第3話

 社会人になって一人暮らしを始めた。

 その部屋には、地方転勤になって時々泊まりに来る彼氏用のコーヒーカップがある傍らで、偶に訪れるあなた用のクッションもあった。

 春先の深夜、寝る準備をしているとあなたから電話がくる。


「今何してた?」

「もう寝るよ」

「なら、まだ寝てないな?」

「うわー」


 いそいそとマフラーを巻いて街へ出ていく私は幸福な愚か者だ。あなたの恋の話を聞き、トマトジュースを飲み、一晩中ビリヤードに興じる。

 夏の日、スーパーマーケットに立ち寄ってからあなたの部屋に向かう。近日中に遊びに来るという彼女に振舞うための料理を、あなたに教えるために。

 あるいは秋の夜。薄めた香水を首筋にひとすじ塗って、あなたの車の助手席に滑り込む。真夜中の飛行場を眺めながら缶コーヒーを飲み、あなたの別れた彼女の見る目のなさを嘆き、ラジオの内容に突っ込みを入れながら、朝を待つ。


「ねぇ、こんな深夜にふたりっきりで何も起こらないなんてことある?」

「俺とお前でしょ」

「ですね」


 もう壊れる寸前だった。



 ある冬の日、私は地方に住む彼氏の部屋に泊まりで訪れていた。彼との時間は穏やかで、もうこのままここに住もうか、なんて思ってしまうほど平和に感じた。

 そこへ、あなたから電話がかかってきた。私のではなくて、彼の電話にだった。バイク旅行をしていたあなたは宿を取りそびれ、これからここへ来ると言う。私はとても困った。はち切れそうな嬉しさと、どうしようもない悲しさと、うまく取り繕わねばという不安。全部がごちゃまぜになって襲う。とりあえず自分に尻尾が付いてないことが幸運だと思った。

 三人で鍋をして、代わる代わる風呂を使い、三人で雑魚寝をした。

 あなたがシャワーを浴びている時、彼は少しだけ不安そうな顔をした。


「アイツとは、何もないんだよね?」

「なんにも無いよ」

「……ごめん、変なこと聞いたね」


 限界だと思っていたものが、とうの昔に壊れていたのだと知って泣きたくなった。自覚していたけれどやっぱり馬鹿だった。私だけでなく、彼にも大きな傷がついている。もうお終いにしよう。そう決心した。

 おやすみを言って、電気を消して、それから私は彼にキスをした。暗がりの中、驚いた彼は動揺のあまり何かを言おうと口を開く。それを許さず更にキスを重ねる。腕を伸ばし、彼の首に回した。逃げられないようギュッと力を込める。唇を押し開けて舌を侵入させた。彼の口の端から吐息が漏れる。それごと飲み込もうと更に深く口づけた時、背後で衣擦れの音がした。あなたが布団を被り直したのだ。

 それを合図に、腕の中から彼を解放する。彼は肩で息をしながら私を見ていた。暗い部屋の中で強く光る瞳が私を射抜く。

 もう手に負えないのだと痛いほど感じた。それから、隠れるように、彼の腕の中に潜り込んで眠った。


 その後、私は携帯電話の番号を変え、引っ越しをした。彼とも別れた。誰にも何も教えたくなかった。季節がただ巡り、何も起きないまま日々が過ぎ行く。広大な海を渡る鳥の群れのように、ただただ飛び続けた。陸地は見えない。それで良かった。私は馬鹿で、とてもとても馬鹿なので、足場を、戻る場所を、すべてをめちゃくちゃに破壊しないと飛び立てなかったのだ。



 数年後、偶然に再会した女友達から誘われたSNSで真っ先にあなたの名前を検索した。外国の風景と共に欧州の国の名前が書かれていた。それだけを確認すると、私はすぐにSNSを退会した。

 それからあなたの名を一度も聞いていないし、これからも聞くことはない。

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馬鹿者の恋 野村絽麻子 @an_and_coffee

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