第三章 六
「正室に迎えても白露の君とは自由に合わせてやろう。のびのびとしているところを見せた方がいいだろうからな。お前も弟も働くために必要なことを学ばせてやる。こんなに素晴らしい提案は他にないだろう」
「しかしそれでは、若君に何の得があると言うのですか」
「あるとも。俺は数年間身を隠していたから何より味方が少ないのだ。家に仕えてくれる者はいるが、俺自身に仕えてくれる者がいなければ意味が無い。だから力になってくれれば非常に助かる」
士優は、阿嵐がのっぺらぼうの若君と呼ばれていたことを思い出した。
「身を隠していたのには、何か事情が?」
これもはぐらかされるだろうか、と思った矢先、意外なことに、阿嵐は教えてくれた。
「
赤ん坊の頃は毒のついた針を刺され、歩けるようになれば猛毒の虫を触らされた。食事に少量の毒を混ぜることで少しずつ体に慣らしていき、耐性をつけたが、それでも暗殺の過激化は止まらなかった。
そのため幼い頃から助けを借りて住居を転々とし、刺客から逃げ回りながら生活していた。今住む所はまだ居場所がばれていない。しかし当主となった際には本邸に戻り、顔を出さねばならなくなるだろう。
「それはかなり、危険なのでは」
「だが、問題は近々解決する」
阿嵐のその穏やかさは、壮絶な生い立ちを微塵も感じさせなかった。
「俺も東浪見だからな。やられっぱなしでは割に合わない。既に手は打ってあるから、もうそういった危険はないと言ってもいいだろう」
それでも、争い事態は収まることはない。祓魔二十四家は常に物怪と、民と、権力のために力をふるっている。
「そういう世界だ。まあ、それを踏まえて、条件を飲むかどうかを判断してくれ」
田舎の貴族には厳しい世の中かもしれない。
それならやはり、三人で村を出て、安全な場所で暮らすのが一番いいのではなかろうか。
悶々としながらも、士優はふと、大事なことを思い出した。
責任者は自分だが、何もかもを勝手に決めてしまえば父上と同じだ。
選択肢があるならば、本人にも決める権利はある。
「白露。お前はどうしたい」
士優は体を傾けた。彼女が指し示す方向があれば、そこへ背中を押すのが自分の役目だ。
白露は士優と賢優を交互に見つめた。
「余計なことは考えなくていい。お前が自由に行き先を選ぶんだ」
彼女もまた、自分の本来の役目をよく理解していた。
「若君さまの、成し遂げるべきこととは何なのでしょう」
凭れていた脇息から離れ、阿嵐はまっすぐに座った。
「人間の魂を正しく導くことだ」
東浪見家は、人の魂を煩悩から救うことに特化した家門である。
代々東浪見の魂は、どの家よりも尊く清らかなものとされ、最も仏に近い存在として崇められていた。領地は通常の土地と比べその大半が霊地で占められ、国が浄土と化することを目指し、頂点に立ち続けている。
「この国は広い。その分数多の魂が何度も消えては現れを繰り返している。それらを余すことなく救うには俺だけでは手が足りないのだ」
そういえば君は、と阿嵐は僅かに首を傾ける。
「あの花の名前を覚えてるか」
庭を歩きながら、架空の花だと言っていた、麝香撫子という不思議な響きの名前。
鍵はもう手にしていた。
今ならこの意味が、よくわかる。
「……はい。思い出しました」
自分は彼と同じなのだ。
白露の返答に、阿嵐はこの上なく満足そうに顎を引いた。
「では、君はどうする?」
生まれ持った力で守ってきた村。人々のために力をふるうのが、当たり前だと受け入れて生きていた。苦しいことがあっても、それが自分の人生なのだと割り切ってしまっていた。
しかし、目覚めた今なら、これからやって行くべきことが手に取るようにわかる。
これが自分の本心なのだ。
「私も、多くの人々を救いたく思います」
村人たちの顔が喜びや安堵で満ちる度に、己の魂が洗われるようだった。自分がこれまでやって来たことに後悔したことはない。
この力が役立てられるのなら、きっとそれが、自分の幸福に繋がるはずだ。
「そうか」
「はい。ですので、婚姻を承ります」
白露は深々とお辞儀をした。
士優は彼女の初めての決意を見て、心にぽっかりと穴が空いたような気分になった。
結局のところ、白露は東浪見などがいるあちら側の世界の人間で、そこで生きていくのにふさわしい存在だったのだと、士優はここに来て痛感した。特殊な力を持つ者たち。彼らは、誰よりも広く遠い先を見据え、我々が認知できない領域へと手を伸ばそうとしているのだ。
白露もそこへ行くと言うのなら、止めることはできない。
せめて兄として、妹の新たな人生の始まりに餞の言葉を送ろう。
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