第3章4節


 

 幾多もの窓が付いた無機質な壁、そやつの袂、走って来た勢いのまま明るい路面を蹴りつける。

 

 上から吹き付ける風と共に、こっちの影を映す窓が下へ下へと流れてゆく。

 

 それが段々と遅くなって、ちょうどよいタイミングで来た窓枠をもう一つ蹴りつければ、壁の天辺まで躰が舞って、視界が開ける。

 

 天辺から申し訳程度に伸びた黒い鉄柵、その向こう、殺風景な屋上にポツンと一つ人影がおる、ソヤツを読み取るように過ぎた柵の上っ面を捕まえて、ど真ん中へ降りて立つ。

 

 檻を思わせる一帯は、淡い水色に赤々と唸る空をいくらか映しておった。

 

 こっちの足音は、その人影が振り向くぐらいには響いた筈じゃ。されとて、ネコのような暗く短めの癖毛をしたソヤツは、何も聞こえておらぬみたいに柵へ躰を預けておる。

「んぅー……間に合ったかの?」

「どうも君の顔には見覚えがありませんね。人違いじゃないですか」

 

 こっちへ顔も向けないままに、その人影は答える。踏み出す足がほんの少し重くなる。

 

 それでも、心許ない残照ざんしょうに背を押されて、一つ、また一つと歩みを進める。

 

 こっちの影法師が人影に触れる。おってくれたはよいものの、やはり顔を合わせようともしない――その可愛らしい容姿と同様、性格までもが気分屋になったみたいじゃ。

「お主は見知らぬ人間に、そんな言い草はせんであろう……たった一枚の紙切れで、どうにかなる訳もなかろうて」

「まあ、そうせっつかないでよ。彼らだってあんなにも律義に歩いているじゃないか」

 

 何のことか、ソヤツの隣から先を見やる。

 

 こっちが来たのとは反対側。ビルの影が長々と伸びるその先に、軽空母にすっぽりと乗せられてしまいそうな小さな街が見える。

 

 そこでは街灯のようにポツポツと、人々が枯れかけの暗い小川みたいにして、港にある巨大な筒の方へと向かっておった。

「君はどうして、あの人波から外れてしまったのかな」

「外れるも何も、目的が違うではないか」

「それもそうだね」

「……なるほどの。本当に治ってるみたいじゃな」

 

 懐に仕舞い込んでおった疑念が、一つの回答を示す。忘れようとしていた『用済み』という言葉が、頭の片隅でチラつく。

「なあ。そろそろ冷えてくる頃じゃ、はよ帰ろう」

 

 坊は何も答えない。そっちを覗き込むと、その前髪の合間から右眼が覗いておった。

 

 その眼は山の向こう側でも見ているようで、もう全ては終わったのだとでも言いたげに映る。

「んーむ。まーったく、何を意固地になっておるのかや?もう用は済んだのであろ?」

「……どうかな」

「あー、あれかの?ぷりんが食べられてしまった故な、新しいのが欲しいなら帰りにでも寄ればよいぞ」

「そうかもしれないね」

 

 そんな風に嘯きながらも、柵から離れる気は毛頭ないようじゃ。どうしてか、その心がまったく読み取れぬ。

「そっちが……坊がその気ならこっちにも考えがあるぞ、これ以上無下にするならば――」

「悪いのは君じゃない」

「……なーッ!そんな話などしとうない!」

 

 どうも言の葉では文字通り、ひらひらと靡くばかりで埒が明かぬ。故に分からず屋の肩へ手を掛けて、ソヤツの顔をこっちへ向けさせる。

「なんで真面目に取り合ってくれん、もう顔すら見たくないとでも言うのかや!」

 

 坊は、こっちの腰の方へ一つ目をやった。帯でも緩んでおるのかと見まわしてみる。おかしなところは何処もない……たぶん。

 

 確かめようと坊の方へ向き直る。されどもソヤツは呆れたように、その目元を細めるだけじゃった……その肩を揺さぶる。

「なあ!言ってくれねば何も分からぬ!こっちが気を悪くすることをしたのかや……どんな形でもよい、せめて想いだけでも分けて欲しいのじゃ、」

「とりあえ、ずさ――」

 

 坊は舌を噛みそうになりながら口を開いた。その先、何を宣うのかと手を止める。

 

 ソヤツの顔は上の方を向いて止まり、一つ苦笑を浮かべる。

「とりあえず、ヒトの姿になってくれないか」

「………………これでよいのかや」

 

 こっちの合図に続いて、性根の曲がったネコはやっと目へ向きおった……まあ、元気そうで何よりじゃ。

「助かるよ。狐語は難しいからね」

「はあ……無理に決まっとろう、そんな嘘を吐き通すなんぞ」

「いや、下手に心配させるよかマシだと思ったんだけどね、それに案外通じてたんじゃない」

「さてな、どーだかのー」

 

 どこぞのチンチクにでも絆されたのか、坊は不格好に肩をすくめよる。てんで似合っとらん。

「そんな難しく考えなくて良い、単なる小旅行だよ。なんなら狸だって残しといたじゃないか」

「タヌキかや?あのチンチクなら背中を押しとったぞ」

「なるほど、そっか。やりかねないね、あいつなら」

 

 その思い出でも懐かしむかの如き声色に、なおさら頭を小突かれたかの如くカチンときた……くひひ、やっぱり薬指の一本くらい圧し折っておくべきか。

「……して、さっきのは何だったんじゃ?」

「まあ、自然保護の一環かな」

「なるほどの、もっとすとれーとに行こうではないか――坊は一人になりたいのかや?」

「肯定だ、もう一つだけすべきことが増えたから」

 

 坊は開き直ったみたいに、ふざけたことを抜かす。その顔を目を逸らさずに、じっと見つめる。

「こっちの為に一人になりたいのかや?」

「心配性だね。ただの息抜きだよ、四六時中人と居るのが苦手なんだ」

「……坊は辛くないのかや?」

「いや、何も。常識的に考えてみなよ、私だって子どもじゃないんだからさ」

「……出先の文字すら読めないというに、一人で大丈夫かや?」

「まあ、海外旅行みたいなもんだね。それに一人の方が好都合だ、同情だって誘えるだろうし」

 

 そこまで見届けて読み取れてしもうた……避け続けてきた恐れが、ヒタヒタ音をたてて滲み出してくる。

「その、勘違いだったらすまなんだが、一つ聞いていいかや?」

「問題ないよ」

「こっちが原因なんじゃろ、その病」

「違う」

「そうであったか」

「違うって」

「あ、あーあー、ほんに信じとうなかったのー」

「あのさ。違うと言ってるだろ、その無駄に大きな耳は飾りなのか――」

「あるんじゃよ、癖がの」

 

 故に、見える。触れなければ切れないと思っておった、思いたかった、細い細い蜘蛛の糸。遥か暗闇から吊るされたそれを手に取って、願い事でもするようにカランカランと揺さぶる。土足で踏み込む。

「なんのことはない、二十年も見ていれば誰でも気づくじゃろ。お主は嘘を吐く時にな、ばつが悪そうに目を逸らすのじゃ」

「……ダウト」

 

 坊は、いつもみたいにヘタな嘘を吐く。自分すら騙せない嘘を吐く……コヤツに邂逅した時を思い返せば、見つけてもらえた時であって。

 

 怖い、戻りたい。そんな心を押さえつけるように首元へ手をやった――じゃというに、この手までもが一つの生き物みたいに震えておる。

「ま、まあ?本当に嘘じゃったりしてな」

「……無駄話なんてするんじゃなかった」

「ふーははっ!ようわからんが、こっちに勝とうなど百万光年早いわっ」

「そうだね、化かし合いで勝てるわけもない」

「そーじゃそーじゃ、よーやく観念したみたいじゃな!さすればさっそく、どのようにすればよいか話して貰おうぞ!こっちに原因があるのなら、どーとでもなるじゃろーて、」

 

 と、いつの間にやら坊は、またもや背を向けおった。よっぽど群衆が気になるのか、それとも顔向けできないような……ただ、西日が眩しいだけであったなら……そんなわけもあるまい。

 

 して、答え合わせをするように、こっちの騒がしさを嗜めるように、いつ途切れてもおかしくない儚さで呟きよる。

「とどの詰まり、私は君を待っていたことになる。別に、『見つけて欲しかった』とか、そんな風に思ってくれれば良い――でなければ、こんな場所に居るわけないのだから」

「う、うむ?……わかった、全て聞くぞ」

「……ありがとう――きっと私は、神を探していたんだ。真昼間に提灯を点けて、裸足で広場を駆け巡るように。この世界の【ありのまま】が信じられなかった。こんな、私のような馬鹿が一人でもいれば揺らいでしまう世界。そんなもの、世界を丸ごと管理できてしまうような存在でもいなければ説明がつかないと思った」

「それが、ずっと藻掻いていた理由かや」

「そうなるね――最初は権威になろうとした、次は彼らに紛れようとした、その次は同族を見つけようとした。けれど、全ては徒労に終わった。結局、過去へ病的に執着したヒト。戦場を知らないクセに戦場で散りたいと喚くような、そんなどうしようもない愚者こそが私だったらしい」

「……ふむ」

「とは言えね、頭にはあるんだよ。少なくともこんな夢想は【本物】を目の当たりにしたなら、見ていたことすら忘れ去るようなクダラナイものだ、それは知ってる。こんな愚か者でも、そんなことを自覚するだけなら一枚の白黒写真と一冊の本で事足りたよ」

「……『金閣寺』かの?」

 

 坊は一つ、首を横に振る。

「君は本当に良く見てるんだね。でも、そっちはどちらかと言えばロマンスというか、それこそ背中を押す側だったかな――『西部戦線異状なし』、私にとってはこちらが現実を突きつけてきたんだ。あの朝靄の、その果てへ延々と続く塹壕と、書名にもなった一節が頭から離れない……でもね。それが真実として、一発の銃弾を前に平等だとしても、その銃弾はもう飛んでこない」

「……ほんの二十四年やそこらで変わったものよの」

「ふふっ、そっか。そいつは含蓄があるね」

 

 坊は笑った。なのに気のせいか、こっちの首元を撫でる風がますます冷たく感じられる。

「なあ、どっちも本物ではないのかや?過去の戦争も、今の平和も」

「そうだね、たしかに事物としてはどちらも存在している筈だ。でも、解釈を与える私自身が上手くやってくれない」

「……えっと、平和が好かんということかの?」

「いや、納得できなかっただけかな――たぶん、何者かでありたいだとか、居ることを赦されたかっただとか……異世界やら過去の世界から迷い込みでもしたみたいな違和感を、こんな年になっても消すことができなかったんだよ。つまりは、大人になれなかった子どもだね」

「……さっきは、子どもではないと言っておったじゃろ」

 

 そうであったか、『大人になれなかった子ども』……じゃから、あんなにも寂し気な、哀しそうな顔をしとったのか。欠けておったジグソーパズルが一つや二つ埋まった気がする。

 

 されども、それは新しいコレクションを手に入れ、悦に浸るような喜びを与えるだけで。ソヤツがどんな感覚なのか、どうすればよいのか……本当のところ、一歩たりとも……。

「それと、これも話す責務があるのかな。たぶん君は、背後霊をやってたと思うけどね――あれは今の君よりも幼かった頃だ。そこが私にとっての始まりだったと思う」

「始まり……切っ掛けがあったのかや」

「いや、単に気がついたってだけで、事件や事故があったわけじゃないよ。だから、気に留めなくて当然だ……君も子どもの頃に、一度は思ったことがあるかもしれない、『あの子達にも、私と同じように【中身】が入っているのかな』なんてね。たぶん、この【中身】が示すのは魂だとか人格だとか、心だとかで。例えば――」

 

 そう言って、坊は地平線の方へ目を向ける。まるで世界がそこ切り取られているような、空へ溶け込む橙色の海の果て。

「私が君へ呼び掛けたとしたら、それは君の耳や目へ向けて話しているわけじゃない。君の【中身】へ話している、そんなイメージでね。あれだ、『星の王子さまのパイロット』を思い浮かべてくれれば分かりやすいかな」

「……こっちには、その『中身』はないのかや?」

「どうだろうね。これは昔話、出会う前の話だから――なんにせよ、少しは納得してくれたかな、私がどういった馬鹿者か」

「よく分からぬ」

「なるほど、そりゃあそうだよね。きっと嘘か本当か、それどころか心が見えたとしたって分かりはしない――もしも分かられてしまったのなら、それこそ私が終わってしまうかな、」

「それでも……分かりたいと思っておる。今までずっと」

「そうかい、御苦労掛けたね」

 

 本当に、ただ「お疲れ様」とでも労うようにソヤツは告げる。

 

 そんな関係はイヤじゃ、そう思われるのはもっとイヤじゃ、この島が丸ごと砕け散るぐらいの大声で――――自らの頬を引っぱたく、風船でも割れたような甲高い音がして……ヒリヒリと痛む。

「……大丈夫かい?」

「うむ、問題ない。羽虫が飛んでいただけじゃ――なあ、もう人間なんてどうでもよいではないか。いっそ、坊もキツネとして生きてみるなんてどうかの、どうしてもと言うならネコでもよいぞ?」

「ははっ、そいつは楽しそうだね、案外魅力的な提案かもしれない。だから言うけど……いや。まあ、感謝しかないね、本当に」

「違うぞ、『感謝』なんて終わってからでよい。楽しかったんじゃろ、それじゃ駄目なのかや?」

「まあ、そうなるかな。すまないけど手遅れだよ。私は法に裁かれなければならない。その決まり事を無視してしまえば本当の人でなし、完全な部外者になってしまう。それだけはできない」

「……どうしようもない寂しがり屋じゃな」

「放っておきなよ」

 

 相も変わらず酷く優しい声。淡々と与えられた役割を果たすかのように、こっちを突き放そうとする声。

「だから、ここでさよならだ。私は不幸へ帰らなければならないから」

「待て」

 

 何もソヤツが立ち去ろうとした訳ではない。でも、今にも何処かへ消えて行ってしまいそうで、咄嗟にその腕を掴んでおった。

「何も返せずじまいでごめん。でも、どうしようもない。勝手で悪いけど、もう自己破産だ」

「……何も返さなくてよい、ものなんて要らぬ」

「最初から、無かったことにして欲しい」

「なあ、こっちに出来るわけなかろ」

 

 分からない。どうしたらよいのか。本当に連れ去ってしまって、コヤツをまた除け物にさせてもよいのか――いや、罰を受けることが繋がりなんて……やっぱり分からない、おかしい。それこそ納得できぬ。

「坊よ、宣言する、こっちは絶対に引かぬ。故に何をやったところで綺麗になんて終わらんぞ、分かったかや?」

「いいや、分からない。私は愚か者だから」

「……違う、ちょっとばかし不器用なだけじゃ。普通に迷うこともある、普通の人間で……こっちには特別な、唯一の存在じゃ」

「そっか。ありがとう、悪いことをしたね」

 

 どれだけ言葉を選んでも、まったく受け取ってもらえぬ。話が堂々巡りしそうになる。坊はさよならを望み、こっちはその逆。

 

 そんなもの、赤子でも分かるような二律背反であって………………?

「なあ、坊。こっちも一緒に行ってよいのではないか?」

「見送りにかな」

「いんや、刑務所まで」

「……独居房ってのはね、独りで入るから独居房なんだよ」

「いや、こっちは坊の所持品でもよいぞ?」

「それは……なんとも危険な思想だね」

 

 ソヤツは所々息を漏らしながら、何故だか笑いを含んだ声色になる……むー、よい折衷案だと思ったが駄目みたいじゃ。

 

 と、そんな声を耳にしていれば、こっちの心持ちも綻んできたらしく、ソヤツの腕を掴んだ手が目に入って――沸いたヤカンにでも触れたように手を離す。

 

 されど、坊は何を言うでもなく、痕でも残ってるみたいに二、三、摩るのみじゃった。

 

 あまり強くした覚えはないが、加減した覚えもない。大丈夫じゃろうか――と、事柄から一歩遠退いた故であろう、聞き忘れたことを思い出す。

「腕は平気かや?」

「問題ない、まったく痛くも痒くもない」

「よかった。すまぬな、次から気をつける……ところで、坊。話が変わるが、よいか?」

「ああ、よいぞ」

「そのー、幻覚の方はどうなったのかや?つまるところ、どうすれば治る」

「…………まあ、絆創膏でも貼っとけば治るかな」

「ほうほう、それもまた吉報じゃ。であれば、帰りに雑貨屋へ寄るかの、無駄口を叩いてないでさっさと戻るぞ」

 

 ここまで来て何を……ああ、なるほどの。いや、そもそもどうして頭から消えておったのか。これが一番の肝所ではないか。

「むー、でこいにしては身を切り過ぎじゃないかや?」

「偽物だからこそ、より本物でなければならないんだよ。過去の姿、抜け殻は一番の偽装だろ」

「……嘘吐きめ」

「そうだね、大人はみんな嘘吐きだよ。自分でも嘘か本音か、分からなくなるくらいには」

 

 その口振りから察するに、よほど「救いようがない」と思わせたいようじゃった。

 

 ソヤツへ背を向けて、仕切り直すように筋を伸ばす。

 

 またもや袋小路と言えばよいか、やっぱり話すつもりがないらしい。知らぬ存ぜぬを押し通すつもりの相手に、どうすれば望みのことを言わせられるのやら――尋問が荒療治になるのも致し方ないかもしれん。

 

 となれば、やはり拉致監禁するしかないのじゃろうか?などと息まいたところで、話してくれないならどうにもならぬ。

 

 中指でコツコツとこめかみをつつく……とんつーとん、つーとんつーとん、とんつーとんとん。

 

 すっかりこなれてしまったモールス信号に、なんとなくの繋がりを見つけてか、頬が緩むのを感じる――だったなら、きっと何が進むこともなかろうが、やりたいことやらせてもらおう。たぶん、それがよい。

 

 思いつくが早いか、柵を向かいへ飛び越える。でもって狭い足場の上を二歩進み、坊の前に立つ。

 

 それで、影が落ちた坊の顔を横目に見ながら、ひっくり返りそうな抑揚だけでもなるだけ落ち着けて、一つ演技をうってみる。

「どーしても話してはくれんのかや」

「すまないね」

「……そうか。であれば、どうせ粗末にする命じゃろ。こっちに一つくれやせぬか?」

「脅しのつもりかな」

「ふふっ、なんじゃ、身勝手な奴じゃのー。自らは勝手に死のうというに」

「そこまでは言ってない」

「なーに、つまるところは同じじゃろうて――」

 

 坊の方へ向き直る。両の手を放して、思い切り広げる。

 

 様子を窺えば、その瞳にはこっちの姿が映り込んでおった。

 

 そこからすーっと、夕日よりも高い空へ顔をやって……止まったような柔らかい雲。その前をカモメが高々と横切り、ソヤツをなんとなしに見送る。

「そろそろ夕凪が訪れる。そんな、どうにもむず痒い風じゃな」

「……こんな島に陸風なんて吹かないよ」

「そーか、そんなもんかの」

 

 冷たい風、冷えた躰。視界に満ちた暖かい色合に反して、なんだか心まで冷たく硬くなってくる。

 

 このまま共に終われたのなら、何を知らなくとも――いんや、やっぱり向くいとらん。

 

 坊には何処まで見えとるのやら……今すぐは難しい。故に、もう一人の自分、ソヤツにでもなったつもりで喋り続ける。

「なあ、坊よ。代わりと言ってはなんじゃがよいことを思いついたぞ。こっちが先に逝って話をつけてやろう、地獄巡りだって連れが居た方が楽しかろうて――」

 

 と、躰が倒れるように、坊の胸元へ引き寄せられた。

 

 ずっと陰になっていたその胸元、軍服越しじゃというに柔らかな温もりと、より大きな鼓動を感じる。生きておる……こっちの背中には、壊れ物でも扱うかのような弱々しい腕が一つ触れて……て、ててて……。

「危ないマネは止めなよ」

「……はなして。うで」

「そりゃあ、君なら落ちたところでどうってことないかもしれないけどさ――」

「よいから。はなして」

「万が一もあるだろ。私と違って未来があるんだからさ、大切にしなよ」

 

 もはや口が開いたままになって、ブリキ玩具にでもなったかのように首だけがコクコクと動く。

 

 冷え切っていた筈の躰に、何処から湧いて来おったのか熱い液体が混ざりだす。みるみるうちに体温が上がっていく。

 

 そんな無様へ気づいているのかいないのか。こっちが腕を赤子のように喚かせて、やっとのことで開放された……半刻にも思えた。もしかすれば脳天で目玉焼きでも焼けそうな……眩暈がしてくる。

 

 これでは本当に危ない。御猪口のように浅くなった呼吸、そこに酷い違和感を覚えながら柵を躙り上る。

「おかえり」

「…………考えよ。やってよいこと、悪いこと」

「なるほど?申し訳ない」

 

 額に手の甲を宛がう。水枕のようで気持ちがよい。プシューと音を立てて、蒸気が抜けてゆくような……だんだんと内圧が下がってくる。

 

 ああ、酷い辱めを受けてしもうた、もう嫁には行けぬかもしれん。やっとのことで、そんな軽口が浮かぶようになる。

 

 まさかまさか、こんなことになろうとは。

 

 振り返ってやれば、いつから自らを飼い慣らせていないのかすら分からぬ。島へ来てから一時を何年にも感じておったが、我ながらだいぶと耄碌したものじゃ――頭を振って切り替える。

 

 反省会をするのは後回しにして、兎にも角にも得るべきものは得られたようじゃ。故に、坊の胸元……を避けて肩の辺りへ投げかける。

「まあ、この際じゃ、不問としよう。幻覚の件も後回しでもよい。坊も困ってないみたいじゃからな」

「そりゃあ、どうも、」

「ただ、体調の方はどうなったのかや?立っとるのもやっとなんじゃろ?」

「いや、それが今……とりあえず目を隠してくれないかな」

「うむ、責任を取ると言うならよいぞ」

「いや、『よいぞ』ではなくてだね……こんな私には、責任なんて取りようがないだろ」

 

 そう言って、まるで勝負を投げたように躰を翻す。そのまま柵へ背を預けて、ズルズルとずり落ちるように腰を据えおった。

 

 歩けもせぬに、何が旅へ出るじゃ。リアカーにでも積んでもらうつもりだったのかや――はてさて、どんな話が聞けるのやら。

 

 そんな風に後ろ手で構えておると、思いのほか諦め悪く聞きなおしてきよった。

「話さなきゃ駄目かな?」

「むー。まあ、駄目とまでは言わんが――治るまでは病室で縛り付けになるぞ?そんでもって、雀のするように病院食を与えてやろう」

「酷い脅し文句だ」

「ふふっ、これも一種のこらてらるだめーじって奴じゃな」

「……そうか、彼らと同じでいるわけにはいかないらしい」

「うむ?ようやく観念したのかや」

 

 坊は首筋まで疲れたのか、柵の合間に後頭部をあてがう。して、空へ顔を向けたまま、小雨のようにポツポツと話しだす。

「そうだね。無責任な口約束を思い出してしまったよ」

「ほう、口約束でもるーるはるーるじゃからな、守る通りがあるわけかの」

「そうだね……あーあ、一体どっから、間違ったのかな」

 

 ソヤツは目を瞬かせて、誰かを心から憐れみむように口元を歪ませる。

 

 その様が見るに堪えなくて、目を逸らしたくなる――違う。同じ事を繰り返してどうする。

「大丈夫、こっちがいるじゃろ。いっそ、伴だって逃げてしまえばよい」

「はははっ、泣かせるじゃないか……ありがとう。でもね、私が逃げてちゃ話にならない」

 

 何故そうまでして強がるのか、そう一つ声を掛けようとする。なれどもそれが形となる前に、坊は問い一つを投げてくる。

「ところで、今まで通りに戻ったとして何かしたい事があるのかな。何の為に私が必要なんだ?」

「むー……なんでそのような小難しいことを聞いてくるのじゃ……ちょっとばかし考えさせてもらうぞ」

 

 なんだか色々と起こり過ぎて、頭も躰もクタクタじゃった。なれど大きく、大きく吸って、為すがままに息を抜く……浮かぶままに言葉を手繰り寄せる。

「居なくなるなんて想像すらしたくない……故に、そういうことなんじゃろう、と思う。それと、したいこともたくさんある」

「そっか、なるほどね」

 

 まるで暖簾のような薄っぺらい返答……あーあーそっか、ならばゆく末は決まってしもうたな――チラと柵越しに淵を覗けば、適当な縁出しがいくつも見て取れる。

 

 故に余裕をもって、せめて辞世の句でも聞いてやろうといった心持ちで自重する。まあ、そこに如何なる理由があろうと関係ないんじゃが。どうやら、向こうさんは形だけでも納得はしたらしく、やっと話す気になったようじゃ。

 

 坊は、「嘘を語らない」と宣言するようにこっちへ目を向ける。

「――私は死ぬよ。おそらくは、そう遠くなく」

 

 ソヤツは何と言ったか、まるで他人事かのように呟きよった。

「……嘘じゃ」

「いいや。嘘は分かるんだろ」

 

 まるで時が止まったように脳味噌が白けて、頬が引き攣って、焦点が行き場を失って――――頬を奥歯で噛みつける。

「君は何も悪くないんだ、これも嘘じゃない」

「……分かった。それはもうよい、気遣いはいらぬ」

「そうか。なら、私の身体について話すよ――まあ、今まで隠し通せていた自信はないけれど、まともに動かないどころか感覚すら朧気なんだ。例えるなら、そうだね、半分寝ている状態に近いかもしれない。それはココへ来た時……一ヶ月前の二日酔いみたいな頭痛から始まって、そこから基本的に途切れることもなく、少しずつ全身へ広がって……つまりはどうしようもないわけだ」

 

 ちゃんと脳味噌は働いた。ちゃんと話を噛み砕ける……そうか。そうじゃったか、そりゃあ話したがらないのも当然じゃ。

 

 故に、感情を気取られないように心を殺す。呼吸が浅くなる。

「それでだね……万が一の、言ってしまえば与太話なんだけど、妖狐には哀しい話が多いだろ。自分に近しい相手ほど、自らの血肉にするように弱らせてしまう。その相手を独り占めするために、自分以外を歪めて認識させてしまう……もしもさ、その妖狐が少し不器用な、ただのお人好しで。ただ、約束を守りたかっただけで。ただ、仲間に入れて欲しかっただけで。ただ、運が悪かっただけで…………そんな話があってたまるかってね」

「……付け加えて、その二人が好き同士じゃったら尚更じゃな」

「ああ、たしかにね」

 

 一つの時差をおいて、その語りへ相反するようにこっちの躰は和らぐ。

 

 どうも坊が考えているほど、心とは難しいものでもないみたいじゃった。我ながらに、ほとほと呆れてしまうが。

 

 それで、生き返った心が無責任に道を示す……これのどこが『お人好し』なのであろう。コヤツがヘンテコな奴に絆されないか、ますます不安になるばかり。

「坊よ」

「どうした」

「坊こそ、したいことはないのかや?」

「……そうだね。今までの全てをなかったことにして、もう少し孤独と仲良くやれたのなら。きっとそれだけで十二分かな」

「ふふふっ、なんとも荒唐無稽な話じゃのー」

 

 ノビをしながら答えると、坊にはこっちの調子がよほどおかしく見えたらしい。

 

 ソヤツは心配と同情が入り混じった顔つき――中学には上がっておったか、幼い頃から連れ添ったテレビ、壊れたソヤツを不憫だと哀しんでおったような、そんな顔をする……可愛らしいと言えば可愛らしいが、ちょっとばかし複雑な気分になる。

「うーむ、その様な目で見て欲しくないんじゃが」

「……いや、何がそんなに面白いのかな、と」

「あー、まあ、こっちの話じゃ。それよか、聞き方が悪かったかの……最期まで見届けさせてくれんのかや?まあ、術にかかっておるなら断れる筈もあるまいが」

「……分からない。君はさっき『所有物でも良い』と言ったけど、それに近いかもしれない……拾いたければ拾えば良い、私はたぶんモノでしかない。だから――」

「坊、目を閉じておれよ」

 

 確認も取れた故、いつもの姿に戻る。して、病人が寝言を続ける前に掻っ攫う――もはや、見られていようが関係あるまい。

 

 いつかはしてみたいと思っておった、お姫様抱っこ。こんなに大きくなっても命を抱きしめる感覚がする。

 

 一っ飛びに柵を越えて宙へ繰り出す、適当なでっぱりをよく注視して乗り継いで、八割、六割、四割、そこから両足を揃えて玄関の屋根へ。

 

 あとは軒先から下りて、馳走でも担いで帰るかの如く、脳内麻薬の為すがまま帰路を急ぐ。

 

 薄暗い夕焼けに染まった人っ子一人いない街、そこを思い人と二人ぼっちで駆け抜ける……まるで何処ぞのドラマみたいじゃ。

「――分かったから!降ろさなくても良いから止まって!」

 

 やっと躰が温まってきた頃、小さな街に別れをつけた辺りで坊が突然叫び出しおった。

「む?いきなりどうしたんじゃ、そんな大声なんぞ出さなくとも、」

「首を傾げるな!止まれって、ストップ!死ぬから!」

「……風情がないのー」

 

 どうもこっちが気づかなかっただけで、既に何度も発していたらしい。弾むボールがだんだんと勢いを失うように走るのを止める。

 

 畑へ向かうためだけに作られたような、民家も街灯もない、雑木林を切り通した一本道。仕方なしに、とぼとぼと歩きだす。

「むー、飛行機と比べれば大したことないじゃろ?」

 

 そう問うと何を答えるでもなしに、こっちの二の腕辺りに添えられていた手で、その指でトントンとつついてくる……あー、なるほどの。

 

 こっちも、右手辺りに触れていたソヤツの太股をトントンとつつく。

《コノハヤサナラ ダイジョウブカヤ》

《モンダイナシ》

《ナラヨカツタ》

《オロスコトアレバナオヨシ》

《ツクマデノガマンジヤナ》

 

 何故か口ではなくモールス信号で返して来よる……ゆったりと流れゆく草木、ゆったりとした時間、二人きりの秘密の会話。

《ナニヲイツテタ》

《ヒコウキノホウガ コワイジヤロ》

《ノー》

《ソンナモンカノ》

《イエス》

《オコツテイルノカヤ》

 

 坊は一つ首を横に振って、そのまま進行方向を向く。一つ区切りを設けるみたいにやり取りが止まる。

 

 元より足音と、鈴虫の音くらいしか聴こえてなかった筈じゃ。されども時の経過以上に、辺りの雰囲気が随分と暗いものに見えて、まるで手持ち花火を全て使い切ってしもうたような寂しさを覚える。

 

 坊が、トントンと打電を再開する。

《シンジテナイノカ》

《インヤ》

《クルシムノハキミダ》

《ウム》

《オコツテイルノカ》

 

 こっちを真似た問い掛けに、こっちも真似て首を振る。

 

 その様子に、別段変わったところは見て取れない。否定も肯定も感じ取れない。

 

 よって、コヤツも望んでくれている、そう断定する。きっと、正解を求め続けてしもうたら後悔しか残らぬ。一つだけ、坊が何かを間違えておったとしたら……いんや、そんなことはどっちでもよい。

 

 ここに居るのは二人きり、そもそも他の者なんぞ知ったことではない。

 

 故に、いずれ勝手に答えが示される時。その時を納得して迎えれば、多数決で正しかったことになるのじゃろ。

 

 故に、自らの手が生々しい深紅に染まろうと構わない。これも……断定する。

「ひっくるめて、諦めとうない……すまぬな」

 

 そうやって、何処へでもなく呟く……なんも聞き返して来ない、困ってしまう。

 

 いっそ早く伝えてしまいたいような、そうでないような。だから、誤魔化すように少しだけ足早になって、ソヤツの腕をトントンとつつく。

《イツニナツタラ ナマエデヨンデクレルノカヤ》

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