練習用一話完結集

キツキ寒い

練習1「芸術」

「――なに……してたんだっけ…………?」


 月明かりの寝室で頭に靄がかかったような感覚に襲われる、脱力し呆然と座り込む自身の身体に僅かな違和感と安堵感を感じた。

 たった数分前まで大切な事をしていた。それが一体何なのか、一向に思い出せない。ただ、それが大切であり、またどうでも良い事であったのは確かだ。


 寝室を見渡す。

 両親の寝室。

 生活感があって散らかっている、欲に塗れた跡があって散らかっている、無欲だった跡が散らかっている。

 部屋の中央に、僕が仕上げた作品がある。

 自然と不自然が調和していた。


 一体何をしていたのだろう。

 一体何が起こったのだろう。

 一体何故何も言われないのだろう。


 右手に何かを握る感覚が蘇ってきた。

 疑問符が絶えず、ただ漠然としている。すると、頭の靄が晴れるように放課後の記憶が蘇った。


 ――学校から帰宅して、柔らかい笑みを浮かべた母が迎えてくれる。顔が良くて、スタイルも良い。エプロンを掛けていても、水商売をしていると言われれば納得できそうな、そんな容姿の母だった。持ち合わせた性格はとても朗らかで能天気。誰に対しても優しく笑顔で迎えてくれる、まるで光のような、そんな母だった。

「あら、上手に描けてるわねぇ。お母さん感心しちゃうわぁ」

 制服から着替えもせずソファでスケッチブックを開く僕に、艶やかに間伸びした母の感想が届く。

 二人が見たのはミケランジェロのラオコーン像、そのデッサンである。大理石に彫った神官ラオコーンとその息子が海蛇に苦しめられる姿。人間の欲望と醜さ、人間の闇が極端に表現されている。

 ――蛇足はない。


「今度は、お母さんとお父さんで何か描いて欲しいわぁ」

 能天気に、夕食の支度を始める。


 今でこそ悠々自適に主婦を営んでいるが、以前は父と同じ職場に勤めていたらしい。電話を駆使する仕事で、コツコツと業績も積んでいたのだと。職場の人間関係も良好で、同じく業績を伸ばしていた父と結ばれた。あたたかい家庭を築いた。


 だから思うのだ。


 ――美しいと。



「――ただいまー」

 丁度夕食が並んだ頃、父が帰宅した。ネクタイを緩めながら玄関を上がる父を、艶やかで間伸びした声と共に母が迎える。父も母と似て容姿が良い。

 仕事や僕の事なんかを話題に二人して食卓へやってくる。自然と僕も会話に織り込まれ、やがて食事が始まる。

 父も母と似て、屈託のない笑顔を持っていた。仕事をしている時も、母と会話している時も、おそらく僕と会話している時も、使っているのだろう。母は気付いているだろうし、きっと僕も気付いている。そして父も知っている。それでこそ成り立つ、あたたかい、家庭なのだ。


「この家庭を持てて幸せだよ」

 父は言う。


「同感だわぁ」

 母は言う。


 屈託のない笑顔で。

 柔らかい笑みで。

 屈託のない笑顔で

 柔らかい笑みで


 この中にいられて幸せだ――本ッ当に幸せだ。

 だから……。


 だからこそ思うのだ。


 …………思ってしまうのだ。


 ――美しいと。


 ――芸術だと。


 ――作品にしたいと。


 母も言っていた。

 いつか、お母さんとお父さんで何か描いてほしいと。

 母も願っていた。

 いつか、お母さんとお父さんで何か描いてほしいと。

 僕も望んでいた。

 いつか、お母さんとお父さんで…………この家庭で何か描きたいと。


 だから。

 だから……。

 だからだからだからだからだからだから。


「――描いた」


 極端に。

 人間の欲望と醜さ、優しさとあたたかさ。

 人間の闇と光。対極に位置する二つを引き立たせるには、やはり極端に描くしか魅せられない。両親に似たのだ。


 だから僕は……


「殺したんだ」


 ようやっと思い出した。一体何をしていたのか、何が起こったのか。

 芸術を生み出していたのだ、酔いしれていたのだ。夢にまで見た作品に、描き上げてしまった傑作に。

 見えてしまったのだ、作品の完成が。

 鼓動が高鳴る。鳥肌が全身を伝播してある種の高揚感に包まれる。


 ――しかし。

「邪魔だ」


 わざわざ深夜に始めたというのに、異変に勘づいた父に通報されかけ、抵抗された。おかげで部屋の物が散らかっている。

 それも結果オーライか。ベッドで美と化した母とはまた違った美を、父で描く事ができたのだから。

 ただ、蛇足は気に食わない、折角の美を阻害するものはなんであれ。

 少々散らかり過ぎた部屋を片す。

 そうして気づいた。右手の握られた、赤黒く艶やかに魅せる刃物を見入る。少し前まで、母が使っていた包丁。


 蘇る。

 自らの両親を、自らの手で描いた感覚が。

 己の父と母が浮かべた表情が脳裏に浮かぶ。作り物のように美しい二人で描かれた作品は、まるで彫刻のような、それこそラオコーン像のような芸術に相応しく映る。

 待ち望んだ、芸術家達の横に並んだような、そんな感覚に陥る。


 電源が入ったままの父の携帯を手に一一○番へ繋げた。数コールの後オペレーターが要件を尋ね僕は答える。


「父と母を殺しました。場所は――」


 住所を丁寧に伝え、反応を待たずに切る。通話履歴に新しい項目が追加された。

 それ以上触れる事なく、作品の中に取り込む。


 艶やかな包丁を見た。

 これで…………作品が、芸術が完遂する。


 広がったスケッチブックに、赤黒い血液が滴る。

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