第3話 侵攻
そんな夕方、国民保護法に基づくサイレンが鳴った。あの陰鬱な、海の向こうから飛んでくる弾道ミサイルの警報のときに昔から鳴っていたサイレンだ。
しかし飛んできたのは弾道ミサイルの物理弾頭ではなく、攻撃パケットだった。
戦争の始まりはこの時代、もう銃弾でも空襲でもなく、民間分野というソフトターゲットに対する容赦のないサイバー攻撃なのだ。そしてその対抗としてサイバー警察や自衛隊サイバー空間部隊が組織され訓練をしていた。
なにしろサイバー攻撃はかつてなら一部のコンピュータを止める程度だったのだが、今やサイバー攻撃は都市機能、それも生命を支えるインフラシステムを容赦なく破壊するのだ。その規模はかつての都市無差別爆撃に近い被害を起こす。
医療施設はカルテ管理だけでなく患者の生命維持装置までオンライン管理するしかなくなっているため、その麻痺は直接、患者の死を意味した。それを回避すべく接続をスタンドアローンに切り替えても、今度は電力供給が電力会社の配電網システムの妨害で絶たれてしまい、自家発電を作動させるにしてもその自家発電システムもハッキングされ物理的に破壊されることもあるのだ。
配電網の麻痺は医療施設だけでなく在宅で医療を受けている人々の生命も脅かす。そして高層建築が主体となった都市部ではエレベーターやエスカレーター、さらには各種鉄道やバスといった公共交通、そしてマイカーの走る道路の信号管理から空中ハイウェイの交通管制までもが脅かされる。
もちろんその管理者たちはその危険を察知して幾度となくレッドチームとブルーチームに分かれての厳しい対抗訓練をおこなっているのだが、現代サイバー攻撃は膨大な侵入可能性を対処しても、一カ所対処されていなければそれを攻撃側は世界中の任意の場所からこじ開け、社会や国家ごと全滅させうるのだ。
それを防ぐにはAIの活用しかない。だが日本を始めとしたほとんどの国でAIには制限がかけられていたのに対し、攻撃を仕掛けたならず者国家連合はそんな遠慮などなく容赦ない侵入と破壊を行う、国際条約で禁止された無制限AIを使うのだ。
その存在は情報機関の偵察諜報活動で5つ存在することが判明していた。そのうちの一つがこの「デジタル・パールハーバー」攻撃に投入された。
まだ一つしか投入されていないのにその破壊は人々を絶望に陥れた。
かつてテレビと呼ばれていた映像配信も、音声配信も、電話も、さらにはテキスト通信すら完膚なきまでに破壊された。
それには防衛用も民間用も区別はなかった。かつて日本では学術研究を防衛用と民生用で分けて二重投資していたが、悪しき者たちにとってはそんなことは区別の対象ではない。彼らの憎悪に対して学者たちの倫理も説得の技術も、あまりにも非力無力であった。
都市だけでなく地方も連動して麻痺が広がり、人々は「たかがサイバー攻撃」のせいでかつての都市無差別空襲や無差別毒ガス戦のオーダーで命を次々と落としていった。
真っ先に弱い医療患者や老人・子供から死んでいった。
都市はまさしくかれらの凍てつく墓標となった。
しかもこの攻撃は核兵器や毒ガスとちがい、除染の必要なく侵略者に都市や施設を明け渡すもので、忌まわしいが『きれいな侵略』として侵略者にとってはありとあらゆる意味で好都合なのだった。
悪しきAIを使ったサイバー攻撃はそれほどに残忍で卑劣な攻撃なのだ。
通常は核攻撃も毒ガス攻撃もあまりのその惨禍に仕掛ける側も躊躇し、そのせいで失敗するのだが、このサイバー攻撃はその惨禍が想像しにくく見えにくいために攻撃側の躊躇は攻撃側の想像力が豊かでなければ生まれないのだ。
それゆえ侵略がなぜいけないのかすら忘れた野蛮な侵略者にとって躊躇は一切生じない。
目の前で行われる惨劇よりもはるかに残忍でも、彼らの目には見えないし想像も付かないのでなかったのと同じなのだ。
だから誰も止めないし遠慮もないし、殺される側の哀願も届かない。この戦争は初手からそういうおぞましい姿を見せたのだった。
サイバー攻撃を受けた都市部では救急・消防のサイレンすら鳴らず、先ほどまで鳴っていた国民保護サイレンも沈黙している。厳重に防護されたはずの救急消防の指令センターも麻痺したのだ。
必死にエンジニアたちがAIの助けを得ながらリカバリ操作をしているのだが、その経過一秒一秒ごとに人命が失われていく。
道路信号も消灯し、もちろん都市を彩っていたビルのライトアップも家々の生活の明かりも、また人々の話し声も消え、奇妙な沈黙が重たく都市を包んでいる。
しばらくして人々がふらふらと建物の外へ漂うように出てきた。冷暖房も絶たれ通信も何もかも動かず、何も出来ないことに精神的に耐えきれずに思わず出てきたのだ。
みな憔悴と放心で幽鬼のごとく漂うように出てきていた。一瞬自動車にはねられるのではと危惧するものの、自動車もほとんどが運転アシストシステムが停止したために停車してハザードランプをつけている。
そのためアシストシステムを解除して緊急走行で救援に向かいたい消防救急も警察もその車の渋滞に巻かれて身動きが取れない。
その静かで絶望的な混乱を見ていた風は、気づいた。
危ないけど、私なら動けるかもしれない。
家のハンガーに収まっているウインドランサーのコックピットに入り、マスターアームスイッチを入れた。
なんという幸運!
スリープではなくシャットダウンにして休ませていたためサイバー攻撃の侵入を回避できてる!
だがこのままでは蔓延してる攻撃用ボットネットに察知されてやはり侵入制圧されてしまう!
すぐに風はウインドランサーを一切通信を使わないスタンドアロンモードに切り替えた。
この状態では地上からの空中交通管制を受けられないが、それはもちろん攻撃で沈黙しているので問題ではない。
風はつづいて補助エンジンユニット、左舷エンジン、右舷エンジンと起動手順を進めた。
幸い手元のタブレットは昨日授業を受けようとしてニュースを受信してショックを受けた状態のとき、手元不如意で機内モードに偶然入っていてこれも侵入されていない。
そのためタブレット内のストレージに収めていたチェックリストが使える。
普通なら対話機能を使って確認するのだが今はそのリストにペンでチェックマークを書き入れながらの作業であり、ただの紙資料をつかっているのとほぼ同じだった。
だが父が「基本は紙みたいな原始的で単純なものが良いんだ。紙では出来ない複雑なものでも紙で出来るところまでの手順を残しておくことは最後の防衛ラインになってくれる」と昔語っていたのを思い出した。
ほんと、そのとおりになった。だが、この自体を引きおこした残忍な無制限AIをその父が作った疑惑も思い出した。そんな……。どうやってもつながらない。
そんなことがあってたまるか。
エンジンの起動をホログラフィモニターではなく小さなアナログメーターで確認する。それは予備の予備としてコクピットパネルの片隅に残されていたのだが、今はこれだけが頼りだ。
読みにくく統合表示もされない原始的なメーターだが、その針の震えが、ウインドランサーがよみがえって怒りの感情を持って風の指示を待っているかのように思えて心強かった。
動翼動作チェックをキャノピーについたミラーの目視で行う。
フラップもエルロンも操作通りに動いている。
エンジンもベクターノズルは高度飛行姿勢制御システムがないと管理できないが、いまはそこまで必要ではない。
いまはWW2以前、WW1の複葉機レベルでも良いから飛んでくれさえすれば良いのだ。飛べれば今寸断されている政府機関の情報連絡を助けられる。
実際の人員の移動だけになってしまうが、今はそれすらもないので十分役立つはず。
離陸しようにもいつも使っている航空公園の発車盤は使えない。
このハンガーの前に伸びるバルコニーから飛び出すしかないが、それは小さく離陸距離には短すぎる。
だが父はこのことを予測していたのだろうか。ウインドランサーに取り付けるRATO、ロケットブースターを父は用意していた。
使ったことがないので湿気ってなければいいのだが、と祈る気持ちで取り付け、点火指令コードのコネクタをつなぐ。
ランサー、いくよ! がんばって!
コクピットに戻ってもう一度チェックし、意を決してRATOのスイッチを入れる。
フライバイライトを操作するためのHOTASジョイスティックではRATOの回路を操作できないため、スイッチを入れたらすぐにスティックに手をすぐ移さねばならない。そこでまごつけばランサーは新宿摩天楼のそこへ真っ逆さまだ。
いまだ!
スイッチを入れる。強烈なRATOのパワーと爆煙でランサーは激しく振動して姿勢を崩しながら前進する。
その暴れる姿勢をスティックの操作で支え、スロットルを負けずに開く。
飛び立つのか吹き飛ぶのかわからない轟音と振動の中、ランサーは可変翼を広げてハンガーから飛び散る粉塵の雲から飛び出した。
正面に隣の南新宿立体区の理容学校のビルが迫る。
すぐに反応してスティックで舵を切る。
だがそのとたん、機体にイヤな振動を感じた。
まずい失速する!
スロットルを更に開いて速度を稼ぐ。
その分操縦の余裕は減るが、落ちるよりはマシだ!
そのとき、ふっとランサーの機体が軽くなったように浮かんだ。
気流をつかんだのだ。
それもビルの谷間の荒れ狂う乱気流ではない、東京湾からの凪の気流をつかんだのだ。
風はそれで動翼を操作して安定させて息を吐いた。
都内の空中ハイウェイには他の機体はない、と思ったら、ポツポツと飛んでいるものが見えた。同じように非常手順で離陸したのだろう。
そして進んでいくと見慣れたグレーに赤の切り返しラインをまとった戦闘機が見えた。幼なじみの恋の戦闘機だ。
通信が麻痺しているが、手の合図がみえた。無事だ!
でもここからどう立て直したらいいのだろう。
風は途方に暮れながらも、迷ったときにはここに集まれと言われていた市ヶ谷へ向かった。そこには防衛省の発着基地があるはずだった。
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