第三章 七



 それから五日が経った。

 その間、自身の邸宅と村を行き来し、阿嵐は一通りの調査をして朝廷に送る諸々の資料を作っていた。同時に所有権移行の手続きを行い、書類を手に再び村へと戻った。

「祠のお清めは鶴真や凪白亀にやってもらっていたから、その分見回りは早く済んだ。後はこれに血判を押してくれるだけでいい。こちらで上に提出しておこう。よくよく内容を確認しておくのだぞ」

 こんな上質な紙に触れる日が来るとは、と士優は緊張した面持ちでそれを受け取る。

 兄妹はこの日まで、居を移すために荷物をまとめ、これまで仕えてくれていた者たちを労い、村人たちにこれからのことについて説明を施すなどして忙しくしていた。経緯を聞いた村人たちは当然、納得のいかない意見や不安をぶつけることも多々あったが、呪いや物怪についてはどうしようもないこともあり、ひどい反発が起こることはなかった。滝之雪の権力が剥奪され、新しい主が君臨しても、彼らはこれまで通りの生活をしていくことになる。時間をかけて、ゆっくりと慣れるのを待つしかない。

 この判を押せば、滝之雪は田舎貴族でも何でもない、ただの民となる。

「わかりました。確認します」

「若君さま、家督を継ぐ予定というのはもう決まっているのですか?」

 入れ替わりでやって来た賢優がすっかり懐いた様子で彼に近寄る。忠実な子犬がじゃれついてきたような感覚に、阿嵐は顔を綻ばせる。

「気になるのか?心配しなくとも長男が当主となるのは必然だ。もうそろそといったところだな」

「おれ、兄上ほど勉学はできなくとも、白露みたいな舞ができなくとも、武術だけは得意なので!絶対に無能だとは言わせませんよ。必ず若君さまのお役に立ってみせますから」

 あからさまに媚びるでない、と阿嵐は額を小突いた。

「お前に合った役職を俺がしっかりと見定めてやる。しっかり働かせるから覚悟するように。それと、俺の弟はお前と年が近い。会ったら是非仲良くしてやってくれ」

「もちろんです若君さま」

 にこにこと賢優は笑いかける。その愛嬌であればどこへ行ってもやっていけそうだった。

「荷物はまとめたのか」

 冗談はさておき、といった調子で、賢優はいつもの雰囲気で話し出した。

「おれはもう終わってますよ。何せ持っているものもそう多くはないので。それで言うと、白露が一番整理が大変そうですけどね。侍女数人がかりでまとめていました」

 戌月領から村まではあの飛ぶ車でも数刻はかかる。何度も車を往復させることになるな、と阿嵐は思いながら、白露を呼んでくるように伝え、庭へと出た。

 雪はあの頃から積もったままだ。その後も降ったり止んだりと似たような天気が続いていたが、変わらない真っ白な景色は、いよいよ本格的に冬が訪れたことを告げているように感じた。

 しばらくして、庭についた足跡を辿りながら、白露が彼のところへ来た。

「もう行く時間ですね」

 静かに雪が降る空から、黒い影が近づいて来る。

 一見、何の変哲もない、やや質素な姿の牛車である。大きくしっかりとした造りだが、そこには車を引く牛などおらず、また傍につくための車副くるまぞいも見当たらなかった。そもそも浮いているのだから、そんな人がいたら大変なことになるが、この車の仕組みを、最初に見た時は白露も理解できなかった。

 だが今なら感じ取れる。車が縁側にそっと止まる前には、白露はあっと気づいて口元を覆っていた。

火車かしゃ……ですか?」

 車輪に、物怪が取り憑いていたのだ。反射的に体が固まったが、襲ってくる気配はない。大人しくただの車のようにそこに止まっている。まさか物怪が車を動かしていたとは。

 では川で濡れて家まで運ばれた時は、どうして気づかなかったのだろう。あの時点の力で、気配を察していてもおかしくはなかった。

「俺が小さい頃に捕らえた物怪なのだ。清めた上で契約を交わし、俺の足となって仕えてくれている。地獄へ運びはしないから、安心して乗ってくれ」

 言われてみれば、火車から邪気はまったく感じない。だから本能的に危険だと察知しなかったのだろうか。

 物怪は祓ってしまえば終わりだと思っていたのに、契約を交わして従えてしまうとは、やはり彼の力は常軌を逸している。これはただ力があるというだけで成せる芸当ではない。

「必要なものだけを詰めていけ。一度に全ては運べないからな」

「私は、これだけです」

 白露が縁側を指すと、そこには両手で抱えるほどの大きさの箱が、ひとつだけあった。中にはいつも使っていた着物や小道具などがいっぱいに詰められている。

「ほかの着物ももちろん別の箱にあるのですが、私一人が使うには多すぎたので、半分ほど侍女に与えてしまいました。なので、そう多く運ぶことはないと思います」

 必要以上にものを持っていたって仕方ない。これまで自分を着飾るためにあった冠や簪、首飾りなどの装飾も、これからは必要なくなるのだから。

 こずえにも、今まで世話になったしるしによく使っていた簪と着物を渡した。ここを離れることを酷く惜しみつつも、泣きながら白露の婚姻を祝ってくれた。これで思い残すことは何も無い。

「白露、そこにいたのか」

 士優が抱えるようにして紙束を持って縁側へ出てきた。

 白露と阿嵐はこれから、先に東浪見の本邸へ行き、婚儀や祝宴の準備を始めなければならなかった。位の高い貴族の婚儀ともなれば、作法に則り、装いから内装まで様々な手間がかかるものである。

 士優と賢優はあと一日ほどここに残り、用事を全て済ませてから本邸へ向かう手筈になっている。

 彼女を見送るため、士優はあるものを持って来ていた。

「この間、町に降りた時にお土産を買っておいたんだ。すっかり渡しそびれていたが、これを一緒に持って行ってくれないか」

 そう言って、紙の内側から取り出したのは、美しい糸で色とりどりの花が縫われた手毬だった。

 白露は目を丸くした。

「昔、俺が蹴鞠をしているのを見て遊びたがっていたことがあって、裾が長いせいで出来なかったんだが、今はもうやらなくても、これなら手でついて遊べるし、見て楽しむこともできると思って」

「……確かに兄さまは、よくお庭に出ていました」

 覚えているのかと聞くと、白露は頷いて、

「全ては難しいですが、ふとした時に振り返ると、思い出せることもあるのです。自然な形で戻って来ているのだと思います。懐かしいと感じられて、嬉しいです」

 白露は大切に受け取ると、頬を緩ませた。

「ありがとうございます、兄さま」

「兄上、それ高かったんじゃない?貴族のお姫さまが使うおもちゃじゃん」

 後ろから突然、賢優が現れた。士優は顔を引き攣らせて彼の肩を強く押さえる。

「そういうのは黙っておくものだぞ」

 兄たちは小突き合いを始めた。

 白露は三人でよく遊んでいた子どもの頃のことを思い浮かべる。

 彼女にとっても彼らにとっても、ここから先の未来は明るい。

「ではまた、屋敷で会いましょう」

「ああ。できるだけ早く行くからな」

「またね、白露」

 荷物を運び込み、車の中へ入る。

 簾が独りでに下ろされると、縁側の奥から何かが這い出て来るのが見えた。

 骨が浮き出るほど痩せ細り、髭も伸びて一気に老けてしまったその顔は父上である。金魚のように口を動かし、何かを言っているようだったが、呻いている間に凪白亀に捕まり、引きずられて行ってしまった。

 白露は目を逸らして兄弟に手を振った。曇り空に、青い炎を巻いた車が高く上がる。

 村が小さくなっていく。覗き窓でしばらく眺めていると、阿嵐は改めて白露に向き直った。

「……記憶が戻ってなによりだ」

 目を細め、見たことのない淡く朗らかな表情で笑う。

 ええ、本当に、と白露は深く頷く。

「かなりの手間をかけさせてしまいました」

「構わん。長い年月を経てこうして同じ地に生まれ落ちることが出来たのだ。こうして君と会えたのも、魂に導かれたからこそだ」

 きっと、何十回と生まれ変わり続けた自分とは比べ物にならないほどの、多くの時を越えて来たのだろう。何十、何千、何百と知れない、星の数に勝る人生を踏んで、彼はここまで来てくれた。

 白露を覚醒させ、救う。それだけのために。

「これからは共に衆生を救っていこう。残りの生をかけて」

「はい。お供させていただきます。若君さま」

「君の真名まなはなんと言う」

 鏡合わせのように、白露は古拙の微笑を称えた。

「私は、無憂むゆうと申します」

 指先をそろえ、彼女は恭しく頭を下げた。


 ──六道に分かれた、歯車の世界があった。そこにはたった一体の、宇宙を統べる仏がいた。

 仏はある時、衆生が物怪に苦しめられているのを知り、人間界へ降りた。

 そこであまりにも多くの魂が穢されているのを見て、仏は考えた。このままでは魂が、涅槃に還ることができなくなってしまう、と。

 そこで仏は、自らの魂を割り、欠片を人間道へ落とし、自分の分身を作った。

 欠片から生まれたもう一つの存在が、ともに助けてくれることを信じて。


「無憂か。これからよろしく頼む」

「こちらこそ。……若君さま。私はあなたの力になれるでしょうか」

 阿嵐は無憂の指先をそっと握る。

「もちろんだとも。君は俺の魂の片割れなのだから」


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