リュウノツカイ

Tempp @ぷかぷか

第1話

 玄関が開けられない。

 ノブに触れて、また手を離す。それの繰り返し。

 焦る手で何度も触れて、また離す。

 だめだ、やっぱりどうしても玄関が開けられない。


 僕が玄関を開けられない理由は小4の時に遡る。

 その時僕は、父さんの車の助手席に乗っていた。

 ガツンという衝撃に一瞬ガタリと車ごと宙に浮いて、その後どぷんと車が沈み、シートベルトが体を強く締め付けて、それから意識が途切れた。

 目を開けた時、ぶくぶく以外の音がなかった。

 気を失ったのは僅かな時間だろうけれど、気づけば窓の半分は水の中だった。パニックになって隣の運転席の父さんを揺すっても動かなかった。後部座席の兄さんに声をかけても返事がない。逃げようと藻掻いてドアレバーに力を込めてもピクリとも動かずその間もぷくぷくと水位が上がる。それに、今空いてしまっても。窓に近づいて見上げた随分遠くの先の水面で光がキラキラ反射していた。

 恐怖。いや、あれが絶望というものなのかもしれない。

 窓の外に魚影が横切る。

 水中。

 息ができない。ここはすでに水の中で、僕は溺れて死んでしまう。そう思うと急に息が苦しくなって目を閉じて、気づいた時は病院だった。


 後遺症はなかった。けれども僕は少し変わってしまった。

 その日から出入口というものが怖くなった。車の中のことを思い出して扉や窓に近づけない。その外が水で一杯に思えて恐ろしくて。それから窓の外に魚が泳ぐ幻覚が見えるようになった。宙を様々な魚の影がぼんやりと、悠々と泳いでいる。こちらのことなど何も知らないように泳ぐ魚が恐ろしくて。

 お医者さんはトラウマだと言った。

 だから僕の代わりに兄さんがドアを開けてくれるようになった。自分の部屋、リビング、トイレ、玄関。同じ学校に通っていたから学校のドア、ありとあらゆる扉を僕の代わりに。

 けれども兄さんも外に水が溢れる扉は開けられなかった。

 雨の日。

 雨の日は両親に扉を開けてもらう。学校なら友達が開けたドアを急いで追いかけて一緒に潜る。

 雨の中に出ること自体は怖くはない。怖いのは水の内側にある扉に触れることだった。


 窓の外を魚が泳ぐ。車の中を思い出させるその魚が恐ろしかった。

 大小の魚影はときたま窓ガラスをすり抜けて部屋の中に侵入する。ホログラムのように室内を半透明の魚がゆっくり回遊する。僕を無視してふわふわと。そんな時は僕は見ないようにして小さくなっているしかなかった。

 兄さんはそんな僕をとても心配して、ふゆふよ泳ぐ魚をつついた。

「魚なんて晩飯に食ってるじゃんか」

「ここは湖の中なんだ。だから泳いでる魚が怖い」

 また、死んでしまうのでは。そう思うと恐怖がこみ上げた。

 兄さんは少し悲しそうに笑って問いかける。

「仕方ないなぁ。小さいのなら大丈夫かな」

「小さいの?」

「そう。小さいなら怖くないかなと思って。なるべく綺麗なのを探すよ」


 兄さんは僕の魚嫌いを克服するために魚を連れてくるようになった。

 最初は何匹かの小魚を連れてきた。

「グッピーだけど、これはどうかな? 小さいから平気じゃない?」

「綺麗だから、まだましかな」

 赤青の半透明なグッピーはしばらく部屋の中を泳いで窓から逃げていった。兄さんが次に連れてきたのはナンヨウハギ。グッピーよりも少しだけ大きいけど同じように奇麗だ。青色に黄色い尻尾。

佑樹ゆうきが魚嫌いになると俺が悲しいからね」

 魚好きの兄さんが二番目に好きだった魚。そういえばグッピーは三番目だ。兄さんは南の海の魚が好きで、海洋学者になりたいと言っていた。

 兄さんが連れてきた魚なら、少しは恐怖はマシになった。兄さんはあの時僕と一緒に車の内側にいたからかもしれない。


「どうせなら兄さんの一番好きな魚がいい」

「あーあれか。でかいと怖くないか?」

「いい」

 しばらくして兄さんはどこからともなくリュウグウノツカイを連れてきた。

 銀色でキラキラと細長く、赤い冠の先をふよふよと漂わせて部屋の中を舞っている。その魚はとても大きかったけれども一番怖くはなかった。あの小さなグッピーよりも。なんだか兄さんのように感じられて。

 兄さんの名前と同じくリュウと呼ぶことにしたその魚は、いつも僕と一緒にいてくれるようになった。他の魚が近づきすぎると追い払ってくれる。外にいる時でもいつも。

 僕はリュウと一緒に何年か過ごした。


「佑樹、急いで病院まで来て」

 土砂降りの夜、怒鳴るような母さんの電話に玄関に走った。

 父さんが事故に遭った。車に轢かれたと聞いて、僕の心は凍りそうになった。父さんは特殊な血液型で、家族ではもう僕以外に輸血できない。一刻を争う。それはわかってる、わかってる。

 けれど、わかってるけど玄関が、開かないんだ。開けられない。

 さきほどから何度もドアノブに触ろうとして、回すことができなくて、何度も手を伸ばしては離している。

 玄関のドアノブに手をかけた途端、凍りついたように体が動かなくなる。外が水で溢れているのを知っているから。

 そのドアの外からは確かに、ザァザァと雨の音がした。


「母さん、無理だ! 玄関が開けられない!」

「お願い、急いで、何とか出てきて。もう家族を失うのは耐えられないの。佑樹、お願い」

 そう叫んで電話が切れた。

 どうしようどうしよう。玄関が開けられない。手がぷるぷると震えて、もうドアノブにも触れない。

「佑樹、開けよう。父さんを助けて」

「嫌だ。ここを開けてしまったらきっと兄さんがいなくなってしまう」


 リュウは赤い冠をひらひらさせて僕の周りをくるりと回り、兄さんの声で話しかけた。病気がちな兄さんはあの車の中で心臓を止めて、その魂は魚になった。

 水につながる扉を開けると、兄さんの魂が泳いで出ていってしまって、もう帰ってこない。そんな気がした。父さんも、兄さんも僕の大切な家族だ。

 あの車の中で僕が意識を失った時に時間が凍って、僕の心は兄さんと一緒に今もあの車の中にいる。今も、あの車のガラス窓のように扉が水の中と空気を隔てている。

 扉を開けて水を中に入れてしまえば、凍った時間が溶けて、魚になった兄さんは外に流れて消えてしまう。

 リュウはくるくると僕の周りでゆるやかに巻き付く。


「お願いだ、玄関を開けて。佑樹じゃないと水の扉は開けられない。父さんを助けて」

「嫌だ、兄さんがいなくなるのは嫌だ!」

「佑樹、俺はとっくの昔に死でいる。俺がいるとお前はいつまでも外に出られない。俺がいるとお前が進めない。だからもう時間を動かして。父さんを助けて」

「嫌だ。それでも嫌だ。一緒にいて」

「佑樹、大丈夫。俺は天国に行くだけだ。今までとかわらない」

 リュウの目は、少しだけ寂しそうで、けれどもまっすぐと僕を見つめていた。

「天国」

 つぶやくと、リュウは赤い冠を揺らして微笑んだように見えた。

 僕が閉じ込めたせいで兄さんが天国に行いけなかったんだろうか。兄さんはずっと僕と一緒にいてくれた。

 リュウは僕の手にしっぽを巻き付けてそっとドアノブの上に置いた。

「一緒に開けよう」

 兄さんと一緒なら。そう思うとドアはもう手を拒まなかった。

「佑樹、見守ってる、ずっと。かわらず」

 ノブを回す手にリュウの冠が触れて力が伝わる。

 歯を食いしばって玄関を押し開けると、ドウという音が巻き起こり、叩きつけるような水が溢れていた。

 兄さんは僕の脇を擦るようにすり抜けて一度振り返った後、豪雨の中を冠を揺らしながらユラユラと空を泳いで登っていった。

 キラキラと真っ暗な雲から降り落ちる透明な水はもう恐ろしくはなかった。

 雨の中を必死で走って、父さんは一命を取り留めた。

 最後にリュウが雷を泳ぎながら空を登っていく光景は、僕の脳裏に焼き付いている。

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