第3章1節


 

 正面に、土くれの天井が見える……どうやら時間切れみたいだ。明日とは断言できずとも、そう遠くなく歩けなくなっている。それは容易に推測できた。

 

 振り返ってみると案外悪くなかったというべきか、世に言う『終わり良ければ全て良し』だった気もする。

 

 しかしながら、これは形骸化した司法プロセスに当て嵌めれば、判決が確定した程度のもので。だから、死刑台に立った後も同じ考えでいられるかは分からない。ただ、できればそうあって欲しいとは思う。

 

 こんなことを言い出してしまえば、罪の意識はあるのかと疑念が湧いてしまうけれど、それも難しい話だ。法の意図するところは精神に対する罰だけど、実際に与えられる刑罰は物理的なものであって、それを受けて精神がどのように反応するのか。それは罪人自身でさえ操作できず、そもそも理解さえままならない――。

「待っておれっ、ほんの少しの辛抱じゃからな!」

 

 寝床で横になったまま声の主へ目を向ける。ミノリはなにやら狸を睨みつけて、けれどもそんな寸刻さえ惜しいと森の方へ駆けて行った。

「……まあ、薬すら飲む必要ないんだけどね」

 

 届くはずもない独り言を呟く。

 

 すると、ノートを持った共犯者が枕元に陣取り、いつものように筆談の準備をはじめた。

 

 そう間を置かずにペンでノートを掻く音が聞こえてきて、だんだんと意識が覚醒してくる……だから、もう始めなければならない。

 

 上体を起こす。それから、誰かが揃えた靴を簡易ベットの淵へ手繰り寄せて、自らの足をそこへもっていく――足に靴を履かせていると、共犯はこちらへノートを差し出した。

[しょうねん さいてー]

「そんなの今更だ」

[たしかにー]

 

 あまり悠長にはしていられない。あの狐が急ぐのと呼応して、こんな挨拶をしている間にも期限は迫ってきている。

「それで、あの様子ならどれほど掛かるかな」

[いや いくらぼくでも そこまではわからないよ]

「それもそうだね、なら十分だけ待とう。それで何も起きなければ確かめようもない」

 

 言葉にすれば尚のこと不可思議だ、どうして待つのだろう。どうせ知ったところですべきことは変わらず、死ぬことも変わらず……その意味を何処に求めれているのだろう。

 

 分からない。やはり壊れてしまったのか、壊れることができたのか。いずれにせよ、心臓が意識の外で鼓動を刻むように会話も勝手に転がってゆく。

[いまから わくわくですねー]

「ところで、どんな道化を演じるのかな」

[きぎょうひみつです]

「この期に及んでつれないね、せめてヒントの一つや二つあっても良いだろ」

「ヘュー」

 

 狸は腕を組むと、身体ごと首を傾ける。どうやら部分的にせよ教えてもらえるらしい。

 

 そいつはノートへ向き直って、書きはじめる――けれども何を間違えたのか、こちらが読みだす前に黒々と塗りつぶした。

「珍しいね、悩むの」

[はなしかけないで]

 

 そんな指示だけを見せて、持ったノートを庇うように背を向ける……どうやら私も酷い悪影響を受けたようで、いつぞやのこいつの気持ちを少し分かった気がした。

 

 たしかに興味がある。その背を不意打ちで撫でてやったなら、一体どれだけヘンテコな反応を見せてくれるのだろう……ふと思い至る、これだけで十分な理由になるかもしれない。

 

 この狸の正体を目にする為、なぜだかこんな遊び半分が一番しっくりくる――。

 

 

 そして、世界は切り替わった。

 

 

 まだ狸……いや、狸だったであろう女性が背を向けているというのに。

「もう、普通に喋って良い」

「なぜにホワイ?」

「……その方が効率的だから」

「はっや!――あー、あー。少年のあほんだらー、不幸自慢だけはいっちょまえー」

 

 彼女はそんな軽口を叩きながら、ペンギンのように足の裏を擦って向き直る。その藍の服装は、一目男物の和服を着崩したような……らしいと言えばらしいか。

「おい。いつもそんなことを言ってたのか」

「んなわけないじゃん。ちゃんと聞こえてるか分かりやすくするためだよ、あっはっはっはー」

「まあ、どうだって良いけれど……思ったよりか、普通の見た目なんだね」

 

 時期外れの、否が応でも目に留まる日焼け姿。印象は義務教育を終えるかといったところで、栗色の短めな癖毛と、その天辺にはわざとらしく手のひら大の葉っぱを乗せていた。

「えー、なになに?もしかしてボクに惚れちゃった?やーダメだよそんなー、まずはお友達からはじめなきゃ」

「そうかい、案外奥手なんだな」

「ええ、なんたって乙女ですから」

「そんな乙女の趣味が、人を謀ることってのはいただけないな」

「生きるとはー、謀ることとー、見つけたりー」

 

 そんな思い付きをさも座右の銘の如く噛みしめながら、狸は両腕を高々と掲げる――目先の袖が重力に引き摺られた。

 

 なんとなしに、視線を集める為だったのかなと、そんな考えが湧いて出る……この子もまた、自らの服装に反応してくれるような誰かしらを求めていたのだろうか。

 

 辻褄は合う気もするけど、快活な彼女に対しては単なる邪推な気もする。

「なあ、狸……いや、やっぱり狸だと違和感が」

「いえいえ、そのままでお願いします」

「何者にでも成れるのにか」

「何者にでも成れるからこそですよ。それに、君にとっての狸はボクだけですから」

「そんなものか」

 

 浅いのか深いのか、良くわからないことを言う。

 

 けれど、そんな彼女とは対照的に、無骨な腕時計は分かり切っていることを突付けていた。

 

 一分も掛からないだろう。懐から地図を取り出して、予定通りの文字列を転写する……文字が歪みそうで、手を止めた。

「そういえば、聞こうと思ってたことが一つある」

「おやおや、ずいぶんと興味深々みたいですね」

「いや、ここに居た彼らは何に負けたのか。それが知りたい」

「なーんだ。てか、彼ら?彼ら。あー、そゆこと」

「分からないんだ、私と同じで敵なんて居なかった――いや、仮に敵が居たとしても、そいつらは何処へ消えたんだ」

「なるほどなるほどー、結論だけでいい?」

「ああ、助かるよ」

 

 彼女は人差し指を天へ向ける。それから、その指を回すように腕を動かした。

「どこにでもいるよ、石を投げれば当たるくらい」

「……嘘だ」

「さもありなん、そうかもしれない。でも、二十年もあれば記憶を失うには十分みたいだよ、人間にとってはね」

「……君らと違ってかな」

「うらやましい?」

「いいや、全く」

 

 狸は目を細めながら、私の返答に頷いた。

 

 それから、こちらの手元へ目線をやると、まるでパンケーキが焼けるのを待つように頭を揺らしだす……何を口に出すでもないけれど、埃でも払うように手を振った。

 

 私は狸が背を向けたのを見収めて、止めた所から再開する……無駄な考え事を隅へ追いやったからか、何の問題もなく書き終えた。

 

 それを折りたたんで、なおも揺れていた頭へ乗せる。

 

 すると、そいつは地図を乗せたまま、一つの問いを投げてきた。

「あのさー、狐くんに伝えなくていいのかい?」

「……覗き見とは感心しないね」

「いや、そんな怪物じゃないんだから、後頭部に目なんて付けないよ。ふつうに、だいたいの文字数くらいは分かるじゃん」

 

 そう言いながら、こちらへ向き直る。

「だったらそれが答え。伝える気はないし、お前からも言ってくれるなよ」

「えー……むむむむむー、なんかモヤモヤするー!」

 

 自らのことでもないのに、彼女は我慢できないと言うように身悶えて、その頭から地図が落ちる。

「そうか。では、狸三等空士」

「へいへい、こんどはなんですかー、どーかなされましたかー、升田二等空尉殿」

「私はたぶん。お前を友達だと思ってる」

「……はい?」

 

 向こうは狐につままれたような、砕けた表情をした。なぜこんなことを言い出したのか、自分でも分からない。

 

 ただ、おそらく二人目に当たる他称友人は、珍しく飾っていない反応に見せて……だから、言っておく分には間違ってなかったのだと思う。

「だからというわけでもない。けれど、一つ小話を聞いてくれないか」

「はあ。どうぞ」

「……あるところに小さな魚が居た。そいつは他の兄弟達と楽しく暮らして、その兄弟達は誰しもが真っ赤な身体をしていた」

「ほうほう」

「けれど、その兄弟達はそいつのことをカラス貝よりも黒いと言う。そいつは自らの色を見ることはできないけれど、そんなものかと思ってた」

 

 そう口にはしたが、水面の全反射で見られるなとも思いつく――いや、見たとしても魚じゃ自分自身だと分からないか。

「あーっと、ボクが目になろう?」

「大当たり、話が早くて助かるよ。ただ、ここで前提が変わるんだけどね――魚達が住んでいたのは大きな不透明の水槽で、敵も出てこなければ飢えもしなかった」

「おおー楽園じゃん、来世は魚になろうかなー」

「……共食いしそうだ」

「アハハ、ンナコタシナイヨー」

 

 狸はステレオタイプな片言で、大げさなリアクションをとる。

 

 続けても良いかと黙って眺めれば、彼女は無かったことにするように行儀良く手を置いた。

「それでそれで?」

「ああ、その魚、スイミーは思ってしまったんだよ。自分だけがなぜ黒いのかってさ、本当に自分が黒いかさえ分からないのにね」

「ふむふむ」

「それから、その作られた世界を試してしまった……そうだな、水槽にヒビを入れてしまったんだ。そうすることで水槽を管理する存在、どうして黒いのかを知ってる奴が、フラッと出て来るんじゃないかと、そう思った」

「おー、なんてことを」

 

 しかし、魚達は「水の中でしか生きられない」なんて知らない。だから、何を責め立てることもなかった。それに……管理者なんてのが居たとしても、外からテープでも貼ったら済むことだ。

 

 結局はそんな【パノプティコン】、狐の言葉を借りれば【神】が存在したとしても、私如きに正体を明かすほど親切ではなかった……いや、在ると信じられなかったことが一番の問題なのか。

「なあ、馬鹿げてるだろ……どうすれば良かったと思う?ただ無かったことにして、その楽園を謳歌しているべきだったのかな。誰かの影法師にでもなるつもりでね」

「えー、ちなみに少年はどう思ってるの?」

「……ルールを外れたのなら、裁かれる以外にない」

「なるほどー。どんなルールがあるのか知らないけど、少年が言うならそうなのかなー」

「随分と淡白な反応だ」

「まあね。だって、その答えを君は誰よりも考えてるじゃん?だったら、ボクにはなんも言えないよ」

「……ははは、そうかい。折角、恥も外聞も捨てたのに」

 

 狸は、それを聞いて不釣り合いな顔。少し怒ったような、真面目な顔つきになる。

「でもさ、この話には出てきていない、意図して登場させていないキャラクターが居るんじゃないの――」

 

 それからどっかの誰かさんへ、どうにかして聞かせたいというように一つ間を開けて。

「だから、そのお節介な狐くんへ、次があるなら向き合って欲しいと思う。これは友達としてのお願いだよ」

「かまわないよ、次なんてないのだから」

「うん、そうかもしれない。まあ、奇跡が起こったらとでも考えといてよ」

「……ああ、そうかい。約束しよう、お節介な狸さん」

「どうもどうも、盃の一つでも交わそうか?」

「そうだね、奇跡が起きればそうしよう――まあ、あまり辛いのは苦手だけどね、会話と同じで」

「なるほどなるほど、そうみたいですねー、まるで酔っ払いだもん」

 

 こちらの取って付けた洒落に、彼女はカラカラと笑う。その姿は底抜けに楽しそうで、こちらの脳裏に焼きつくような明るい笑顔をしていた。

「――てか、ボクが管理者になれば一石五鳥くらいあるのでは、」

 

 それで、何やら不穏な独り言へ進行してゆく。

 

 このまま、延々くっちゃべるのも悪くない。けれど、私は時計に目をやって、そいつに急かされるフリをして立ち上がる。

 

 狸もそれに気がつくと、こちらを追って跳ね上がった。

「それじゃ、狸二等空士。状況開始といこうか」

「さー、いえっさー!」

 

 そう返答すると頭の葉っぱを左手に取り、右手を前髪に当て敬礼した。そちらに正対して、こちらも答礼する。

 

 私が手を下ろすと、狸も続く――以上で別れの挨拶を終えて、私は一人、広々と開いた出口へ踏み出した。

 

 たぶん、聞き忘れたことがあったけれど、向こうも聞かれたって困るだろう。

 

 だからそう、忘れたことにする。たぶん、後ろを振り返るには早過ぎるから。

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