、まだ戦うわけにはいかない。それは逃げ道を断たれた時の最後の抵抗手段。優先すべきことは、この森を抜けることだ。獣人族の領域から出ないことには先がないのだから。
周囲の様子をうかがいながら走り続けるが……何だろうか、この違和感。追って来る獣人は変わらずいるが、向こうのほうが足が速いにもかかわらず、距離が縮まっていないような気がする。私も時折蛇行して走っているからかもしれないが、それにしても一定の距離が続き過ぎている。こちらにとってはいいことに違いないが、その反面、また何かたくらんでいそうで不気味さも感じる。距離を一気に詰める力はあるはずなのに、そうはしてこない。まるで私の動きを慎重にうかがっているかのように……私がまた足を止めるのを待っているのか? 確実に捕らえるために。だとしたらさらった時のように数で取り囲んでしまえばいいのに。足の速い獣人ならそれが出来るはずだ。けれどそうしないということは、やはり何か考えを持って――
すると頭上でガサリと音がした。走りながら視線を向けると、木の上に石槍を構えた獣人の影が見えた。あんなところにも待ち伏せが――私はすぐに近くの木の裏へ身を隠した。その直後、真横を風を切って石槍が飛び過ぎ、地面に勢いよく突き刺さった。前後左右だけでなく、上にも獣人がいるとは……。より広範囲に目を向けながら私は駆けて行く。
「また……!」
前方の木の上に再び獣人の姿が見えた。その手に構えているのは弓矢。ほぼ正面から狙いを付けている。避けなければ――そう思った時には矢は放たれ、一直線にこちらへ飛んで来た。ルギルで叩き落とせるか――手元の剣を振ろうとした瞬間だった。
目の前に大きな壁が現れたかと思うと、飛んで来た矢を腕で振り払ってしまった。驚いた私はその大きな壁となった獣人の背中を呆然と見つめた。……さっぱりわからない。なぜ人間の私をかばうような真似を?
するとかばった獣人はこちらに振り向き、私に手を伸ばしてきた。危ない――反射的に振ったルギルは獣人の手のひらを切り裂いた。ウッと小さな声を漏らした獣人は険しい表情になって私を見つめた。その視線に思わず息を呑む。恩を仇で返してしまった……いや、この獣人は私を捕らえようとしたのだ。だからルギルで抵抗したまで。恩など、感じる必要はない……。
「キェフィロ!」
そう叫び、石斧を持った獣人がこちらへ突進して来る。隠れていた獣人か! こう近くては戦うしかない。それに目の前にはもう一人獣人がいる。二対一なら、どうにか勝てないこともない――そう覚悟をした時、目の前の獣人がおもむろに動いた。
私ではなく、突進して来る仲間に向かうと、なぜかその動きを制止しようとつかみかかった。そして握られた石斧を取り上げようとしている。仲間の相手は何かを怒鳴り、そうはさせまいと揉み合う。わけがわからない。これは私への攻撃行為を止めているようにしか見えないが、同じ獣人同士でなぜこんなことを? 仲間割れ、なのか……?
近付く追っ手の物音に気付き、私は走り出した。獣人の揉み合いを眺めている場合ではない。よくわからないが、仲間内で揉め事が起こっているようだ。統率が乱れているのなら、その隙に逃げるまでだ。
「……あれは!」
視線の先にまばゆい光が見えた。樹木の列が途切れ、その奥に陽光が降り注いでいる。ようやく森の出口にたどり着いた。背後をちらと見ると、未だ追っ手は付いて来る。どこまで追い続けるつもりなのか。しかし森の先の平原へ出てしまえば、そこはもう王国の監視の目が届く範囲だ。獣人も深追いは出来ないはず。出口さえ出られれば――
「……くっ、待ち伏せ……」
出口を目前にして、その手前に三人の獣人の姿があった。それぞれ武器を持ち、私を止める気満々のように身構えている。三人か……微妙に嫌な数だ。確実に勝てるとは言い切れない。先ほどの獣人のように仲間割れをしている様子もないし、やはりここも戦いは避けるべきか。
「ウガアア!」
雄たけびを上げ、三人が襲いかかって来る。私はルギルを構え、攻撃を受け流しながら逃げるつもりで向かった。
「ふっ――」
互いの武器がこすれ、私は無駄な力を入れずにそれを受け流す。だがすぐに次の攻撃が来る。どうにか逃げる隙を見つけなければ、ただ体力を削られるだけだ。しかし三人は上手く連係しながら攻撃を繰り返してくる。なかなか厄介な動きだ。特にあの、離れた位置から攻撃をする石槍なんか……。
「ハガア!」
突き出された石槍をかわし、私はその木製の柄にルギルを振り下ろした。すぱっと切れた石槍は先端の刃を落とし、真っ二つになった。それを見て持ち主の獣人は明らかに動揺を見せる。これで隙を作れるか……。
残る武器持ちの二人が奮起して向かって来るが、先ほどの連係攻撃よりは動きが読みやすい。丸腰になった獣人を牽制しつつ、私はじりじりと森の出口へ近付いた。相手が三人では一気に逃げ出すことは難しいか。ならば――
武器持ち二人の攻撃に集中するふりをして、私は丸腰の獣人への牽制を解いた。するとすぐにその獣人は私の背後から襲いかかって来た――思った通りの動きだ!
振り向きざま、ルギルを横薙ぎに振り切る。瞬間、深く切り裂く感覚が伝わる。
「ウ、グウ……」
腹を切られた獣人はうめきながら後ろへよろめいた――今だ! 私はその獣人を押し退け、森の出口へと一目散に駆けた。
「……ユフマルド!」
怒りをあらわにした獣人は叫ぶと、私に武器を振り下ろそうとしてくる。それを振り回したルギルで牽制し、とにかく出口を目指した。もう体力も限界に近い。相手などしていられない。
「……なっ!」
走る先へ目をやると、そこに数人の獣人が飛び出して来た。私が手間取っているうちに追っ手が回り込んだか。新たに立ち塞がった獣人達は私を見据え、ゆっくりと近付いて来る。後ろへ振り返れば、武器を構えた二人が狙いを定めるように睨んでいる……挟まれた。この数を一人で突破するのは無理だ。戦っても勝ち目は薄い。それどころか命を奪われかねない。洞窟から逃げ出して、ようやくここまで来たというのに、出口目前で終わってしまうなんて……。だがもう他に出来ることはない。勝ち目はなくとも最後の抵抗に全力を注ぐしか道は――
「陛下をお助けしろ!」
遠くから勇ましい声が響き、私は森の出口へ目を向けた。
「まさか……!」
思いがけない姿に思わず目を見張った。揃いの鎧姿に剣を掲げ、声を上げながら大勢がこちらへ向かって来る――それは間違いなく王国兵士達だった。
「獣人どもを蹴散らせ!」
森に入って来た兵士達に、立ち塞がっていた獣人は動揺を見せ、動きを鈍らせた。そこへすかさず兵士達は切りかかって行く。……私は、助かったの?
「陛下!」
呼ぶ声に視線を移した時だった。
「危ないっ――」
はっとして気付いた背後には、獣人が武器を振り上げる姿があった。間に合わない――と身をすくめた瞬間、獣人の胸に矢のように飛んで来た剣が突き刺さった。その一撃で動きを止めた獣人は、息を詰まらせ、ばたりと地面に倒れ込む。
「陛下! ご無事ですか」
駆け寄って来たのはルギル隊に所属する兵士だった。倒れた獣人から突き刺さったルギルを抜き、すぐに周囲へ警戒の目を向け始める。
「なぜ、あなた達がここに……」
「もちろん、陛下をお捜しに参ったのです。さらわれたのならば、この森の辺りだろうと」
「なんて危険なことを……ここは獣人族の拠点だというのに」
「危険を冒さなければ陛下のお命をこうしてお救いすることは叶わなかったでしょう。……さあ、急いで森を出ましょう。先に馬を用意しております」
「他の者達は? まだ戦っている……」
獣人達は多くの兵士に襲われ、かなり足並みを乱されて散り散りになっている。だがその数は減っているようには見えない。ルギルでなければ、やはりそれは難しいようだ。
「我々の目的は陛下を奪還することです。陛下がこの森をお出になられたら、ただちに退却する手筈ですので、ご心配なさらず」
「そう……それならば、急いで行きましょう」
ルギル兵と共に、私は戦闘が行われる間を縫って、まばゆい出口の先へ向かった。
「陛下、こちらです」
久しぶりに見る青空の下、爽やかな風が流れる広大な草原に出ると、兵士が手綱を引いて馬を連れて来た。
「こちらにお乗りください。私が先導いたします」
そう言ってルギル兵は別の馬にまたがった。他にも待っている騎馬がいる。私のための護衛なのだろう。騎乗した私は彼らの様子を見回した。
「……退却命令を出してくれ。こちらは陛下を東領へお連れする」
馬の上から伝令兵に指示すると、ルギル兵は握った手綱をピシャっと振った。
「では、参りましょう」
走り始めた馬の後ろに付き、私も手綱を振って馬を走らせる。その後ろには護衛の騎馬が続く。これで、本当に助かったのだ。獣人族の拠点から逃げ出し、生き伸びることが出来たなんて、何だか信じられないが、けれど私はこうして無事に戻れるのだ……!
東領に到着すると、捜索の準備をしていた兵士達と共に、東領主メラーが血の気を失った顔で私を出迎えた。聞けばメラーは、援軍要請を出したせいで女王がさらわれてしまったと自分を責め続けていたらしい。万が一のことがあったら自分の命であがなうつもりだったとも。私は彼に何の責任もないと笑いかけ、その心の重圧を取り払ってやった。責任があるのは誰でもない、この私なのだ。普段とは違う獣人の動きを甘く見てしまった私の落ち度だ。今はそれを悔い、反省するばかりだ。
すでに知らせは届いていたようで、数時間後には城から迎えの馬車が到着した。恐縮するメラーに見送られ、私は約一日ぶりに帰城を果たした。
「陛下だ!」
「陛下がお戻りだぞ!」
「お元気そうでよかった」
馬車から降りると、待っていた兵士や官が安堵の笑顔を見せた。……よかった。また皆と会うことが出来た。これほど嬉しいことはない。一時は諦めかけもしたが、そうせずに済んで本当によかった。それも私を支え、助けてくれた皆のおかげだ。
「ティラ!」
城内へ向かおうとすると、中から二人の人影が駆け寄って来た。
「……スヴェン!」
一番会いたかった姿に、私も駆け寄り、互いに強く抱き締め合った。その感触と温もりを感じると、胸には込み上げるものがあった。
「君がいない間、私はまるで生きた心地がしなかった。だがやっと戻った……おかえり、ティラ」
「たった一日いなかっただけよ。大げさね……」
「そんなことはないよ。君には一日という時間以上の危険が起きていたんだ。その無事を祈り、待つことしか出来なかった私の身にもなってみてくれ」
「……そうね。ごめんなさい。大変な心配をかけて」
私はスヴェンの顔を見つめ、謝った。
「……泣いているのかい? 君にしては珍しいね」
目元に滲んだ涙を私はすぐに拭った。私は人前で泣くのが嫌いだ。でもスヴェンと会えた喜びが勝手に涙を滲ませていたらしい。
「緊張の糸が切れただけよ。それだけ……」
「俺にも迎えの言葉を言わせてくれないか?」
ふと横を見れば、腕を組んでこちらに苦笑いを見せるイーロの姿があった。
「それはすまなかった。イーロも随分と落ち着きをなくして心配していたからね」
スヴェンはそう言って私から手を離した。
「当たり前だ。目の前で助けられなくて、さらわれたんだぞ。心配どころじゃなかった」
そうだ。イーロは私のために危険も顧みず、前線まで来て助けようとしてくれたのだ。戦闘など苦手なはずなのに。
「イーロにも迷惑をかけてしまって……本当にごめんなさい。それと、ありがとう」
「まったくだ。俺に助けられるような戦い方じゃ、この先が思いやられる。ちゃんと考えた戦いをしてくれ」
「おい、イーロ、ティラは無事に戻ったばかりだ。何も今そんなことを言わなくても――」
「いいのよスヴェン。その通りなのだから。こうなったのは私の甘さよ」
普段と同じ感覚で戦い、獣人達の動きの異変も軽く見てしまった。これからはやつらの見方を少し変えるべきかもしれない。頭を使った戦いも出来るのだと。
「まあ、そういうことだ。……ところで、ルギルのほうも無事か?」
私は腰に提げたルギルを見せながら言った。
「ええ。欠けたりはしていないけれど――」
「ああっ!」
私が言い切る前にイーロは大声を出すと、ルギルを勝手に取り上げた。
「ちょ、ちょっと、危ないでしょう」
「全然無事じゃないじゃないか! ここ、壊れてるぞ!」
刃に埋め込まれた石が粉々にされているのをイーロは目を吊り上げて示した。怒ることは予想していたが、ここまで感情を見せるとは……。
「そ、そうなのよ。知らぬ間にそうなっていて。でも私ではないのよ? 獣人がやったみたいで……」
「だろうな。あいつらの馬鹿力じゃなきゃ、そう簡単には壊されないはずだし」
「けれど、剣自体を壊されなくてよかったわ。その飾りの石だけなら戦いに支障は――」
「何言ってるんだ。俺達にとっては剣よりも、こっちのほうが大事なんだよ!」
「大事? その石が?」
首をかしげて聞き返すと、イーロは一瞬視線を泳がせ、そしてルギルを見つめたまま言った。
「いや……これは、俺達にとっては高価な石なんだ。そういう意味で大事ってわけで……壊れたままじゃあまりに不格好だ。しばらくこっちに預けてくれ。直してくるから……」
そう言うとイーロは駆け足で城内へ消えて行ってしまった。
「……ティラよりルギルが大事とは。薄情な羽人だ」
スヴェンは呆れた口調で言う。
「少し様子がおかしいようにも思えたけれど……」
「飾りが壊されたことが、よほど衝撃だったんだろうさ」
光を放つ不思議な丸い石……私は単なる飾りという認識を持っていたけれど、羽人にとってはそうではないのだろうか。高価な石だから大事? しかし獣人を切る剣に埋め込んだのなら、壊される可能性は当然あるわけで、それが嫌ならば初めから埋め込む必要はないはずだ。けれどそうしなかったのは、何か埋め込む理由があったからとも考えられる。職人のこだわり? 羽人族の美意識? 剣の重さの均衡のため? いろいろ考えられるが、人間の私ではその答えにたどり着くことは出来そうにない。ルギルに関しては知りたいことは多くあっても、羽人族は何一つ答えてくれたことはないのだ。
「さあ、行こう。君は部屋でしばらく休んだほうがいい」
背中を押され、私はスヴェンと並んで城内へと向かう。
「まだ休めないわ。さらわれた先でのことを皆に伝えないと」
「それはいつでも出来るよ。まずは体を休めるのが先だ」
「獣人族の拠点は森の奥にある洞窟だったの」
「洞窟? ティラはそこに捕らわれていたのか?」
「ええ。それと逃げ出す時に男性の人間が――」
その時、ぐらっと体が傾き、私は咄嗟にスヴェンの腕につかまった。スヴェンも私の腰を支え、どうにか転ばずに済んだ。……足がもつれてしまった。自分が思うより疲労は溜まっているらしい。
「……話は君が十分に休んだ後にしよう。いいね」
そう言われて、私は素直に聞き入れるしかなかった。
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