六話

 どれくらい運ばれ続けたのか定かではないが、おそらく一時間以上は経っているはずだ。獣人の肩に担がれた体は走る振動を受け続け、鈍い痛みを感じ始めている。もう日が暮れてしまったのか、当たる空気は肌寒い。一体いつまで走り、どこまで運ばれるのだろう。いい加減下ろしてほしいと思う一方で、下ろされれば、そこで今よりましなことが起こるはずもないわけで、私は恐怖に身を硬くしているしかなかった。


 すると、走っていた獣人の足が緩み始め、やがて止まった。そして周囲で獣人達が話し始めた。四、五人はいるだろうか。低い男の声……だが言葉はまったくわからない。感情的ではなく、落ち着いた雰囲気だ。私のことを話しているに違いないが、殺すか、人質にするか……とでも話し合っているのかもしれない。


 そんな声に耳を傾けていると、私の体はおもむろに地面に下ろされた。頬には土の感触が伝わる。ここはどこなの? 草原は抜けたようだが――どうにか手掛かりを探ろうと思っていると、再び体は持ち上げられ、獣人の肩に担がれた。運び手を交代したようだ。会話の声が途切れると、私を担いだ獣人は数人の仲間と共にどこかへ歩き始めた。走らないということは、もう危険がなく、急ぐ必要もないということ……もしかしてここは、獣人族の領域内なのか?


 しばらくすると、肌に触れる空気が少し暖かいものに変わった気がした。暖められた部屋の中のような感覚だ。屋内に入ったのだろうか。他にもさまざまな匂い……焼かれた肉のような香ばしいもの、濃い緑に、埃っぽい匂い。それらがよくわからない匂いとごちゃ混ぜになって鼻に届く。おそらくそうだ。ここは獣人族の生活の場――拠点の中に違いない。


 獣人の足が止まった。そしてがたがたと物音がすると、私の体は下ろされ、背中を軽く押された。縛られた足で歩けるわけもなく、私は前に傾き、両膝を付いて止まった。すると背後で再びがたがたと物音がして、獣人達の足音が遠ざかって行った。……私は、一人にされたのか?


 膝を付いた姿勢でじりじりと移動し、物音のしたほうへと近付いてみる。そこにはざらざらとした感触の何か――匂いや硬さから木材らしきものが組まれ、行く手を塞いでいる。私をここに閉じ込めたのか……。木組みの壁に寄りかかり、私はこの状況を考えた。


 獣人達はこれまで人間を襲いはしても、さらうなんてことは一度もなかった。私は、獣人の目的は羽人と、それを守る人間を退けるだけだと思っていたが、こうしてさらわれた今、獣人は従来のやり方を変えようとしているのかもしれない。では私をさらって何をしようとしているのか。真っ先に思い付くのは、やはり人質。これを知らせ、王国から何かを引き出そうとしているのかも……いやでも、獣人族とは言葉が通じない。知らせたところで要求は伝わらないし、意思疎通が出来なければ王国をただ激怒させ、戦争に向かわせるだけになる。そんなことがしたいのなら、わざわざ人質を取る手間はいらないだろう。


 一つ疑問なのは、なぜ私がさらわれたかだ。獣人にとって厄介なルギルを持つ私より、他の兵士のほうがより簡単にさらえるはずだ。でもそうはしなかった。あの時獣人は私を見つけた瞬間、確実に狙いを定めた。逃げるふりをしながら私を囲い込んでいった……あれは、初めから決めていたことのようにも思える。獣人達がやけに密集していたのもそうだ。個々で戦うとルギルで倒される確率は上がる。だが集団でいれば連係や挟み撃ちも可能だ。しかし、だとしてもルギルが脅威なことには変わらない。それを承知で私をさらったことに、何か理由があるのだろうか。普通に考えれば私が王だからと言えるが、獣人はそれを把握していたのか? 可能性はあるだろうが……獣人族の情報能力を知らない私には、何とも判断出来ない。


 他にさらわれた理由とすれば、公開処刑、のようなことだろうか。私達人間が襲われ、多くの命を奪われたように、獣人も私達に多くの命を奪われている。それに怒りや恨みを覚える者はいるはずだ。その鬱憤を晴らすために、仲間達の前で人間の私を八つ裂きに――そんな自分の光景を想像してみて、私は震えるような恐怖と吐き気を覚えた。野蛮な獣人ならやりかねないが、しかしここでも同じ疑問が湧く。なぜ私なのかと。鬱憤を晴らすのなら誰でもいいはずだ。やはり獣人は私が王だと知っているのか……? だから他の兵士には目もくれず、私だけを狙ってきたのか……。


 どうであれ、戦場で殺さずにさらってきたということは、やつらが何か考えているのは確かだ。もし処刑をするのなら、その前に人間らしく裁判でも開いてくれるといいが……まあ、結果の決まった裁判など意味はないか。私はこのまま捕らわれ続け、人知れず死ぬのか、殺されるのか、どちらにしろ待っているのは絶望だけだろう。


 何も出来ない状態のまま、私は座り込んでただ耳を澄ませていた。遠くのほうから獣人達の声が聞こえるが、意味がわからなければ雑音にしか聞こえない。せめて、この手だけでも自由になれば。何度かもがいてみたものの、体力の無駄だった。手足を縛る紐は固く結ばれ、緩む余地はまったくなかった。目隠しされた暗闇には様々な顔が浮かんでは消えていく。スヴェン、妹夫妻、イーロ、そして私を助け、共に戦ってくれた臣下や兵士達……再び顔を見る機会は、もう訪れないのか。


 うなだれていた私の耳に、近付く足音が聞こえた。はっとして顔を上げると、その足音はすぐ側で止まり、がたがたと物音を立てる。またどこかへ連れて行くのだろうか――私は警戒し、座った姿勢で後ずさりした。


「キェルダムット、イレーン」


 それは穏やかな口調の女性の声だった。おそらく私に言っているのだろうが、意味がわからなければ反応も出来ない。


「ロフィンジー、クバウ、ネフメラ」


 さらに言われた時、カタンと何かが置かれた音と共に、先ほど感じた香ばしい匂いが強く漂ってきた。……もしかして、料理を置いたの?


「ソル、ベフマーゴ……」


 獣人が動く気配に私は身を硬くした。すると頭に何かが触れてきた。


「なっ、にを……!」


 私は抵抗しようと頭を振るが、それを獣人は手でがっちりと止めた。怪力の恐怖に動けないでいると、突然視界に光が差し込んできた。


「え……?」


 目元からはらりと目隠しが落ち、私はようやく暗闇の世界から解放された。その目の前にいたのは、長い黒髪と額に一本の角を生やした、女性の獣人だった。驚く私に微笑みを向けてくる。


「ハイニゼ、ノッツ、ロフィンジー、クバウ」


 言いながら黒髪の獣人は床に置かれた皿を示した。そこには細切れにされた肉と野菜が茶色いスープに浸っている。香ばしい匂いはこれか。つまり……この獣人は私に料理を食べろと言っているのか? だから目隠しも外して――


 すると獣人は立ち上がり、今度は私の後ろへ回った。一瞬緊張が走ったが、すぐにそれは消えた。しゃがんだ獣人は後ろ手に縛られた紐を手早く解くと、私の両手を自由にさせた。獣人もさすがに犬食いはせず、食器を使うようだ。


「……コアノ、ザンケッタ」


 私の前に戻った獣人は、服のポケットから木製のスプーンを取り出し、私に差し出してきた。使えということだろう。私は恐る恐るそれを受け取る。


「ディンシー、エブヘイル」


 獣人は笑みを残し、木組みの格子をくぐって丁寧に鍵をかけ、出て行った。がたがた音を鳴らしていたのは、あの格子の扉だったようだ。その向こうの通路の壁には小さな松明がかけられ、私のいる部屋内も照らしている。周囲を眺めてみると、ここは洞窟のようで、天井も壁もでこぼこした土がむき出しになっている。獣人達の手で掘られたのだろうか。獣人の大きさに合わされたように、部屋は広く、天井も高い。人間の私には無駄に空間のある部屋だ。隅々を見ても何も置かれていない。そしてあの格子の扉――ここは私のために用意したか、あるいは捕らえた者を押し込むための部屋なのだろう。いわゆる牢屋みたいなものか。一国の王がこんな場所に入れられるとは夢にも思わなかった……。


 周囲の観察を終え、私は床に置かれた料理を見下ろした。見た目はシチューのようでもあるが、それとは匂いもスープも少し違う。けれどまずそうな印象はない。美味しそうな味は想像出来る。だがしかし、このまま食べてしまってもいいものか。毒が入っていないとも限らない。これを運んできた獣人は笑みを見せていた。危害は加えないと思わせて、毒入り料理を食べさせようという魂胆だったり……いや、そんなことに意味などあるのか? 殺すつもりならとうにそうしているし、苦しめたいのなら毒など使わなくても出来ることだ。むしろ料理を持って来たのは、殺すつもりはないという意思とも受け取れる。今のところは、と付け足す必要はあるが。


 この料理に毒が入っている可能性は低い。そして私は今空腹状態だ。出される料理をずっと拒否して、こんなところで餓死するわけにはいかない。逃げる機会をうかがうためにも、食べて体力は保っておかなければ――私は木製のスプーンを握り、スープの入った皿を持ち上げた。残る疑心がスプーンを握る手を鈍くするが、私は意を決して皿の中に突っ込んだ。


 浮かんでいる野菜は芋のようだ。だがこの肉は何の肉だろうか。しっかり火は通っているようだが、食べても問題のないものだろうか――小さめの肉をすくい、私は少しだけかじってみた。歯ごたえはやや硬いが、味は……まずくない。と言うより、食べたことのある味だ。これは王国でもよく食べられる鹿肉か? 私が食べた時はもう少し柔らかかったが、それはおそらく料理の仕方の違いだろう。とりあえず、食べてもよさそうだ――疑いを薄くした私は空腹を満たすため、黙々と食事を続けた。出されたのはこのスープだけだったが、それなりに腹は一杯になった。食後のお茶でも飲みたいところだが、水すらないのでは我慢する他ない。


 食事を終えても何も出来ない私は壁に背を預け、格子の扉の外をぼーっと眺めるしかない。見計らった獣人が皿を取りに来るかと思ったが、その様子は一向になかった。おかげで両手は自由のままだが、だからと言って扉の鍵を外すことも、壊すことも出来るとは思えない。それに逃げ出すにしても、両足は未だに縛られたままだ。解こうにも怪力で縛った紐は私の力では解けない。隙を見つけたとしても、走れないのでは逃げることなど到底無理だろう。何か方法はないものか。足を縛る紐を解く方法――考えながら自分の体を見下ろした時、私はふと思い出した。一つあった。紐を解くのではなく、切る方法が。


 戦場に出る時、私の武器は基本的にルギルだけとなり、他に武器は持たない。だが万が一ルギルを落としたり奪われた場合を想定し、そこへ助けが入るまでの急場をしのぐために、籠手の内側にナイフを仕込んであるのだ。幸いこれまで一度も抜いたことはなく、その存在をすっかり忘れていたが、今がまさに想定された急場で、役に立つ時ではないか。


 私は左腕の籠手の下に手を差し込み、隠されたナイフを引き抜いた。まだ使われていないだけあり、傷もなく綺麗な状態だ。私はそれを握り締め、早速足の紐を切りにかかる。獣人も私を捕らえるのなら身ぐるみを剥がすべきだった。邪魔なルギルを取り上げたことで一安心してしまったのかもしれない。こんなところまで頭が回らなかったのだろう。


 プツッと紐は切れ、両足も自由を取り戻した。とりあえずナイフを籠手に戻し、私は立ち上がって扉の外の様子をうかがってみる。遠くからは相変わらず獣人達の声が聞こえるが、こちらにやって来る人影はない。一応格子の扉を揺らしてみるが、頑丈に作られた扉はがたがたと音を鳴らすだけで、やはり壊せそうにない。


「はあ……駄目ね……」


 私は壁際に戻り、へたり込んだ。ここからは自力では出られない。そうなると狙うべきはここへ来る獣人だけだ。その時に開けられる扉しか逃げ道はない。私に食事をさせたということは、まだ生かしておく気があるということ。ならば時間が経てばまた料理を持って入って来る可能性は十分にあるはずだ。そこでナイフで切り付け、怯ませた隙に扉から――思い付く方法はこれしかない。だが上手くいっても、部屋の外へ出てから逃げ続けられるのかどうか、それが問題だ。ここにはどれだけの獣人がいて、どれだけ広い場所なのか、何も情報がないまま動くのは危険ではある。しかし王国からの救助を待ち続けるわけにもいかない。獣人が本当に私を殺す気がないのか確証を得てはいないのだから。逃げる機会があるのなら、それを逃してはならないだろう。こんな薄暗い洞窟からは一刻も早く抜け出したいものだ。しかし食事は終えたばかりだ。次に運ばれて来るとしても数時間は待たなくてはならない。


「……暇ね……」


 壁に寄りかかり、扉の向こうの松明の明かりを見つめる。変わらない景色……獣人が横切るでもなく、耳を癒すような音楽が流れてくるわけでもない。遠くからのかすかな雑音だけの、空気が静止したような部屋の中。揺らめく松明を見つめているうちに、私の瞼は徐々に重くなり始めた。こんな状況で寝ている場合ではないと己を叱咤するが、にじり寄る睡魔はしつこく私の意識を奪おうとしてくる。やがて視界はぼやけ、とうとう睡魔は私の意識を奪い去っていった――


「……!」


 まどろんでいた意識が大きな音で目覚めた。はっと気付いて瞬きをした正面――扉の向こうの通路には、いつの間にか大勢の獣人が集まり、わからない言葉でわめき散らしている光景があった。一体、何の騒ぎなの……?


 わめいているのは武装した獣人達で、それを私服姿の獣人がなだめようと必死に話している。喧嘩、だろうか。それならわざわざこの部屋の前でやらなくても――


 するとわめく獣人の一人が扉に手をかけ、強引にこじ開けようとし始めた。その目は中にいる私を恐ろしいほどに凝視してくる。……何か、危険な雰囲気を感じる。


 だがなだめる獣人はすぐに扉の前に立ち、それを阻止した。身振りで開けるなと言っているようだった。けれどわめく獣人達は納得出来ないようで、皆で詰め寄りながら大声を浴びせている。その時折、扉越しに私を指差し、怒りの眼差しを向けてくる。そんなやり取りを見ていれば、会話の内容も何となく想像が出来た。わめく獣人達は人間の私を殺せとでも言っているのだろう。なぜ生かしているのかと疑問をぶつけているのかもしれない。それを捕らえた側の獣人が必死になだめ、止めているということだと思う。だとすると、私を捕らえたのは一部の獣人の考えだったのか? 全体で考えたことではなく……。


 そのうち新たな獣人がなだめに入ると、わめいていた獣人達は悔しそうな表情を浮かべながらも、諦めて扉の前から離れて行った。それを見送り、私服姿の獣人も反対の方向へと消えて行った。考え方や心情的な相違からのいざこざだったのだろうか。獣人族はこれと決めた一つの方法や思考しか持たないものと思っていたが、そう単純な種族でもないのかもしれない。


 戻った静けさの中で、私はただただ時間を持て余すだけだった。出来ることは通路の奥からの物音に耳を傾けるくらいで、あとは座っているしかない。暇な人間には、やはり睡魔が忍び寄るようで、去ったはずのそれが再び私に手をかけてくる。心地いい眠気に意識を取られそうになりつつ、だが懸命に抗い、けれど瞼はどうしようもなく重く、それでも自分の頬を叩いて目覚めさせ……そんな内なる戦いを長々と繰り返して、すでに時間の感覚などわからなくなった頃だった。


 がたがたという音に私は顔を上げた。扉の前には長い黒髪に一本角の女性――待っていたあの獣人だ。扉を開け、入って来るところだった。やはり予想通り、再び来た……。


 私の視線に気付くと、獣人は薄く笑んで歩み寄り、私の前にかがんだ。


「フェックナ、クバウ」


 そう言うと手に持っていた赤い果実の房と器に入った水を床に置く。今回は料理ではなく、果物だけらしい。まあ、房の果実を全部食べれば満腹にはなるだろう。でも私は食べるつもりはないが……。


「……ドゥアニエ」


 獣人は小首をかしげて言う。動かない私に食べろと勧めているのだろうか。黙って見ていると、獣人は前回の食事の食器を回収し、立ち上がった。


「ディンシー、エブヘイル」


 笑みを見せ、獣人は扉へ向かおうとする――私はその扉を確認した。この獣人は入って来る時には鍵をかけていなかった。逃げ道は今まさに開いている。計画通り、動く時だ……!


「……待ちなさい」


 声をかけたと同時に、私は水の入った器を握った。


「アム――」


 獣人がこちらへ顔を向けた――その瞬間、私は器の水を思い切りその顔へかけた。


「ハグッ……」


 驚いた声を上げる獣人を横目に、私はその脇をすり抜け、扉へ駆けた。


「!」


 だが後ろから獣人に肩をつかまれた。私はすぐに籠手からナイフを抜き、つかむ手に刃を振った。


「ハッ――」


 獣人は切られる寸前に手を引き、後ずさった。その顔にはもう笑みはなく、震え出しそうな表情しかなかった。何だか、自分のしていることに罪の意識を感じてしまう……いや、悪いのは私をさらった獣人であって、これは悪いことでも何でもない。身を守るための正当な行動だ――ナイフで牽制しながら私は扉の外へ出ると、左右に伸びる通路を見渡す。どちらも先は曲がっていて、奥まで見ることは出来ない。一体どちらへ行けば出口にたどり着けるのか。


「ダイムィート、ダイムィート、ヌハカ!」


 突然獣人が扉越しに大声を上げた。まずい。仲間を呼んでいるのかもしれない――私は反射的に右へ駆け出し、通路を疾走した。


 等間隔の壁にかけられた松明の明かりを頼りに私はとにかく駆け抜けた。ここも私がいた部屋同様、天井も壁もでこぼこに掘られたような土がむき出しになっている。洞窟なのはあの部屋だけでなく、すべての部屋がそうなのかもしれない。つまり獣人族は森が拠点と言うより、そのどこかに掘った洞窟に拠点を作っているのだろう。これは今まで知り得なかった情報だ。伝えればこれからの作戦にも必ず役立つはず……しかし今はそれを伝えられるかが最大の問題だ。


「出口は、どこなの……!」


 長い通路をいくら走っても、外の光がどこにも見えない。行くべき方向を間違えたか。こちらではなく、左の通路の先に出口があったのかもしれない。しかし今さら逃げてきたほうへ戻るわけにもいかない。あの黒髪の獣人が仲間と共に追って来ているはずだ。進むしか道はない。幸いこの辺りには獣人の姿がない。鉢合わせをする前にどうにか出口を見つけないと――


「……!」


 通路の角を曲がった時、飛び込んできた獣人の姿に私はすぐに身を隠した。そして近くにあった部屋へ逃げ込む。考えていた側から鉢合わせをするところだった。壁越しに気配を探るが、どうやら獣人はこちらへは来ないようだ。慎重に通路へ顔を出し、どこにも動く影がないことを確認し、私は一息吐く。と、頬に触れる空気が少し冷たくなっていることに気付き、私は通路に手をかざしてみた。走っている時にはわからなかったが、緩い風が進行方向から流れて来ている……。


「……風の入り込む場所が、この先に……」


 すなわち、出口の可能性がある。方向は間違っていなかったかもしれない。私は周囲を警戒しながら通路の先へ進んだ。


 進むたびに空気は冷たさを増し、風ははっきりと感じられるようになってくる。壁の松明も小刻みに揺れている。もう近い。出口はもうすぐ――


「……あった!」


 角を曲がった視線の先、長い通路の奥――そこには太陽の光が筋状に差し込む神秘的な森の景色が、丸い出口の向こう側に広がっていた。私は吸い寄せられるように駆けて行った。


 だがその手前である物に目が留まった。壁に立てかけられた石斧や石槍などの獣人達の武器……その中に混じって明らかに作りの違う武器があった。


「……ルギルだわ」


 重なる武器をどかし、手に取る。握り具合や重さは、間違いなくルギルだ。私から奪ってここに放っておいたらしい。大きな傷やひびはないかと確認していると――あった。剣としては問題はないが、そこに埋め込まれた石が壊されていた。何かを叩き付けたように粉々だ。しかし逃げる寸前で取り戻せたのは幸運だった。イーロは怒りそうだが。


「な、何者だ」


 突然の声に私は逃げ腰になって振り向いた。ルギルに気を取られ、近付く気配に気付けなかった――緊張に強張る動きで取り戻したばかりのルギルを構える。が、そこに立っていたのは獣人ではなかった。


「……あなた、人間?」


 その姿に驚いた。着ているものこそ獣人族の服装だが、背丈は私と同じくらいで細身、真っ白な頭には角は見当たらず、そして何より、私達の言葉を発したわけで、その人物は確かに、ここにいるはずのない人間だった。


「もしや……あなたは、先日捕らえたという、王国の……?」


 年老いた男性は眉間に深いしわを刻みながら、うかがう目で聞いてきた。


「ええ。捕らわれたけれど、こうして逃げ出してきたの。……もしかしてあなたも私と同じように?」


「わ、私は……」


 戸惑いを見せる老人に私は近付いた。


「もう大丈夫よ。こうしてルギルもあるわ。さあ一緒に逃げましょう」


 私の他にもさらってきた者がいたとは。しかしこれで助け出せる――私は老人の手を引こうとしたが、なぜか老人はそれを拒み、後ずさる。


「怖がることはないわ。私はルギルの扱いに慣れているの。だから――」


「それは、出来ない」


「何かあれば私があなたを守って――」


「逃げるつもりはない」


 私は首をかしげるしかなかった。


「何を言っているの? 今逃げなければまた――」


「どうか、獣人を恐れないでほしい」


 老人の真っすぐな目がこちらを見ていた。人間の言葉であっても、私にはその意味がまったくわからなかった。


「恐れずに、話を聞いてほしい」


「あなたは、一体……」


 その時、通路の奥から獣人達の声と物音が聞こえてきた。このままでは見つかってしまう。


「……とにかく、話は後で聞くわ。逃げましょう!」


 私はもう一度手を引こうとしたが、やはり老人はそれを強く拒んだ。その顔に逃げる意思は微塵もない。なぜ逃げようとしないのか。再び捕らわれの時間を過ごしたいとでも言うのだろうか。通路の奥から聞こえる物音は、もう間近に迫っている。これ以上説得していられない――私は決断するしかなかった。


「……ごめんなさい!」


「ああ、待ってくれ――」


 呼び止める声に背を向け、私は洞窟から日の差し込む森の中へ駆け出した。澄んだ空気と濃い緑の匂いを吸い込み、脇目も振らずに足を動かす。その背後からかすかに声が追ってきた。〝我々は敵じゃない〟……そう聞こえた。

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