第3章3節
早く、一歩でも早く、届けなければならぬ。
肺が痛む、後ろ脚が痛む、枝葉に当たってそこかしこが痛む。
喉がただの管のようじゃ――そんなことはどうでもよい、ただ前を向け、ただ息を吐け、ただ足を出せ。
明かりが見えた、森を抜ける、もうすぐ着く、その姿を目に入れる。
「きィ、来たぞッ!遅くなった!」
「ああ、おかえり」
薄暗い洞穴、化けたタヌキが見て取れた。違う、お前じゃない。寝床は……丸められて隅っこの方へ追いやられておる。
違う。呼吸を整えろ、頭を冷やせ。
「……坊は?」
「ですよねー」
「……ふー……それと趣味の悪い格好を止めろ、意味が分からぬ」
「へいへい」
坊の猿真似をしておったタヌキは、肩を落としていつものメスに戻る。
「次やったら……まあよい。説明せよ、何があった」
「あー、いいニュースとわるいニュースが――なんでもないです、少年が言うにはもろもろ完治したそうです、はい」
「そうか、不調は治ったか」
「いえ、そっちじゃなくて目とか舌の方です、はい」
「……はぁッ?如何にして」
「えーっと、それは自然治癒と言いますか神の御業と言いますか」
「なんとっ!……よかったー」
ヘンゲが解けて、自分の寝床へ崩れ落ちるように倒れ込む……ほんによかったー。
と、上の方へ、プリンの入ったプラスチック容器が転がっていった。どうも、襷掛けしていた包みも解けたようじゃ。
「むー、それならもっと色々買っておけばよかったのー……して、坊は何処へ出掛けとるんじゃ、水浴びにでも行ったのかや?」
「えー、大変言いづらくはあるのですけれども、そちらがたぶん悪いニュースでして」
どうせ碌でもないことじゃろうと寝返りを打てば、タヌキは坊が持っている筈の地図を出してきよった。
「はて?なぜ、お主が持っとるのかや」
「ええ、いわゆる置手紙と呼ばれるものかと、はい」
「置手紙?」
それを手に取って坊の寝床に広げる。パッと見、特段変化はないようじゃ。
裏返す。前に坊が書いておった絵と、見覚えのある……見間違う筈もない、何万と成長を見守って来た文字が並んでおって――。
「『ありがとう。また、いつか』……はて?」
「ええ、少年は出て行きました」
狸はそうやって飄々と抜かしながら、坊の茶碗や箸を新聞紙で包もうとしておる。
「……貴様、坊に何をした?」
「誰も、なんもしてませんよ。彼は誰の所有物でもない、ただ巣立っただけのことです」
「貴様は一部始終を見届けながらにして、ただ見送ったとでも言うかや?」
「そうなりますね。ボクは彼の友達らしいですから、」
頭蓋の奥地にパチンと火花が散って、それは刹那に全てを白々と染め上げた――。
陶器の砕ける音共に、眼下でメスが転がっておった、それとヤツの胸倉を握り込む右手首。
「ィタッ、流石に乱暴だよ」
「……ああ、すまぬな。もしかすれば加減が狂って絞め殺してしまうかもしれん」
「ま、まあ無理もないことですから、」
床に落ちていた地図を攫って、薄ら笑いを浮かべたソヤツの眼前へ突きつける。
「坊を何処へやった、答えろ、一刻すら惜しい」
「やー、ごめんね。ダチを売るようなことはできないんだ」
メスはせせら笑って顔を背ける。よもや何を口に出すものもない。
ヤツの胸倉を握ったまま、自らの腕ごと押し下げる――袖越しに骨の軋む感触がした。
「ギィッ、ダ」
「答えよ」
「……ひっ、、いひひ」
「何故笑う」
「ひひ、、この、光景を、、、少年に見せたら、、、さぞかし喜ぶ、だろうな、、って」
「……ふざけろ」
その空間ごと圧砕するように、右腕がメスの骨を歪ませ、食い込んでいく。
小指にも満たない長さを、けれど確実に。
「潰れるぞ。貴様の胸骨が、頸椎が」
「そう、、かも」
「……何故化けて抜け出さない」
「くひ、ひ……やさしい、、じゃん……ひ、ひひっ」
メスは息も絶え絶えに笑う、笑い続ける。本当に潰れる、潰れてしまう……潰してしまうというのに。
高を括っているのか、どうせ自分は殺されることなどないと――このまま殺してはいけないのか?
懐疑と共に天秤が浮かび上がる。
そこに吊られた二つの皿へ、投げ捨てるように言葉を乗せる。
何の損がある、何の得がある。一体誰が苦しむ、一体何が失われる――鹿のそれと何が違うか。
乗せて、乗せて、乗せて……下らない。
天秤は揺れる気配すら見せず、左へ傾いたまま……当たり前じゃ、何故こんなことをしているのか。いくら見繕っても、ただの成り行きに他ならぬ。
どうしようもなく馬鹿らしくなって、上体を起こし、空気を取り込んだ。必然と、タヌキの首元から腕が除ける。
洞穴の地肌を仰いで、行き場の失った感情が白煙のように漏れ出る。
「……やってられん」
「はぁ、ケへッ……はあー……死ぬかと思った」
「何がしたいんじゃ、お主は」
「ふぅー……べつにー?話がしたかっただけだよ、ボクはメッセンジャーなので」
「ならば、端からそう言えばよかったであろう」
「えー、それを君が言っちゃいますかー」
覆いかぶさっておったソヤツを踏まないように、右足で蹴って立ち上がる。
明るい方へ躰を向けて、乱れた掛け襟なんぞを一通り正す……馬鹿の一つ覚えみたいに激昂して、残ったのは酷い疲労と、臓腑を蝕むようなシクシクとした鈍痛のみ……何もかもが、やるせない。
と、後ろにいるヤツの呼吸音も落ち着いてきたようじゃった。横目に見ると、なにやらニマニマと愉快そうな顔をしておる。
心境が如何様であれ、やっぱり気に食わん……そやつを着飾った人形でも掲げるように引き上げる。
それで地面にそっと立たせてやって、ついでに背中についた砂埃を払う。
「いやー、なんだかこそばゆいですねぇー、青春の息吹を感じちゃいます」
「……悪かった」
「あーっと――謝らないでよ!それで許さなかったらアタシが悪者みたいじゃない!」
「重ねてすまぬ、どうやら脳味噌に後遺症が出てしまったようじゃ」
「違うやい!ただ言いたかっただけだい!ボクはどこも悪くなんてないやい!」
タヌキはその場に屈みこんで、自らの額に両手を添える。
そんな様をよく分からず見守っておると、ヤツの指の合間から笑みが見て取れた。それが、奴なりの釣り合いの取り方なんじゃろう。
ひとつ溜め息を吐いて、寝床へ座る。
タヌキのヤツはこっちを見て、そそくさと動きはじめた。して、隅の方から折り畳み椅子を取ってくると、向かい合うように椅子へ跨る。
「んで、心当たりはないのかね?」
「……坊が、抱えているのは見えとった。でもそれは、ここへ来る前の、もう終わったことじゃろ……あんな笑えるようになったのに、どうして未だ縛られなければならんのじゃ」
「まあまあ、おっかさん。せっかくならプリンを食べながらでも話せばいいでしょう――って、ジュースになってるじゃん」
「ならば飲めばよかろう」
「まー、そーだねー」
ヤツはいつの間にやら拾っていたプリンを容器ごと口へ運んで、一っ風呂浴びてきたように流し込む。
「ぷはーっ!意外とイケますなー」
「何を頼まれとったんじゃ?」
「いんや、少年の名誉のために言うけど頼まれたわけじゃないよ。それに実のところ、ボクは何も知らないんだ」
「……もう一度やらなきゃ駄目かや?」
「あー、大丈夫です。ちょっとカッコつけただけですから」
タヌキは自らの潔白を表すように手のひらを見せる。
して、いくらか思案するように上へ目線をやってから。まるで、感情を地中へ落っことしたような目つきで問うてきよった。
「狐くん、どうして君は彼を追いかけようとしたの?」
「そりゃ、連れ帰るために決まっとろう」
「じゃあ、なぜ連れ帰るんだい?」
「……坊は、こっちと居るべきじゃから」
言ったそばから気づいてしまう。どいつがそれを決めたのかや。坊が求めてないとするなら……何処にもおらんではないか。
「うん、ボクもそう思うよ。ふたりはお似合い、さよならをするには早過ぎる」
「……でも、現に坊は出て行って、治ってし――よくなったのなら、こっちはもう用無しじゃ」
考えるほどにこっちが間違っているんじゃと、淀んだ水のように染みてくる。こっちは坊の成長を見届けるために居たはずじゃ……それこそ、単なる補助輪のように。
だったら何故その旅立ちを否定できるというのか、何故――。
「ボクが笑った理由はそれかなー」
「……『それ』とはなんじゃ?」
「うん、狐くんは足を止められるタイプだと思うから、少年ほどじゃないけどね」
「まったく分からぬ」
「んー。ようするに、エイヤーってとりあえずでやっちゃうよりも、一度答えを見つけるまで考えちゃう感じ?」
「……ほんとに後遺症が出とらんかや?」
「いや、押し倒されたのはちゃんと覚えてるから、そんな憐れむような目で見ないでよ」
ヤツは自らの扱いを嘆くように目を細める。
して、仕切り直すように咳払いをすると、独り言でも呟くように先へ進める。
「狐くんは戻って来れたでしょ、初めて顔合わせした時と同じようにね……君達は似たもの同士で、決断を必要とするんだよ、まるで儀式みたいにね」
「……ほう」
「それはあまり合点のいってなさそうな顔だね。でも、少年がした決断、置手紙をわざわざ書き残していった理由を狐くんなら分かると思うんだよ」
「…………直接言うのが怖いから?」
「へー、そんなの恋じゃん」
「なッ!たわけがっ、取り消さんかっ!」
咽ると共に、仕舞われていた筈の天秤がふらつきだす。馬鹿なのか?大馬鹿者なのか?やっぱり死なねば治らんのか?
「というのはジョークで――」
「三度までじゃ、あと一回で終いじゃぞ」
「ふぅー……でね、近いとは思うんだけど、もうちょっと少年の目線で想像して欲しいなーって」
「坊なら、か」
「そうそう、もしも普通に一人立ちするだけなら直接言うと思うんだよねー、それが義理と人情ってやつだよ」
目を伏せる。
もしも来る前と同じ状態に戻っていたのならば、どうして逃げるように行ってしまったんじゃ。嫌っとるからか?そうなら、手紙は世辞かもしれぬ。でも、本当に嫌ってるなら残す必要ないじゃろう……というか、タヌキと二人でコソコソやり取りをしていたのはなんじゃ?そりゃ書いて伝え合うしかないから、致し方ない部分も無きにしもあらずではあろうが……?
「おい、たわけ。とりあえずノートを寄越せ」
「……ちょっと待とう。ダメでしょ?倫理的にそれはダメでしょ?そもそもボクが知らないんだからノートくんだって何も知らないよ?」
「ほー、それはまた怪しいのう」
「怪しくなんてないよッ!とにかく、この子はダメだから!少年とだって誰にも見せない約束で書いてるんだよ、ボクにはそんな不義理はできない!」
「……はあ、よい手だと思ったんじゃがなー」
タヌキは自分の子どもでもあやすようにノートを抱えて、親の仇かのように見てきよる、洒落の通じぬヤツじゃ。
他に、何かないかと腕を組む――そもそも、書き置きを自分のためになんて残すのじゃろうか。一応の手向けと言うなら、それこそ直接言うのが通りであって、直接言えないこと……例えば嘘を吐く為であれば、嘘を吐いてまでこっちを遠ざけねばならぬこと……こっちが居たら止められること?
「タヌキ、坊は何か、やってはいけぬことをしとるのかや?」
「へー、そっか、たぶんそれだ」
タヌキは一つ合点がいったように左の手のひらを叩く――嘘っぽくは見えぬ。
「何か心当たりがあるのかや」
「うん、なんとなくはね。水槽を割るって言ってたよ?まあ、例え話だけど」
「……ほう?」
「ってことは、巻き込まないためにってトコもあるのかな?」
「『も』?」
「あー……もう言い逃れはしません。何も知らないと言ったのは一割くらい違います。少年の具体的な行動については何も知りません。ボクが知っているのはその動機、しかも半分くらいだけです。それに、少年の口から伝えるべきものだとも思うのです」
「『伝えるべき』?こっちに?……ってことはこっちに関係するのかや?……そういえばいつかに、お告げがあったような、」
「やーっ!わーっ、わーっ!ボクは何も言ってないボクはもう何も言わない!」
ソヤツは両腕を振り回したかと思えば、喚き散らしながら自らの寝床へ逃げ込みおった。
はて、坊はこっちのために何か悪いことをしに行ったようじゃ……そうに決まっておる。それに思いつきでなく、少なくとも釣りをしていた時からであって――もっと堂々と向き合っておけばよかったのー。
まあよい。なんにせよ、こっちがやることは変わらぬ。
「腹は決まったぞ、タヌキ。今度こそ坊を、下らない呪縛から開放してやるのじゃ」
「……なるほどね。イイじゃないか、少年のために」
タヌキはこっちを見るでもなくぶっきらぼうに答える。一人で勝手にこけた癖に、何を不貞腐れとるのやら。
寝床から躰を起こして、脚が一歩前へ出る――。
「と、坊には何処へ行けば会えるのじゃ?」
「んー?まあ安心しなよ、ボクは友達だからね。あんな馬鹿正直が書き置き一つで済ませられるわきゃーないって」
「馬鹿は余計じゃ、あやつはちょっと……几帳面なだけなんじゃ」
「アーアー、そんな惚気は聞きたくなーい」
「だーッ!違うとゆーとろうに!三回目じゃぞ、このたわけ――」
耳障りな電子音。ソヤツが乱暴に、こっちの声を掻き消しおった。
世界の終わりを告げるような、聞き覚えのない音楽が外界の方から鳴り響く……いや、もっと先、もっと広い領域、いたるとこから――。
いつの間にやら、それは止んで静寂が満ちる。きっと誰しもが呆気に取られておった、何が起きたのかと理解できずにおった。
再び声を出せるようになったのは、自らのものよりも聞き馴染んだ声。それが流れていると気づいてからじゃった。
『――この異常性タンパク質は山中から、主に田畑の用水路を伝っており――』
「これは……坊の声かや?」
「えーっと、そのようですね」
「……緊急避難」
「あー、あっははは。いやー、これはヒビなんかじゃすまないでしょ――って、ボクの島になにやっとんじゃー!」
何一つ分からぬ、されども一刻も早く行かねばならん――。
「ちょいちょい、たぶんだけど本丸は放送施設だよ」
「ん?あ、うむ」
タヌキが手早く地図を拾ってくる……コヤツもまた、茶色く汚れた上に破れておった。すまぬ。
「えっとねー、ここだね、ここ」
「……かたじけない」
「いえいえ、ボクにできるのはこれくらいですから」
ソヤツは自らの顔を仰ぐ様に手を振って、折りたたんだ地図をこっちへ差し出す。
それを手に取ると、タヌキは先と同じように独り言でも呟くみたく零しよった。
「しかしながら、狐くん。君は、少年にとって何者なんだろうね」
「……知らぬ、どうだってよいじゃろ」
今は余計なことと、地図諸共懐へ仕舞う。
「そうかい……まっ、君が言うならそうなんだろうね。んじゃ、お土産はミカンゼリーでよろしくね――」
走り出せば、暢気に腕でも振っておるようなタヌキの声が、あっという間に小さくなってゆく。
それを聞き届けておった自らを振り落とさぬように、三十、四十と数えてゆく。
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