第五章 三
半年後に、東浪見家ではぶじ次郎君が生まれたが、阿嵐にそれを報せる手段はなかった。彼が次郎君と対面できたのは、それから六年後のこと。父が病に伏したことを神使から伝えられ、拠点を変える直前に急いで帰って来たのである。
阿黎の病は
物怪の仕業かもしれぬと、寝所では数日かけて祈祷が行われた。芥子の香りが部屋を満たし、熱を帯びた手に数珠が握られる。祈りの言葉が、延々と唱えられた。
容態は一向に変わらなかった。それどころか悪くなる一方で、物怪の仕業ではないことを周りはだんだんと気づき始めていた。だが、今は祈ることしか彼らができることはなかった。
妻はそんな夫の哀れな姿を見ていられず、出家をして御仏に仕えようと考え始めていた。けれどまだ子どもである阿久留を置いては行けない。自室に篭もり、東浪見の将来を案じて日々懊悩していた。
このままでは母上までもが病んでしまう。
阿嵐は迷わず出家するよう母上にすすめた。阿久留は信用できる者に預けることにしましょう、俺が選んだ女房をつけますから、どうかご安心ください、と。
六年の間に、阿嵐は鶴や蛇、鳩の神使を仲間に引き入れ、新たに暗殺計画に加わった楽々浦家に対抗するために戦力を整えていた。己の契約した神使であれば裏切られる心配もなく、阿久留を守るのに差し支えない。
母上は実家である日秀家に阿久留を預けることを決めると、すぐに出家をして寺に入った。それを見届けた後、周囲から白い目を向けられながら、阿嵐は再び遠くへ潜んだ。
成長するにつれて向けられる刃の数は多くなった。手段は間接的ではなく直接的に。一歩外に出れば式神の目に止まり、すぐに刺客が舞い降りるようになった。白昼堂々と身を晒す者もいた。容赦がなかった。阿嵐は、ひたすら逃げ続けた。来る攻撃はかわし、触れられれば払い、毒は慣らして、剣術を磨いた。
だが、いつも人は殺さなかった。阿嵐は刀を血で濡らしたことがない。相手は
「殺してしまえばいいのです。何も後ろめたいことはございますまい」
「……どうでもいいのだ。この者たちを殺めることなど、考えることすら煩わしい。大罪を犯したことにも気づかずに逝ってしまうのは、それこそ悲しいことだ」
それでは、と蛇は嗤う。
「私どもが代わりに引き受けましょう」
阿嵐の与り知らぬところで、神使たちは天罰を下すようになった。
「確かに御仏が死に触れるなど恐れ多きこと。御身を自ら穢すことはございません。やれと言わずとも、喜んで切って差し上げます」
目を瞑っているだけで、死体は彼の背後で凄然と積み上がっていった。歩いた道には血が広がり、鉄の匂いがいやに鼻に残ったとて、それは阿嵐とは無縁のこととして片付けられた。
そうしているうちに、だんだんと刺客に襲われる頻度は減っていった。力を上手く扱えるようになり、式神の目から逃れるのも造作なくなると、警戒せずゆっくりと過ごせる時間も増えてきた。普通の暮らしができるようになり、他家の動きを探る余裕も生まれると、状況はさらに改善していった。
「いやはや、すっかり隠居が板についてしまわれて。五大御祓家の首位に立つ東浪見の長子ともあろうお方が、なんと嘆かわしい」
「とはいえ、務めを放棄したことはないがな」
阿嵐は大きな紙に筆を走らせ、図を描いていた。
「お前たちのおかげで世のありさまが手に取るようにわかる。椚平が如何にして強いのか理解できたぞ。これで対策は十分にできる。三位の楽々浦は飄々としているが引き際を見分けるのがなかなか上手かった。何年もこの座を維持し続けているだけあるな。
双柳は四位で、上位の者に擦り寄ることはできても、口が達者なだけで戦は得意ではないようだ。土地の支配より宮仕えを多く送ることで宮中の権力を握ろうとしている。
そして末位の栗木坂は何より現当主が消極的なせいで、戦も領地の支配も行き届いていない。傘下の者たちも当主の目を盗んでやりたい放題だ。子月領はすぐに手を打たねばならないな。まずは詳細を明らかにしたいところがたが……」
「ではこの私におまかせください。あの老亀は腕はよろしくとも動きがのろい。小鳥はまだ生まれたての雛のように未熟です。私であればどんな家だろうと隙間に潜り込み、些細な声も漏らさず聞き取れましょう」
「そうだな。では今回も頼んだぞ、蛇ノ目」
「御意」
白い鱗を撫でると、蛇はするりと床を這って出て行った。
入れ替わるようにして、成鳥になったばかりの初々しい鶴が、簀子に降り立ち室内に入る。
「今日もそれらしき人間は見つかりませんでした」
「そう簡単にはいくまい。手がかりは魂特有の独特な波長のみなのだから。何万人もの中からたったひとつを見つけ出すのは骨が折れるだろう」
人に変化した鶴は落ち込んだ様子で正座した。
「一体、欠片はどこに落ちてしまったのでしょう。せめて見た目がわかればまだ探しようがあるというのに」
「俺の魂であること以外に何が必要だと言うんだ。繋がりがあるだけまだ希望はある。お前はよくやっているよ」
「若君は欠片がどんな人なのかは気にならないのですか?」
見た目はどうであろうと構わん、と阿嵐は言う。
「ただ、人の身が脆いことだけが気がかりだ。片割れであるからには同じ志を持って、どこかで生きていると思いたいがな。きっと人を救うために今も穢れを祓っているに違いない。それ以外何も求めるものはないのだ。生きてくれさえすればいい」
魂は巡り巡って、いつの日か我々を再会に導いてくれるはず。
捧げた祈りが届く時は近いだろうと、阿嵐は感じていた。
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