第4章1節
漬物石にでも使えそうな本を閉じる、パタンと些末な音が響いて、辺りの静寂が掻き立てられる。
耳を塞ぐ代わりに本を横たえて、書き込んでおった紙切れをソヤツに乗せる。それで、頭やらを休ませようと奥の方へ目をくれた。
もう白昼とは呼べない頃合いであろう。
それにしたって、小さな窓枠から射す明かりは文面を照らすのがやっとであって。まるで悪役を照らし出すスポットライトのように、この大広間を監獄みたいに演出する……よかったのじゃろうか、未だに手持ちの答えへ頷けずにおる。
きっと、ああする他になかった、そこに後悔なんぞありはしない、どころか後悔なんぞする資格もない。
結局はこんなことしかできず、求められるものは何一つとして与えてやれず。アヤツの残り少ない時間をますます短くさせている、その張本人じゃというに。
アヤツは隣に居るだけでよいと言っておった。ただ笑って、ただ喋って、いつも通りの日々を過ごせておればよいと、きっと偽り無く、そう言ったおった。
だったなら、何を迷うこともなかろう。
それが何度も何度も浮かぶ答え。けれども毎度のこと、胸の内をクレヨンで黒々と塗り潰すような、どうしようもない不快感が湧いてくる……あの『全てをなかったことにして』という声、その残響が時を経るごとに大きく、より鮮明になってくる。
もう一度だけ……ただ見ていられれば……社へ通うのは止めたというに、知らず知らずに祈ってしまう。もっと強くありたいのに、強くなければならんのに――。
「……おい、タヌキ。遊んでないで、さっさと報告したらどうじゃ」
二十メートルほど先の方、手前から三つ目にあたる棚。その影より女が一人、応答するようにチラと覗き見てきた、一つ目線が合う。
ソヤツは手を振ってくる、こっちも仕方なしに小さく振り返す。
して、ソヤツは今朝とは違う涼し気な風体を露わにすると、ゆっくりと点滅を繰り返しながら、その両手を頭の後ろへやりながら近付いてきよる。
「いやーおしいなー、新記録ではあるんだけどさー」
「惜しいも何もないじゃろ。よくも飽きんというべきか、そんな面白いかや……高々半歩やそこらじゃろ」
「半歩かー、そのくらいか――まあ、その本を二つ並べたくらいかなー」
それで、机の向かいで歩みを止めると、右手をこっちへ差し出す。薄く、有機溶剤の匂いが漂ってくる。
「それ、読み終わったなら戻しておこうか?」
「いいや、こっちでやっておく、それよか聞かせてくれ」
「そうですか、そうですか。でわでわ、ご清聴のほどを」
そう言って会釈をしてくると、自身の後ろ、こっちから見て一つ先の机へ攀じ登る。踏まれた六人掛けの木工机は、一切の苦情も零さぬ。
タヌキは何を思う様子もなく、ラジオ体操でもするように腕を広げて、他の誰がおるでもないのに一つ辺りを見渡す。
して、どこぞの演説屋がするように沈黙を噛みしめると、これもまたヤツ等の流儀へ沿うように小さく囁いた。
「……少年は、ボクのことを信じてない」
「ほう、そうは見えなんだが」
「いいえ。天地神明に誓って紛うことなき事実なのであります。モノの試しと思って耳を傾けていただきたい、君のカタワレが言いやがりましたことを」
「そんな酷いことを言われたのかや」
「ええ、ええ、そうですとも、まったくその通りであります。いいですか?あいつはボクに『お前は何者なんだ』とか抜かしやがりましたんですよ、自ら友達だのなんだのと呼んでおきながら」
「……何者?」
「ええ、まったく失礼な御仁だと言わざるを得ません」
「そうじゃな」
それは……どうやらまた一つ、アヤツから奪ってしまったらしい。それこそアヤツの全てをなかったことにしてしまうような。本当に取り返しがつかぬもの。
「――おかしいではありませんか。『友人関係とは信頼があればこそ』と、そう言い切って憚る必要がどこにありましょう。ですからね、皆々様からもなんとか言ってやっていただきたい、『ねぇねぇ貴女、もっと狸の心に寄り添える人になりなさいよ』といった具合にですね、それでこそが御仁を思う者、その勤めってもんでしょう、」
親を奪って、繋がりを奪って、時間を奪って、目的を奪って、自由を奪って……そして……。
それでも化け物は……化け物こそは笑ってやらねば、な。
「で、ウヌは居ても立ってもいられず飛んで来たと」
「ええ、ええ、それですから、すなわち飛ぶ鳥を撃ち落とす散弾とは我々人民の――ん?いんや、そんな無責任なことはしませんよ、その後もちゃんとお手伝いしましたとも、」
「待て、分からぬ……アヤツが、お主を忘れたって話ではないのかや?」
「え?ああー、ごめんごめん、違うよ。ボクってば少し先走ったかな」
「……なるほどの」
「やだなー、そんな怒んないでよ、今回は本当にわざとじゃないから。いやー、まさか記憶喪失の話に聞こえちゃうなんてね、そんな少女漫画じゃないんだからさー、あっはっはー」
タヌキは随分と大袈裟に、今度は落語家のような膝立ちになって足場の机を三度も叩く……あっはっはー。
「えー、つまりはですね、『おいこれ狸や、お前さん自己紹介を忘れているぞ』と、少年はこんなニュアンスで問いただされたわけですよ。そらあ天地をひっくり返された気分にもなりますわなーって」
「ほう」
「ね、その場に空想のカメラを持ち出すまでもないでしょう、あの方は心の奥底ではボクを信じていないのです」
「まあ、それを言い始めればこっちも信じとらんが」
「へえ?やだ、ショック」
目先の剽軽は胡散臭く、それこそ少女漫画を一層誇張したような顔をした。
「ねえねえ、おかしいじゃん!ボクだっておんなじくらい居るのにさ、なんでポッと出みたいな扱いなんですかッ」
して、そんな抗議の声色を弾ませながら、落ち着きなくこっちの机まで詰め寄ってくる。
「いやまあ、そこまでは言っとらんじゃろ。されとて、そっちは身の上話とかせぬ故な、有り体に言えば自業自得じゃろ」
「んー、まあ?たしかに九理くらいあるとは思うけどさー、ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。ボクという現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明なのです――ようは、『君の中にあるボクこそが、君にとってのボクの全て』なんですよっ、だってのにまるで説明書が欲しいみたいなっ、ボクは家電じゃないっての!」
「……ほう」
その随分と饒舌な言い分は、よく咀嚼もできぬまま右から左へと流れてゆく。まあ、強いて言えば、一昨日に見た『わっとゆーしーいず、わっとゆーげっと』との記載くらいは浮かんでくる。
そこまでどうでもよいとか、つまらぬ話でもないんじゃろうが……どうにもいつぞやのような、思い出したように疲れが湧いてくる。
「むむっ、なんだか狐くんの目線から軽蔑を感じます、せめてもう少しくらいは隠してください」
「しとらんよ、ただ朝食の献立を考えてただけじゃ」
「……明日の?」
「明日の」
タヌキは泣き真似をする。その演技は随分な大根っぷりで、「えーん、えーん」だの、「どうしてイジめるのー」だの……大概、見るに堪えない。
「ところで坊は何か言っとらんかったか、何故について。それで必要だと言うのなら、そうする他に無かろう」
「ほうほう、ふむふむふむ、なるほど、それは十理ありますねー。ただ、何も聞いてないよ、ボクだって聞き返さなかったし」
「何故じゃ」
「まあ、言われた時は何とも思わなかったというかー、水浴びしてたら意味するところが分かったわけです。ほら、そういうことってあるよね?」
「……否定はせぬ、否定はな」
なるだけの譲歩はしたが、タヌキは透明人間からでも奪い取るように向かいの椅子を引く。
「そうですかそうですか、まったくもって悲しいですよ。お二方が寂れた借家に住む新婚だったなら、ボクは毎朝挨拶を交わす優しい大家さんでいたつもりなのに――そんな乙女の心を何だと思ってるんですか」
「何だと、かの。まあ、そのくらいの距離感であれば、強ち間違った認識でもない気はするが、」
「そんな話をしてるんじゃないんです!ボクはもっと、『アレ何だっけ、アレ』って言ったら『ああ、山猫軒だったかな』みたいな、もっともっと親しい間柄でありたいんですよ!」
「いや、それはもはや超能力じゃろ、」
「あーあー、まだ怒ってるのかなー、別に『奇跡が起きました』でいいじゃん、二人を結ぶ運命の赤い糸は切れませんでしたとかさー」
とかさー……まあ、少しくらいは飲み込めてきた。本当に心が読めたのならと、そんな風に思うこともある。
「ねーねー、そっちもヘソなんて曲げてないでさー、少年にだって親友の一人や二人が居た方がいいじゃんさー」
「こっちは臍なんぞ曲げ取らんわ」
「ならさー、向こうさんと仲良くするコツとか教えてよー」
そんな伸びきったカセットテープのような声を出しながら、目先の玩具でもねだるように躰を揺らす。
かのような方法があるなら、こっちの方がよっぽど知りたいわ。そうは思えども、こと「坊の為になるか」と言えば不服なれど外れとらんか。
「そうじゃの。参考までにじゃが、坊ならこう答えたと思う」
「ほうほう、さっきのやつ?それは何と」
「……例えばな、一枚の絵にタヌキが描かれておるとして。されど現状、その周りに何を描けばよいか見えてこぬ……こやつと、写真のように木々やら他の動物やらが加えられたモノと比べれば、その実存の蓋然性は違って見えるじゃろ」
「ほー、ふむふむふむ。あんまり声は似てないね――けどまあ、ボクってそんな掴みどころがないのかな?」
そりゃ、真似とらんのじゃから似るわけなかろう……だったらと、自らの首元へ手を添える。
「……いや、無くはないよ。お前がその姿へ固辞してるのは『これが自分』なんだって、そう思いたいからだろ」
「はて、何のことやら?とゆーか、もう少年の真似はしなくていいからさ、てか、少年はそんな洒落たこと言わないし、」
「何のことはない、お前も居場所が欲しかった。きっと、それだけだよ……何者にでもなれるのは、何者でもないから。何処へでも行けるのは、何処にも帰る場所がないから……何の根拠もないけど、私にはそう見える」
「いや、あの、」
「それなのに弱味の一つも見せずにね……本当は分かって欲しいとか、知って欲しいとかある筈なのに。その心の初動が、単に怖いからだとかは分からないけれど、それでも、必死に向き合っててさ」
「……」
「たぶん、そんなお前だからこそ信じてみたくて、私は友達になりたかったんだよ……これだけじゃ駄目かな?」
「…………うっぷ」
タヌキは口元へ手の甲をやって、崩れるように机に突っ伏す。
あっはっはー。そうやって少しはこっちの積み荷を知るがよい。
「おやおやおや、どうかしたのかや?」
「いえ、大丈夫です、まったくもってノープロブレムです、けれどもその、人の心臓を素手で撫でるような物言いはお控え願えればと、はい」
何を狼狽えておるのやら。なんとなしに窓の外へ目をやって、また心にもない方便を続ける。
「タヌキ、お前さんはよい子じゃな、いっつも邪魔をせんようにと待っておって。それで時を見ては、静か過ぎてはならんと騒ぎ立てるというに、結局は言いたいことも言わず、ただ『戻しとこうか』などと、」
「あああーッ!もうやめてよ、ほんとこれっぽっちも掠ってすらないから!ボクはそんなオセンチでも聖人でもないの!だーッ、ゾワゾワする!」
「ふふっ、ういやつめ」
「わー!あー!やー!」
ガタンと、椅子を蹴る音がする。
戻せば、タヌキは音の鳴る玩具みたいになりながら、本棚で作られた通路へ逃げて行きよった。
ソヤツのあげる奇声がどんどんと遠退く、真っ直ぐに最奥の壁へ、そこを左折、肘でもぶつけたのか五冊ほど落ちて、一度止まりそれを戻す、再び走り出し、窓枠まで行って……奇声と足音が消えた。
して、それらに代って荒い呼吸音が聞こえはじめる……どうやらすぐには帰って来なそうじゃ、仕方なしにと本に乗った紙切れを手に取る。
一応の間違え探しは終わっておる。
なれども、こんなことをしてアヤツの為になるんじゃろうか。むしろ、より一層を奪ってしまうとも……いんや、人間ぶるのは一番よくない。きっと、一番誰の為にもならぬ。
自ら口にしたではないか、『必要だと言うのなら、そうする他に無い』と。
それこそが本心なのか――もう分からぬ。何をどう見繕ってみても、このちっぽけな脳味噌では手に負えん気がしてならん。
なぜなら本当のところは、誰よりも求めているのは、たぶん…………。
「早い帰りじゃったな」
「はははっ、ちょっと太陽に見惚れててね」
「そうかの。何でもよいが、今の姿を見せてやったら少しは違ってくるやもしれんぞ」
「まさかまさか、少年なら『それも一つのペルソナだ』みたいに偏屈捏ねますって――あれ?最初っから詰んでない」
「知らぬが、その架空の物言いこそが仮面なのではないかや。とりあえずは当たって砕けろ、話はそれからじゃ」
そうやって投げ捨てた言葉が戻って来ぬように、紙切れを差し出す。
「うわー、なんと時代錯誤なスパルタ教育ですこと――おや、流石の狐くんは仕事も早いね」
「なんじゃ嫌味かや、流刑に処すぞ」
「あの、色々と待って、ボクがやったら数十倍はかかるなーって、純粋にスゴイなーってだけだから」
「そうか、ならば許そう」
「ははー、ありがたき幸せー」
ごっこ遊びを一つ交わす。それで、タヌキは紙切れを両手で受け取ると目線を落とす。
ぶつぶつと、なにやら小首を傾げたり、かと思えば一人で頷いたり、時には何度か同じ場所を読み返しながら…………結局は何を聞いてくるでもなく読み終える、腕を組んで椅子へ凭れる。
「ふむふむふむ。んー、もうちょっとキレイに書けない?」
「直ぐにそっちよか書けるようになる――それより、変なところはあったりせんか?」
「ん?うん。あとは準備しながら擦り合わせれば大丈夫じゃないかな」
「そうかや……そう易々と肯定されてしまうのは逆に不安になるのう」
「あー、その気持ちはちょっと分かるな。ふつー、最初っからツッコミどころがないとか不自然だもんねー……だったらさ――」
タヌキは紙切れを机に置いて、半回転させる。
それで一番下の方へ中指を乗せると、一つばかり注文を述べた。
「書き加えなくていいけどさ。きっと、伝えとかなきゃいけない思いがくっついてくる筈だよ、ここにね」
「何故そう思うのじゃ?」
「ふっふっふ、ボク様には未来が見えるんじゃよ」
「……お前は何者じゃ」
「え。それってさっきのとは関係ないよね、ねえ?」
無責任な、そんな【自分勝手】をしてよい道理がなかろう。そもそも、その思いとやらが分かれば……文字に起こせれば苦労せぬ。
故に、そこまで見据えての言い回しなのじゃろう。まるで「遠巻きに見れば簡単なこと」と言われてるようで気に食わぬ。
されど、何もしないよりはよっぽどよい。何もしないでいられるほど、強くもない。それだけは確かであって。
「ねえねえ無視しないで、」
「二日じゃな、二日で練り直す」
「……へ?いや、あの、むしろ休んだ方がいいと言いますか、ボクは急かそうなんて思っちゃ、」
「む、まだおったのか。お勤め御苦労、昼をとってきて構わんぞ」
「……日帰りの慰安旅行へ出ます。探さないでください」
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