第三章 一

 

 

 白露を縛り付けていたのは、幾重にも重ねられた業の成れ果てだった。何度も同じ村で目覚めては、巫の務めを果たし、その為だけに死ぬ。それが彼女の、彼女の持つ魂が受け継いだ“呪い”だった。

 白露は庭を歩いていた。大輪の椿がまた雪の上に落ちている。濃い赤は降る雪に埋もれ、半分見えなくなっていた。

 傘を回して振り向くと、阿嵐が同じ傘を差しながら庭へ降りてきた。

「呪いか。よくあるようで一歩間違えると命に関わる強力な術だ。それが当主の命を少し短くしただけで済むとは。巫の魂を不動のものにするにはよっぽど都合がよかったようだな」

 白露は甘い蜜を閉じ込めた黄金こがねの瞳を揺らし、冷えきった心地で彼を見据えた。

「私は……記憶がなくなっていました。幼かった頃の思い出も、今まで何をして過ごしてきたのかも、たった数年前の出来事が一切思い出せないのです。けれど……あの手記に書かれてあったことを私は何となく。初めて読んだはずなのに、確かにあったと感じたのです」

 魂が白露の記憶を手放そうとしているのか、それとも遥か昔の記憶を、残そうとしているのか。

「普通の人間であれば、前世の記憶は引き継がれることはない。だが君の場合は、特殊な魂であるが故に記憶を刻む働きを有している。本来では不可能な形で転生を繰り返し、最初は問題なく記録できていても、途中で弊害が生じて働きが鈍った。そう考えるのが妥当だろう。君の代でいよいよ記憶の容量に限界が来たとも言える」

 彼は笑いこそしなかったが、無表情ともとれない不思議な面持ちで白露を見返す。着物で姿を象ってくれなければ溶けてしまいそうなくらい、彼は白かった。そして触れるのも畏れるほど、まとう空気は洗練されている。とても人とは思えない美しさだった。

 白露の目に映る彼は、いつも浮世には不相応で、現実的ではなく、ひたすらに崇高だった。

「呪いは、生まれるために死んできた巫たちの怨念で大きくなり、穢れた因果が太くなることで、山ひとつを腐らせるまでに肥大化してしまった、ということだったのですね」

「そういうことだな。やっと正体が見えた。君との繋がりも、祓い浄めるべきものが何なのかも、全てがはっきりした。これで思う存分切ることができる」

 彼は、何者なのだろう。

 そして“私”は何者なのだろう。

「白露」

 いつの間にか、士優と賢優が縁側へ出ていた。手には初代の名が書かれた手記を持っている。

 落胆した様子が彼らの心境を物語っていた。

 白露は側まで駆け寄る。

「士優兄さま、賢優兄さま……」

 なんと言えば、よいのだろう。自分が普通でないことも、滝之雪が犯した罪も、手にした真実は生臭く、異常で、どこまでも暗かった。自分でも驚く程に言うべき言葉が見つからない。

 士優は膝をついて白露と視線を合わせた。

「記憶がないというのは本当か」

 白露は傘の柄を握りしめた。兄たちは聞いていたのだ。切なげな目が訴えている。こんな顔をされては、平気で頷けるはずがない。

「……でも、私は兄さまたちが、どれだけ私のために心を砕いてくれていたかは知っています」

 賢優は身を乗り出して、白露をそっと抱きしめた。

「一人で過ごしていても、孤独を感じることはありませんでした。兄さまたちがいたから、何があっても村に尽くせました」

 それだけは本心だった。思いだけは昔からずっとあるはずだ。記憶はなくとも、心は続いていたのだから。

 兄たちもまた、自分を思ってくれていることはここ数日だけでも、よく伝わっていた。それだけでも白露は十分に満たされていた。

 ああそうだ、と士優は腕を広げ、二人を抱いた。

「お前はよくやってくれた。過去など関係なく、俺たちのためにこれまで日々を費やしてくれたんだから」

 これこそが白露の優しさなのだ。誰一人見捨てず、平等に救い、我々の祈りを届けてくれる。そんな妹だから、守ろうと思えたのだ。彼女が全てを捧げるなら、せめて兄である自分だけは、その恩を返すためにも妹に尽くす。そうすることで少しでも白露が救われてくれるなら、それでよかった。

「士優兄さまは、いつから母が消失したことを知っていたのですか」

 潤んだ瞳が互いを見つめる。

「……俺は、幼い頃の記憶を頼りに、乳母や、たまに父上にそれとなく聞いて、母が亡くなった経緯を知った。これを読むまで巫が苦行を強いられる理由を知らずにいたが、俺はただ……白露が悲しむと思って、母の死因を隠していたんだ」

「おれは兄上からそれを聞き出したことがあるんだ。だからおれも、一緒に秘密にしてた」

「賢優兄さまも?」

「兄上、思い詰めたような顔をして部屋にこもってる時があって、おれが相談に乗ってやるって言ったら、白露を同じ目に遭わせないようにするには、どうしたらいいだろうって泣きついてきてさ。そうとう悩んでたみたいだよ」

 そこまで言わなくていい、と士優は止めるも、賢優は真面目だった。

「この家がおかしいことに気づいてから、兄上はここを出るために計画まで立ててくれてたんだよ。白露が外に出られるようにって。おれもこんなじめじめした場所好きじゃなかったけど、兄上はおれたちの幸せを考えてくれていたんだ」

 顔を伏せていた兄の手に、白露はそっと触れる。

 望みなどなにもなかった。与えられるがままに役目を全うし、そうやって狭い世界で生きて死ぬのが自分の人生だと納得していた。虚しさなんて感じる暇もなく、ただ人々の祈りに応える毎日だった。

 けれど、外に出てもいいのだと許してくれる人はこれまでいただろうか。こずえも確かに自分の境遇に同情してくれたことはあった。それでも、たった一人の妹の身を案じ、実際に連れ出そうとしてくれたのは兄だったのだ。

 心に寄り添っていなかったことなど、一度もなかったのだ。

「兄さま。私もあなたに報われてほしい。兄さまのこれまでの行いは、巡り巡って良き縁となり繋がっていくはすです。本当に、ありがとうございます」

 士優は一瞬、子どものように目を大きく見開いたかと思うと、ぐっと唇を噛んで白露の手を握り返した。そんな二人の手を、賢優が温かく包み込んで持ち上げる。

「うん、うん。兄上もよく頑張ってくれた。こんな素晴らしい兄妹に挟まれるなんて、おれは誇らしいよ」

 湿っぽい雰囲気をなくそうと、賢優は大げさに胸を張ってみせる。

「……けど白露も、白露の魂も、そろそろ休んでいいと思うんだ。若君さまに頼んで、解放してもらおうよ。おれは詳しくないからわからないけど、転生しなくなれば白露は元通りになれる、はず……だよね?」

 少し赤くなった賢優の目が阿嵐を捉えた。いっそう穏やかな微笑を浮かべていた彼は、答える前に、何かを辿るように視線を走らせた。

「では、望み通り、呪いを祓いに行こうか」

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