第2章5節
もう半刻もすれば、全くの夜になってしまう。本来は狩りに同行しているべき時間だったが、足手まといにしかならないと自粛した。
私は余った仕事として焚火を起こす。かれこれ一週間ほど厄介になっている洞穴は、周囲を森に囲まれていて枯れた枝や落ち葉には事欠かなかった――もっとも、本当に燃えるのか疑わしいナリをしたものばかりではあるけれど。
それらを積んだものに買い置きのライターを擦って、近づける。
火口は景気良く燃えて上に被さる落ち葉を炙る。けれど早々に勢いを失って、心許ない火種はその痕跡さえ見えなくなった。
そこへ取って代わるように被さった薪の合間から、白煙が出口を求めて上へ上へとのぼりだす。
ふと、火の気が混じったかと思えば、次の瞬間には煙すら燃やすような炎となって洞穴一帯を煌々と照らしだした。
その一部始終を見収めて息をつく。狩猟採集の時代からなのかもしれないが、どうして炎はヒトを落ち着けるのだろう……と、幾らかの薪には水分が残っていたようで、パチパチと爆ぜる音が反響しはじめる。
とても騒がしい。まるで前時代の花火大会みたいな賑わいだった。だからといって何をするでもなく、それを眺める。
それで、その花火が一旦の落ち着きを見せた頃、森の方から焚火越しに一つの影が近付いてきた。影だったものは帰宅でもするように寄って来て、さも当然のように会釈する。
それから、焚火の温もりを求めながら私の右隣へ陣取り、手持ちのノートを捲りはじめた。灰色のページを過ぎ、破れたページを過ぎ、また灰色のぺーじを過ぎ、白いページが開かれる。
そしてそいつは焚火の灯りをたよりにして、また何やら書きはじめた。
[おつですねー]
「……言うほどかな」
そこでやっと、こちらを呆れたようにチラッと見る。ただそれは一瞬のことで、狸は再び視線を落とすと、まったく淀むことなく長々と一つの文を書きあげた。
[ぼくはもうあのさそりのように ほんとうにみんなのさいわいのためなら ぼくのからだなんかひゃっぺんやいてもかまわない』
そう書き記したペンを掴んだまま、彼は見えもしない星空を見つめるように前足を掲げた。
「宮沢賢治が好きなのか?」
[けんじとよぶくらいには]
「そうか。なんにせよ、あの子がいつ帰ってくるか分からないよ」
[いざとなればいしころにでもなりますゆえ とおくへほうってくだされ]
「了解した」
狐共々、容赦なく土足で踏み込んでくる奴らだった。その上、五日も前のことを根に持つくらいには暇らしい。
「それで、こんな所まで何をしに来たんだ」
[いたずら おてつだい ぷりーず]
「諦めたんじゃなかったのか」
[さんこのれいでだめなら よんこでも ごこでも]
この狸は意味を理解して使っているのだろうか……どうやら、逃げてどうなるものでもなかったらしい。
「分かった、お詫びとして何をするのかくらいは聞いておくよ。こちらからも聞きたいことがあるからね」
[わーい ぜひともたよってくれたまえ]
そう書いて、順当に書き進んでいた前足がピタリと止まる。そして狸は、どうやって書こうかなというようにこちらを向いた。
「どうしたんだ」
[いっしょにかんがえてほしいなー]
「……何も決まってないってことかな」
[いやー ふたりでかんがえたほうがたのしいじゃん]
以前にも誰かしらと同じようなことをしていたのだろうか。幾分か興味はあれど口に出してはいけない気がする。
「だったら、せめてどんな趣旨かだけでも教えて欲しい、怒らせるとか怖がらせるとか、」
欄外で、すぐさま×を付けられる。
[そんなのたのしくないよ おどろかしたあとはわらわせておわるの]
「御立派だね、それは化け狸のルールなのかい」
[ちがうよ ぼくのきめたるーる そっちのほうがたのしいから]
「なるほど、そりゃあ狐くらいしか相手がいないわけだ」
目の前の存在を少しくらい考慮しても良いだろうに、狸は躊躇いなく頷いた。
「なら、いくつか聞きたいんだけど。良いかな」
ペンは欄外へ○を書く。
「例えば、狐の記憶を消したり改竄できたりしないかな」
[おお なんともらんぼうな]
「可能か」
[んー じかんがかかります]
「どれくらいだ」
[きつねくんなら ざっと一〇〇ねんほど]
「それは、気が遠くなるね」
[いえいえ あっというまですよ]
どうしてか。この手の話題をこいつがすると、妙な説得力を感じてしまう。当の狸は勿論のこと、誰が神聖化してるわけでもないのに。
「たぶん振り返ったらの話だ、その『あっと言う間』はね。こうして私とやり取り出来ているんだから、お前は倍の速さですら生きちゃいないよ」
[なるほど あったまいー]
ペンを置いて小さな前足を鳴らす。子ども扱いされているようで癪ではあるが――いや、そんな考えをしてる時点で十二分に子どもなのだろう。
だから、何を抗議するでもなく作戦会議を進める……わざわざ会議などと偉ぶるのもまた、子どもの遊びみたいだ。
何にせよ、あーでもないこーでもないと、この筆談はいつになく続いてゆく。
大まかな流れに同意して、狸はノートに認める。
「今更だけど、こんなんで良いのかな」
「ヘュ」
狸は忙しなく欄外へ○を増やす。どうして断定できる、なんて問うのは的外れかもしれない。
一通り書き終えたらしく、狸はこちらへ向けてノートを翳した。そこにはポンチ絵と、それを説明する短文があちらこちらに加えられている。
とはいえ、こんな目を信用することはできないのだからと、目を通すフリをしながら口を動かす。
「狐を買出しへ行かせてその間に入れ替わる。それで成り替わったお前が手紙を渡して、狐の前で演技をする――最後まで気づかれなければ、そのままネタバラシ。もし途中で気づかれたら、こちらへ仲裁を求める」
狸が頷く。
「そして命の危機が訪れたのなら、土にでも同化して時間稼ぎをする、以上」
「ヘュ」
「本当に良いのか、ほとんどがこちらの案だぞ。まあ、演技に自由は利くけれど」
[あたえられたところで かがやいてこその ぷろふぇっしょなる]
そう書いて、自慢げに胸を張る。それも一つのルールというか。こいつは元より、自ら考えるつもりはなかったらしい。
まあ、それは大した問題ではない。
「となれば、お前をなるべく早く紹介しないとだ。あの子から看病を任されるにはそれなりに時間がかかる」
[ぎょい]
「……こうして確認すると、本当に舞台を用意するだけだな」
[では かわりといってはなんですが ひとつだけおねがいがあります]
「なんだ」
[いつかしょうねんをだましても えがおでゆるしてね]
「ああ、問題ない」
そんな遠慮した『お願い』でなくとも、こちらはどうせ終る存在だ。なんならこいつだって十二分に知っているだろうに……そんな心配なぞせずとも用事が済めば何だってくれてやる。
「ただまあ、ネタバラシせずに消えるなよ。誤解したあの子に殴られたら敵わない」
「ヘュ」
「ああ、そうか。その点は信用できないな、どうしたものか」
「ヘュッー!」
大きな鳴き声が、洞穴に反響して木霊する。
と、その残響も収まらないうちに狸の姿は消えて、コロコロと、ノートの上へ転がる石ころ……いや、石ころ呼ぶべきか、思い浮かぶ中では無煙炭が最も近しい。
それは周囲から突き出て見えるほどに明暗の鋭い姿をして、けれども何処か有機的な、揺らぐ炎の熱気すらも映し出している――薄暗い森の方から異質な音がして、そちらを見る。
生きた枝を次々に圧し折るような音。紛うことなき化け物が、一直線に目がけて来る音だった。
「何処じゃッ!」
「どう、どう、どう」
相手を刺激しないように、なるだけ緩慢に手を動かす。
そいつは暴力的な、その瞳の優しい色調と相反する様相で、片っ端から辺りをギョロギョロと睨み付け、肩で息をする。
ヒトの形を纏った狂気だった。
「それで、何か捕れたかな?」
「五月蠅いッ、伏せておれッ――出てこい痴れ者がッ!」
いやはや、いつぞやの山荘とは天と地だろうけど、何となくその上澄みは感じられた気がする。
仕方がないので、肘をついて横になった。出来ることなら、あんな風にブッ壊れてみたいものだ……ただ、これは思い違いと言うべきか、少女は狂人ではなく狩人だったらしい。
彼女は凄んでも埒が明かないとみるや、息を殺して目蓋を閉じる。
焚き火が出す小雨のような音だけが響いて、こちらの心音まで聴こえているかもしれないと、そんな気さえしてくる。
「……哀しいなー」
そうやって私が零すように呟くと、殴りつけるような怒気を向けられた。
「怒鳴りつけられて、私は哀しいよ」
もう一度、同じ調子で繰り返す……ほらやっぱり、狂人になんて成れやしない。
ミノリは時期を過ぎたコスモスが小さく萎れていくみたいに、だんだんと呼吸を深くする。
「……すまぬ」
「何も、かまはないよ」
嵐が過ぎ去ったと見て起き上がる。
彼女はよっぽど自立していた。それが表現として正しいかと問われれば分からないし、彼女にとって望ましいことでもないのだろう。
きっと本当に狂うことができたのなら、そちらの方がよっぽど幸いだ。少なくとも私はそう思う。
「それで、どうしたんだって」
「うむ……子鹿を狩って、その場で食えない臓腑を埋めてやって、いざ帰ろうと思ったら女の声がしたんじゃ」
「ここから?」
彼女は小さく肯定する。
なるほど……まあ、何にでもなれる奴に性別を求めたところで仕方がない。なんなら本来は、狸と呼称するのも的外れだろう――と、そんなことは置いといて。はてさて、どうしたものか。
当の化石燃料へ目を向けると、尚もノートの上で「我関せず」と固まっていた。ただ単に、石炭となった以上は動けないのかもしれないけど。
「嘘じゃないのじゃ、こっちは確かにこの耳で聞いたんじゃ」
「そうだね、分かった。なら、とりあえず――」
私はその石炭を手に取って、未だ立ち尽くしているミノリへ献上する。
「そいつを火にくべて欲しい。曰く、ルビーやリチウムを思わせるように美しく燃えるそうだ」
「……この石くれがかや?」
私は、引き攣る頬を気取られないように頷いた……いや、誰へ向けてなんて話ではないのかもしれない。
まるで「底の抜けた砂時計」のように、私という一つの石礫が、その身を砂として霧散させていく。
俯いた頭蓋の内で、何故だかそんな情景がポツリと浮かんでいた。
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