第三章 二
母家から東の建物を越えた敷地内の隅には、追いやられたように建つ小さな正方形の離れがある。そこは子を産む時のみに使われ、そして人が死ぬ場所であったため、最低限の人間しか立ち入ることはなかった。死は穢れとして忌み嫌われるものである。再び使われる時が来れば、盛大なお祓いが行われ隅々まで清められるだろう。しかしそれまで決して手出しはしない。触れるのも見るのも恐ろしいからだ。
しかし士優だけは、小さな頃に何度か覗きに行ったことがあった。記憶は朧気だが、外で遊ぶついでに、悪戯心でこっそり近寄っていたような気がする。
「これ!お前たち、若君をどちらにお連れする気だ!」
屋敷を外から回っていると、何を聞きつけたのか、当主である禅優が足音を鳴らして縁側に姿を現した。
「昼間だというのにどこへ行っても姿がないと思えば、まさか何か妙なことを考えておるわけではないだろうな、士優」
長男は前へ進み出た。
「何か、急用でもありましたか」
「とぼけるでないぞ。この先へ若君さまを通してはならん。どういう意味かわかるな?」
この先にあるのは横に繋がった東の対と、そのずっと向こうの離れだけだった。禅優が最も恐れ、忌避していた因縁の場所。例え何があってもそこに入れるわけにはいかないと、若君が来た日から注意を向けていたのだ。
「父上、山の穢れの原因となる呪いを祓えば、村を助けられます。このまま放っておけばいずれ白露の力にも限界が来るでしょう。どうか、通ることをお許しください」
「ならぬ!」
凄みをきかせて禅優は一歩迫った。
「若君さまに何を言われたとしても、通す理由に値せん!」
士優は引き下がらなかった。
「俺たちは滝之雪の過去を知りました。罪を償うには悪縁を断ち切り、巫の魂を癒すべきなのです。白露のことを思っているなら、わかっていただけますよね?」
「ならんと言っておるだろう!」
怒鳴り声が屋敷中に響いた。
「どれだけ罪を償おうが、己を清めようが、この体に流れる血は既に呪われておる!ただでさえ短い生涯を村の貢献のために捧げ、それを生き甲斐にしてきたのだ。にもかかわらずここまで来て怪鳥に役目を放棄したと知られれば……お前たちもろとも殺されてしまうかも知れん。あれは一種の契約のようなもの。無下にすればそれこそ災いが降りかかるぞ!」
真っ赤にして地団駄を踏む父をどうにか宥めようとする。
「落ち着いてください。どうか」
「白露はどうなってもいいって言うの?」
白露だと?といつになく乱暴に禅優は吐き捨てる。
「山を清められないと言うならば白露には新たな巫を産んでもらうまで。村を守護するのは巫だ、巫しかいないのだ!」
なんて哀れなのだろう。と白露はどこか遠い気持ちで喚き散らす父上を見た。
禅優は完全に業に捕らわれ、心が侵されてしまっている。どうしても逃れられずにいるから、中でひたすらのたうち回り、かといって受け入れることもなく、拒絶と恐れを抱いて足掻いて周りまでもを陥れようとする。
静観していた阿嵐がおもむろに、頭の布を少し上げ、歩み出た。
「滝之雪が関わる物怪については俺が何とかしよう。それよりも禅優殿。自身の罪については本当に何も償うことはないと申すか」
禅優は少したじろぎ、背の高い彼とまっすぐ目が合う。そして畏れ多くも堂々と声を張って否定した。
「何を……、私はできる限りのことはしてきた。恥ずべきことは何一つしておりませぬ!」
「それはどうだろうか」
舐めるように禅優を見た後、阿嵐はぐっと顔を近づけた。柔らかな笑みはなくなり、その後ろには背筋が凍るほどの怒りがゆらりと立ち上っていた。
「残念ながらお前の善行はなんの意味も成さない。巫の母を労ることなく、何度も体を傷つけ、強引に孕ませた挙句、これまでの当主と同様、赤子に呪いを植え付けたのだから、最も憎むべき因果をお前は繋いだに過ぎない。それを見て見ぬふりをしておいて、自分だけは清浄であるなど、身の程知らずにもほどがある」
見透かされるような阿嵐の瞳に禅優は汗ばむ。
「ちが……いいや違う。私は呪ってなどいない。私ではない。呪っていたとしても、それは私ではなく先祖がやったことだ!」
「始まりはそうだとしても、だ。お前は業と向き合うことすらしなかった。歴代の当主はみな平等に地獄に落ちているだろう。お前も命が尽きれば必ず裁かれることになる。覚悟するのだ」
「なぜ!なぜだ……!私はただあの化け物に」
「醜い!
カァン……!と高く澄み渡った音が、禅優の額の上で波紋となって広がった。
阿嵐が懐から取り出した
白目を向いた禅優は後ろに倒れ、阿嵐が胸元を掴むと、床にそっと下ろして寝かせた。
「誰ぞ。この者を適当な場所へ運んでおけ」
騒ぎを聞きつけて側までやって来ていた侍女たちは動揺したが、命令に従うため、おずおずと物陰から出る。
引きずられていく父上を愕然とした眼差しで兄妹は見送った。驚きの大半の理由は、阿嵐が持つ不思議な力をこの目で初めて見たからだった。父上は一体どんな力を打たれたのだろう。
「なに、あまりに意気地がないから反省してもらったまでのこと。心配するな。次目覚めた時はさぞ気分が良くなっていることだろう」
行こうか、と阿嵐が促すと、三人は彼の後に続いて離れへと向かった。父上を気にかける者は、誰一人としていなかった。
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