五話

 兵と共に城を出て三時間。私達は援軍要請のあった東領ゲルズに到着した。海に近いここは漁業が行われており、吹いてくる海風の奥には広大な青い景色が広がっている。そこから南へ視線を移すと、鬱蒼とした森が一帯を覆っているが、民が近付くことはない。この森周辺には、獣人族の拠点があると推測されるだけあり、多くの獣人が出没、目撃されている。だが東領が襲撃される回数は他の領内とあまり変わらず、森に近いからと言って獣人の数や、その被害が特に多いわけでもない。まして援軍要請するほどの襲撃を受けたことはこれまで一度もなかったことだ。それが、今回は明らかに様相が違う。


「陛下、このたびは援軍をいただき、大変感謝いたします」


 案内された天幕に入ると、東領主メラーが丁寧に会釈をして礼を述べた。だがその顔には緊張が続いているせいか、疲労も滲んでいる。


「私達に出来ることは遠慮なく言ってちょうだい。……まずは戦況を」


「はい。ではこちらへ。指揮官がご説明いたします」


 メラーは周辺地図が広がる机に私を導き、そして兵士を紹介する。


「指揮を執っているペーデルセンです」


 鎧をまとった指揮官はびしっと敬礼をした。


「私がご説明をさせていただきます……」


 そう言った指揮官の目が、私の隣を気にするようにちらちらと動く。……言っておかないと気になってしまうか。


「……ああ、この者は見ての通り羽人族で、ルギルの手入れをしてくれるイーロよ」


「よろしく」


 イーロは気さくに挨拶をする。


「その背中のもの……イーロ殿も、戦いにご参加するのですか?」


 指揮官はイーロの背に見える弓と矢筒を怪訝そうに見つめる。


「まさか。俺じゃ犬死にするだけだよ。この弓は自衛のために念のため持って来ただけだ」


「……ということだそうよ。邪魔はしないから、気にしないで」


「は、はあ、わかりました……それでは、ご説明のほうに」


 指揮官と共に私は地図を見下ろした。


「我々がいるこの場所から……この辺りに、獣人は現在も留まっております」


 指で示したのは、こちらの陣営から南へ一直線に向かった先……距離は思ったより近いようだ。目視でも十分に確認出来るだろう。


「向こうの数は?」


「およそ五十です」


 普段の襲撃でも、多くて二十から三十ほどだ。人間の数で考えれば大したことはないが、それが獣人となると大きな違いとなる。基本的な考え方として、獣人一人はこちらの兵士三人分に匹敵する。つまり五十人だと兵士百五十人に相当するわけだ。それをルギル隊中心に撃退するとなると、相当な時間と労力が必要になってくる。


「ここにいる兵の数は?」


「最初の衝突で少し減りましたが、まだ百三十ほどはおります」


「連れて来た兵を合わせれば、百九十、それとルギル隊……とりあえず勝てそうな数はあるわね」


「はい。ですが、気がかりなのは獣人らの動きです。最初の衝突から一旦退くと、そこから一切動こうとしておりません」


「何を考えているのかしら……向こうに増援はあるの?」


「いえ、そういった様子はないようです。こちらをうかがい、ただ留まっているだけのようで」


 私は首をかしげるしかなかった。こちらの様子を見るだけで、何も動かないなんて……完全に退却しないのは、まだ戦う意思があるからだとは思うが、ではなぜ今まで通りのように力尽くで突っ込んで来ないのだろうか。


「罠でも仕掛けてるんじゃないのか?」


 イーロが横から言った。


「罠ってどんな?」


「たとえば、落とし穴とか、伏兵とかさ」


「それはないかと。穴が掘られていれば、獣人はそれを避けて来るはずですが、最初の衝突でそのような動きはなく、こちらの兵も穴に落ちた者はいません。伏兵も、側に身を隠せる場所があれば考えられますが、現在獣人らの周りにはそのようなものはありません。何か細工を施そうにも、こちらから獣人の動きは丸見えですから、手の内は隠せないでしょう」


「……あっそ」


 すべて否定されたイーロは、つまらなさそうに腕を組む。


「何かを待っているのか……留まってどのくらいの時間が経っているの?」


「陛下がいらっしゃる前からですから、五時間ほどでしょうか」


「五時間も、何も動きがない……」


 やはり今までにない獣人の動き……そこには何かしらの思惑があるようにも思える。もし私が獣人側ならば、そんなに留まって一体何をしたい? 増援を待つでもなく、罠を仕掛けるでもないなら……。


「こっちを飽きもせず観察して、何が楽しいんだか」


 イーロがぼそりと呟いた。観察か。それにしては数が多すぎる。そんなことをわざわざ五十人でやる必要はないはずだ。そういうことをするにしても、こちらから丸見えの位置で堂々とするものだろうか。それにやつらは一度戦いに来ている。兵士の注意を向けさせてから観察など、普通ならやりにくいと考えるものだ。あまりに不自然すぎる……不自然……いや、待って。少し考え方を変えてみよう。これまでの獣人の戦い方を思えば、これは不自然だと言えるが、今回の行動すべてが思惑の範ちゅうだとするならば、一度戦ったことにも意味があるのでは……?


「指揮官、最初の戦いはどちらから仕掛けたの?」


「獣人です。歩哨が見つけ、ただちに各隊を集めた直後に、獣人らは襲ってきました」


 兵を集めた後に獣人は襲いに来た……それは偶然? 五十人もいるのだから、兵が集まる前に制圧することも出来たはず。けれど急がなかった。それはなぜか……本気で襲うつもりがなかった? それならなぜそんな真似を……。


「……もしかして」


 兵を集めさせ、自分達に意識を集中させたかったのでは。その理由は――


「おとり、かもしれない」


 指揮官は怪訝な目を向けてくる。


「どういうことでしょうか」


「獣人は私達の戦力を東領に注がせようと、だから何もせず留まり続けているのかも」


「つまりあの獣人らは、こちらの意識を引くためのおとりだと?」


 私は強く頷く。


「俺達を引き止めて、じゃあ獣人は何をしようとしてるんだよ」


 イーロと指揮官を見ながら私は言った。


「戦力が手薄になった、中央領への襲撃、かもしれない」


 二人の表情は途端に険しくなった。


「城下を襲うのが本当の目的だっていうのか」


「しかし陛下、獣人は我々が援軍を要請したことなど知る由もありません。ましてルギル隊がいることも――」


「予想されていたかもしれないわ。普段よりも大人数で襲えば、警戒したこちらが兵を増やし、ルギル隊も現れるかもと。……もしかすると、兵と言うよりもルギル隊が目的とも考えられるわね。獣人にとって一番目障りなものはルギルでしょうから」


「そのために、黙って長時間待ち続けてたわけか。それじゃあ今頃、別の獣人は……」


「城下へ向かっている可能性があるわ」


「そ、そんな……一体どうしたら……」


「決まっているでしょう。さっさと戦うのよ」


 私は急ぎ足で天幕を出た。頭上を見上げると、浮かぶ白い雲の端が朱に燃えていた。日は暮れ始め、遠くの空は夕焼けに染まろうとしている。その下では多くの兵士が準備し、戦いに備えている。出来れば暗くなる前に終わらせたいが、何せ今回の敵の数は多い。いつも通りにはいかないかもしれない。だがそれでもやるしかないのだ。


「おとりを急いで蹴散らし、東領の安全を確認したら、私達はただちに引き返すわ。……指揮官、兵に指示を」


「りょ、了解いたしました」


 私もルギル隊の元へ行こうとすると、メラーが不安な顔で近付いて来た。


「陛下、ご武運をお祈りいたします」


「獣人と何度戦っていると思っているの? そんな顔をしないでちょうだい。こちらまで不安になりそうよ」


「も、申し訳ございません。陛下が戦われるお姿を拝見するのは、これが初めてなもので……仰る通り、ご経験のある陛下に私の心配など不要ですね」


「それでもまあ、油断しないに越したことはない。明らかにいつもとは違う状況なんだ」


 ふらりと来たイーロが、珍しく真剣な表情と口調で言った。


「わかってるわ。あなたも、その弓で獣人に余計なちょっかい出さないでよ」


「そんな危ないことするか。戦いはそっちに任せるよ。……じゃあ、気を付けてな」


 頷き、私は準備の整ったルギル隊を引き連れて援軍の兵の前に立った。皆、引き締まった表情でその時を待っている。この全員を無事に連れて戻りたいが、今回ばかりはそう簡単に済む戦いではないだろう。


 だだっ広い草原を傾いた日が照らす。ここから奥へは緩い下り坂になっており、その先には五十人の獣人達が視認出来た。確かに、こちらからはやつらの動きがよく見える。何か小細工をする隙はなさそうだ。


「……?」


 眺めていると、何やら獣人達がざわめき始めた。こちらを見たり、仲間と話したりと、どこか落ち着きがない。もしかして、ルギルの存在に気付いたのだろうか。


「――ハドゥ――ニマ!」


 先頭にいる獣人が大声で叫んでいる。時折こちらを指差し、明らかに私達に向けて叫んでいるようだ。けれど獣人族の言葉はわからない。何を言っているかはその表情から察するしかなさそうだが……。


「何だあれは?」


「挑発でもしてるつもりか?」


「通じなきゃ何の意味もないだろ」


 兵達も謎の叫びに気付くが、言葉がわからないせいか意に介する者はいない。叫ぶ獣人の表情を見ようにも、ここからの距離ではそこまで鮮明に見えない。ただ大口を開け、叫び続けている。やはり挑発だろうか。


「……陛下、いかがなさいますか」


 隣にいるルギル隊の一人が聞いてきた。


「やつらなりの挑発でしょう。何も構うことはないわ」


 私は離れたところに立つ指揮官に準備完了の合図を送った。それを見て頷きを返した指揮官は立ち並ぶ兵達に号令をかける。


「構え! ……全軍、かかれ!」


「うおおおお――」


 兵達は武器を構えると、地響きのような雄たけびを上げて一斉に駆け出した。


「我らも続け!」


 私はルギルを振り上げ、連れて来た兵達と共にその後へ続いた。


 巻き上がる砂埃の先――そこにはいくつもの大きな影が見えた。獣人も攻撃を仕掛けられては、さすがに動かないわけにはいかないようだ。何かを叫び、武器を握り締めてこちらへ突撃してくる。その数は五十。果たして勝てるのか……いや、勝たなければ。やつらはあくまでおとりのはず。ここで時間を取られている場合ではないのだから。


「やああっ――」


 前方から兵達の声が聞こえる。戦闘が始まった。私は側のルギル隊に指示を出す。


「ルギル隊はすみやかに獣人を討て。他の者達はその援護に回れ」


 いつものように言い、私はルギル隊を引き連れて交戦の場へと急ぐ。


「――ぎゃああ!」


 悲鳴が聞こえたと思った瞬間、前方で数人の兵が跳ね上げられていた。まるで人形のように宙を舞い、地面に落ちて行く……あれが獣人の恐ろしい怪力だ。拳を一振りされただけで、私達人間の骨は簡単に砕かれ、体ははね飛ばされてしまう。有効な武器を持たない兵にとっては、獣人はあまりに強すぎる敵なのだ。だから私達ルギル隊が奮戦しなければならない。


「……!」


 兵の間を縫い、悲鳴の上がった元へたどり着くと、そこには獣人の集団が武器を持って立っていた。その周辺はすでに飛び散った血でまみれ、動かなくなった兵士が横たわっていた。


 すると、獣人の一人が私に気付き、顔を向けた。そしてその目をわずかに瞠目させる。


「ディ、ルーハン……?」


 独り言のようにそう言った途端、他の仲間達も私に目を向け、凝視してくる――何と言ったか知らないが、私に狙いを定めたのか?


「陛下!」


 ルギル隊は私と獣人の間に入ると、すぐに切りかかって行った。……獣人のおしゃべりに気を取られている場合ではない。ルギルを構え、こちらを見ていた獣人の一人に攻撃を仕掛ける。


「はあっ――」


 振り上げた刃を獣人の胸に向ける――が、それを下ろす前に獣人は後ろへ避け、私との距離を開けた。


「逃げられなどしない!」


 すぐさま間合いを詰め、私は再びルギルを振る――が、獣人はまたしても後ろへ避け、距離を開けようとする。……何だこれは? どういうつもりだ?


「……陛下、こやつらの動き、何か妙です。ご注意を」


 ルギル隊の一人が側に戻って来て言った。見れば集団だった獣人達は攻撃を受けて散り散りにはなっていたが、まだ一人として倒れた者はいないようだった。つまり、こちらの攻撃から逃げている――常に攻撃的だった今までの姿勢はどこへ行ったのか。逃げるにしても劣勢にならなければ背を向けることなどなかったというのに――そう怪訝に思った時、はっと思い出した。やつらは所詮おとり。ここで戦う必要などないわけで、その役目はただ一つ、私達をこの場に引き止めることだけだ。


「……おそらくこれは、時間稼ぎ」


「時間を……?」


「ええ。戦闘を長引かせ、私達が城下へ戻るのを遅らせようとしているのでしょう」


 私は大声で指示を出した。


「獣人を追い詰め、仕留めよ! 戦意をなくさせるまで逃がしてはならない!」


 再びルギルを構え、私は距離を取る獣人と対峙する。


「鬼ごっこなんて、させないわよ……!」


 近付こうとすると、獣人は後ずさりし、そして背を向けて逃げ出した。私はそれを追って駆け出す。体が大きい分、動きは人間よりやや鈍いが、広い歩幅の足は速いと言える。このまま追っても追い付きそうにない。ならば――私は地面を見渡し、倒れた兵士の傍らに落ちていた剣を拾い、逃げる獣人の足目がけて投げ付けた。


 剣は回転しながら、獣人のふくらはぎ付近に当たり、そのまま絡み付くように足の間に入り込んだ。


「イェハッ……!」


 驚いた声を上げた獣人は剣に足を取られ、勢いよく前につんのめった。……今だ! 私は獣人に追い付き、倒れた背後からルギルを振り上げた。


「!」


 その瞬間、獣人の焦る顔が振り向き、私と目が合ったと思うと、その手元から無数の何かが飛んで来た。咄嗟に腕でかばうも、その隙に獣人はまたも逃げ出していた。


「陛下、ご無事ですか!」


 付いて来ていたルギル隊の数人が駆け寄って来る。


「……ええ。何ともないわ」


 足下を見下ろすと、黒く尖った小石がいくつも落ちていた。これを投げ付けてきたようだ。腕の籠手を見ると、そこには小さな傷とへこみが付いていた。あの怪力で投げ付けられたのだ。咄嗟に防がなければ顔中が血だらけになっていたことだろう。


「加工された飛礫のようですね」


「陛下、あやつは我々が仕留めます」


 ふと視線を上げると、逃げたと思った獣人が距離を置いて、こちらをじっと見ていた。もう追って来ないのかと言わんばかりの直立不動で……。


「甘く見られたまま、終われるものですか……!」


 私は駆け出し、追跡を再開した。


「陛下! お待ちを――はっ!」


 ルギル隊の動揺した声に振り向くと、そこには私と兵士を隔てるように新たな獣人の集団が現れていた。一体、どこから現れたのか。


「くそっ……陛下、すぐに参ります!」


 獣人の壁の向こうから兵士が叫ぶ。この数を一度に相手にするのは、ルギルがあってもさすがに辛い。せめて逃げ道を作らなければ――助けに入ろうと向かった時、背後に気配を感じて私は振り向いた。


「……なっ」


 そこには先ほどまで逃げていた獣人が、すぐ目の前まで迫っていた。その右手が私の手をつかもうと伸ばされてくる――私は反射的にそれをかわし、ルギルを振って切り付けた。だが獣人もそれを避け、後ずさる。そのわずかに出来た隙から私は逃げ出し、体勢を整えて改めて獣人と対峙した。……今度は戦おうというのか。望むところよ。


 だが気付くと、獣人の横に別の獣人が現れていた。そしてその後ろからまた一人……私を追って来ていたのか?


 どさっという物音に目を向けると、私の左側に兵士が突き飛ばされていた。その向こうにはこちらを見据えて歩いて来る獣人が数人――こんなに集まられては対応し切れない。一度後退しなければ。


「……!」


 右側へ行こうとすると、その先にも大きな姿があった。石槍を振り回し、群がる兵達を弾いている。それを終えると獣人は気付いていたようにこちらを見て、歩み寄って来た。なぜこんなに獣人が密集して……。


 私は周囲を見回し、逃げ道を探る。前方、左右には私に狙いを定めた獣人達がいる。そして背後にはルギル隊と戦う獣人の集団――ここに切り込み、突破するしかなさそうだ。ルギルを構え、私は意を決して集団に向かった。


 その瞬間、視界に何かが飛び込み、構えたルギルが弾かれた。危うく落としそうになりながら崩れた体勢を急いで戻す。そうして見上げたところには、恐ろしい目で見下ろしてくる獣人の顔があった。また別の獣人……!


 間合いを取るため、私は下がるしかなかった。しかし下がったところでもう逃げ道はない。四方には獣人が立ち塞がる。どこか一方へ切り込んだとしても、他の獣人から背後を狙われるのが落ちだ。こう囲まれては無闇に動けない。一つの動きが命取りになってしまう――私は初陣以来の、激しい鼓動と恐怖を感じていた。今回の獣人達は初めから様子がおかしかった。普段以上に慎重に行動すべきだったのに、こうもたやすく追い詰められるなんて、うかつすぎた。


 それにしても、なぜ獣人達は戦い方を個から集団に変えたのか。いつもは一人一人が好き勝手に暴れるような戦いをしていたのに、今回は寄り集まり、まるで互いの様子を気にしながら戦っているようにも見える。やはりおとりを担っているからか? 仲間の動きを見ながら引き際を計るためなのだろうか?


 しかしどうであろうと、私はやつらの作戦を読めず、まんまとはまってしまったのだ。絶体絶命の窮地に。立ち塞がる獣人の向こうでは、ルギル隊の数人が集団を相手に懸命に戦っている姿が小さく見える。彼らも窮地だ。頼ることは出来そうにない。骨を砕かれようとも、自力で抜け出すしか道はない……。


 ルギルを突き出しながら牽制し、私はわずかな隙を探る。四方に絶えず目を配るが、獣人達はじりじりと距離を詰めてくる。まるで大きな壁が迫って来るようで圧迫感を覚える。これ以上近付かれては、もう完全に逃げ道が――


 シュッと風を切る音が私の耳をかすめた。そちらへ目を向ければ、横から伸ばされた獣人の腕に矢がコツリと当たり、落ちる光景があった。


「ティラ! 逃げろ!」


 遠くからの大声に私はその姿を捜す。


「……イーロ!」


 戦う兵達の中から虹色に輝く羽でふわりと飛び上がったイーロが、弓を構え、獣人に向けていた。戦う気はないと言っていたのに、なぜこんな前線まで……。


「ぐずぐずするな! 死にたいのか!」


 勢いよく放たれた矢が獣人の顔面へ向かう。だがそれを獣人は腕で簡単に防いでしまう。そもそも矢の攻撃は獣人に対してかすり傷程度しか与えられず、その他の武器よりも効果は低い。しかし使い道はある。気を引く道具として。


 イーロの予想外の登場に、取り囲む獣人達がわずかに浮足立った。その視線は遠くのイーロへ向いている――突破するなら今しかない!


「メドゥハコル、ヤオゥ!」


 獣人の一人が険しい表情で何やら叫び、イーロを指差した。すると側にいた獣人が一直線にイーロのほうへ駆け出した。


「くそっ……」


 それを見てイーロは弓を下げ、兵達の中へ消えていく。それを見届け、私もすぐさま走り出した。イーロが気を引いてくれた隙に、ここから――だが目の前にすぐに獣人が立ち塞がった。


「どきなさい!」


 私はルギルを振り、道を開く。獣人は脇へ避けるも、そこから腕を伸ばしてくる。つかまれそうになったのを再びルギルで威嚇し、走り出そうとするが、目の前にはまた獣人の姿が――一体どれだけ集まっているのか。これでは威嚇しても切りがない。


 ここで少し足を緩めたのがいけなかった。背後に気配を感じた時には、私の体はつかまれていた。後ろから腹を抱えるように獣人の腕が回っていた。


「ふ、触れるな!」


 振り向きざまに切り捨てようとしたが、その手は別の獣人に止められ、つかまれた。


「放せっ……!」


 焦りと混乱でもがく私に、何人もの獣人達が群がって来る。そして暴れる手足を押さえ付け、右手から強引にルギルを奪っていった。私の身を守る、唯一の武器を……もう、終わりだ。ここで殺される……!


 だが獣人にとどめを刺す様子はなかった。押さえ付けた手足を用意していたらしい紐で縛り上げ、そして私の体をその肩に担ぎ上げた。まさか、人質にするつもりなのか?


「なっ、何をするのっ……」


 私の顔の前に立った獣人が目元に何かを押し付けてきた。……単なる布だろうか。それを頭にぐるりと巻き付け、ぎゅうぎゅうと結ぶ。目隠しをされた。これってつまり――


 ピュイーっと甲高い音が響いた。指笛の音……獣人が吹いたのか? その途端、私を担いだ獣人が動き始めた。上下に揺れる振動から走っているようだ。周囲からは同じように走る気配と物音が聞こえる。仲間も付いて来ている……私は、さらわれているのか?


「陛下――」


「誰か、陛下を――」


 遠くから兵士と思われる声が叫んでいた。しかしそれもどんどん遠ざかっていく。やがて戦いの気配が消え、漂っていた血の臭いも、草原を渡る乾いた風も感じなくなると、私の周囲には獣人達の走る息遣いだけが残された。殺されずに、どこかへ運ばれようとしている。この先を想像して、私はただただ暗黒の奈落に滑り落ちて行く恐怖を感じていた。

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