第2章4節


 

 腰を掛けたエクレアに、重々しい波が砕けて安っぽい音がする。

 

 このエクレア達は群れを為しているけれど、砕けて小さくなったものもあって、段と呼べるほど整然と積み上げられてはいない。

 

 それでも、こいつらが向こう十年は在り続けるだろうこと、それは当たり前に感じられた。一面に広がる青一色が、いきなり深紅に染まらないように……まあ、何十人乗りの茶色い棺桶が紅十点くらいは打ち捨てられているから、染まったこともあるのかもしれないけれど。

 

 なんにせよ、不可思議な感覚だった。視覚や触覚は「いつ瓦解してもおかしくない」と警告しているのに、それもまた他人事のようで、まるで群れ全体を理解したように落ち着いている。

 

 これこそがきっと、「信じている」といった感覚をなのだろう――。

 

 ふと、腕をつつかれた。

 

 どうしたのかと目をやれば、こちらへ傾いたエクレアの上に一匹の化け狸。そいつが相も変わらず暇そうにしながら、ノートを差し出してくる。

[なあなあ まだつれないのかい?]

「ああ、お前を怖がって寄り付かないみたいだ」

 

 見れば分かるだろ。延々と続く海面に、ポツンと一粒のオレンジが漂っているじゃないか。

[いやいや ぼくってば そこらのあいがんどうぶつにだってまけてないよ? むしろ さかなくんたちからよってくるべきだって]

「それなら、あの子にも見せてあげないとかな。きっと手放しで喜ぶに違いない」

 

 横目で見ると、そのマスコットは何を返すでもなく、短い前足を精一杯に伸ばした。どうやら半ば呆れているらしい。

 

 まあ、ことの真偽は不明だけれど、曰く三日三晩も探していたというのだから無理もない。

[あきのうみ いわにしみいる なみのこえ]

「誰が岩だって」

[だーれも そんなこといってないじゃん]

「なら、どんな意味の俳句なんだね」

[そんなむずかしいことをぼくにきかないでよ なーんとなくいいたくなっただけだって]

 

 そう書いて首を傾げる。なるほど、「分からない」とは実に便利な言葉だ。

 

 当の狸は「分かったでしょ」とでも言いたげに、こちらを一つ窺ってからノートへ視線を戻した。

[だからさー ちょっといたずらをしたいだけなんだよ べつにいいじゃんそんくらい]

「他を当たったらどうだ、向こうなら騙しやすそうなのがウジャウジャ居るよ」

[しょうねん うたがわないやつをだますことはできんのだよ]

 

 思いのほか、正否を判断しかねる返答だった――信じ込ませる過程を想像すると、どうも【騙した】と言うには違和感がある。

「やるにしても一人でやれば良い。私は、まだ死ねないんだ」

[はて?なにか ごよていでも?]

「ああ、一つだけね」

[なるほどなるほど だったら ぼくにきょうりょくしてもいいんじゃない?」

 

 相も変わらず、まるで合言葉かのように協力、協力と繰り返すけど、私の出る幕なんてないだろうに。

「生憎とね、治らなくても問題ないんだよ」

[んー?なんだろなー せんたくしとかってあったり?]

「……いや、クイズにするほど面白いものじゃない。未だに、そっちが筆談しているのと同じくらいには」

 

 そう言ったのは焦点をズラすことが目的で、ただ元より気になっていたから口をついて出たらしい。

 

 と、狸は顎へ小さな手をやる。

 

 それでいくらか唸って、何を考え付いたのか。目を隠すような素振り……どうやら、目を瞑れと要請しているらしかった。

 

 もしや、ヘンゲとやらを目視すると気でも狂ってしまうのか。なんにせよ、話が進まないので背を向ける。

 

 ……。……。

 

 …………。……。…………。

 

 ………………いつまでこうしてれば良いんだ。

 

 ミノリを基準に想定していたよりも、五倍は長く過ぎたと思う。

 

 いっそのこと待たされていることなんて忘れてしまって、向こうの、廃墟散策とでも洒落込んでしまおうか――。

 

 ぽんっ、と背中が叩かれた。

「ヘュー」

「……何をしてたんだ」

 

 振り向いたが、変わった点は見て取れない。無理矢理絞り出したとしても、そいつが辟易したかのように頭を傾けているぐらいだ。

 

 苦情を申し上げ奉りたいのはこちら側なのだけれど、そんな異議を目線に預ける。

 

 すると、狸はどう受け取ったのか。こちらの異議を一蹴するかのようにページをめくり、左上から筆を走らせた。

[えげつないですねー]

「それはタネも仕掛けも、加えて良心もないマジックとどっちがだろうね」

[いやいや これにはじゅうだいなひみつがあるのです]

「なるほど、世界は秘密に満ち満ちているな」

 

 そう言い切ってから気がつく、この語気はちょっと荒過ぎた。

 

 上半身だけでなく、身体ごと海へ向き直る。横目に様子をうかがって……そいつは相も変わらず、自筆の末尾へ目線を落としていた。

「まあ、あの子に聞かれない為だろ」

[え?きつねくんって そこまでじごくみみなの]

「正確には分からない。けれど、高波よりか目立つ音を出せば飛んでくるんじゃないかな」

[おお なん とも こころづ よい ぼでぃーがーど ですね]

 

 読み辛いと思ったら少しばかり文字が震えている。まあ、無駄に相槌まで書いているから腱鞘炎にでもなった、とでもしておこう。

「それで、本当はなんで喋らないんだ?」

[みかえりをしょもう]

「なら、別に良い」

[そうかそうか つまりきみはそんなやつなんだな]

 

 狸はそう書いて、こちらへ含みのある笑みを向けながら強調するように下線を引く。

 

 私を「少年呼び」する由縁はそこなのか。これはまた、随分と皮肉が効いている。

[じゃあ このしまにきたりゆうをききたいな それくらいならいいでしょ]

「予定があると言ったろ、つまりはそういうこと」

[んー しんこんりょこう?]

「……どうしてそうなるのかな」

[だって なおらなくてもって]

「だから何の関係が――」

「ヘュッ!」

 

 何事かと顔を上げれば、そいつは慌てふためいた様子で海の方を指差していた。

「どうした、今度は爆撃機でも墜落したか」

「ヘュッ、ヘュー!」

 

 それから、剣道でもするように激しく身体を動かす。

「あー、かかった?」

「ヘュ!」

 

 そして、何度も首を縦に振った。

 

 そいつの爪の先へ目を凝らすが、だだっ広い海面の他には何も見て取れない――いや、ウキすら見当たらないのだから、そういうことになるか。

 

 半信半疑でリールを巻く。ピンッと糸が張って、竿が地球でも釣ったようにしなる。

「……なあ、これは手で引いた方が良いんじゃないか?」

「……ヘュー」

 

 狸もまた門外漢のようで、分からなさそうに身体を傾げる。

 

 私はそいつの腕へ竿を乗せて、エレベーターの巻き上げ機にでもなったように、魚の機嫌を伺いながら糸を手繰り寄せる……。

 

 何と言うか。一人、カジキマグロと相対した老人もこんな心持ちだったのかもしれないなと、ヘタな冗談が浮かんできた。

 

 

 背後に紅葉を湛える地図上にしかない港町。その手前を、町の由来を示すようにミルクチョコレートの複線が横切っている。

 

 しかしながら海沿いともなると、洋菓子はどれもこれもカカオの香りがしそうなモノばかりだ。

 

 例外と言えば、それらを守る為に伸びた防波堤なんかは錆びるわけもなく、カステラであるから居心地は良い。まあ、あくまで相対的な話だけれども。

 

 そのカステラの、さもトッピングでも気取ったような岩モドキから、一つを選んで休息をとる。

 

 鯛焼きの血はイチゴジャムのように赤かった。先程まで海へ逃げだしそうだったそいつは、今では狸に抱かれ息絶えている。

 

 よく抱えられるものだ。その大きさは一人と二匹の腹を二日間は満たせるくらいあるだろうに。

「存外、釣れれば面白いもんだね」

「ヘュー!」

「お前もやってみるか?」

 

 狸は首を横に振る。

 

 それから満足そうに目を細めると、後ろへ半歩遠退いた。

「おい、魚はやらないって言ったろ、」

「ヘュ」

 

 そいつは頭を下げる。どうやら「見逃せ」と言っているらしい。

 

 まさか一匹で食べきれるわけでもあるまい。であれば案外、家庭なんぞを持ってたりするのだろうか。何にせよ、こんな時代に飢えるとは貴重な経験をしたものだ。

「まあ、雨に文句を言っても何も始まらないか」

「ヘュー、ヘュー!」

「もってけ泥棒、怖い狐様にでも見つかって毛皮にされないうちに」

「ヘュ、ヘュ」

 

 ふと、取り残されそうになったノートを見つけた。そいつを拾い上げて、砂埃を払い、鯛焼きの上に乗せる。

 

 狸は軽く会釈して住処へ帰ろうとした――けれども、忘れ物でもしたようにその足を止める。

「どうした、覚書でも残していくのか。別に、狸から何を取るってほど落ちぶれてないのだけど」

 

 すると何を思ったのか。魚を脇に置いてノートを開き、また何やら書き込みはじめた。

 

 その様子を眺めながら、頬杖をついていくらか待つ……とは言っても、ものの十数秒でノートがこちらへ戻ってきた。そこにはミミズの這ったような、いつも以上の走り書きが伸びていた。

「全部は……駄目だけど……お礼に……アドバイス――要らない」

 

 時間と労力を無駄にした。私は立ち上がって、ノートに落としていた視線を大海原へ戻す。早いところ、こいつにくれてやった分を補填しなければならない。

「ヘュー!」

 

 狸様は今回も不機嫌になられたらしい。しかしながら、世の中には鳴き喚いたところでどうにもならないこともある。

 

 抗議の為か、何かしらを破くような音まで混じりだす。

 

 それから、前例通り鳴き止んで遠ざかってゆく。

 

 ただ、前例に外れて暴力に訴え出なかった。

 

 私がその違和感に振り向く頃には、狸は大海へ漂うウキのように、延々と伸びるカステラの小さな豆粒になっていた。

 

 

 暇だ。釣ろうと思って釣れるなら漁師なんて遥か昔に廃業しているだろう……なんとなしに比較的好調な脳味噌を有効活用するべく、あんなのが何匹いるかと概算する。

 

 一年間、島で息絶える狐やら狸やら猫やらを千匹として、化け物達が二百年活動したとする。そして例えば、千匹に一匹が化け物に成るのなら、この島には大雑把ながら二百匹くらいは居ることになるだろう。

 

 これでは流石に多過ぎた。どの数字が間違っているのか――いや、その数を幾らと算出したところで、見かけたものが唯一などと考えられはしない。それに、一人でないことと孤独とは全くの無関係だ。

 

 しかしながら、なぜヒトを滅ぼすような輩が出てこないかは大層不可思議に思う。彼ら彼女らならば、それこそ幾らでも方法はあるだろうに。

「……どうかした」

「んー?いつぞやの御礼参りをしたかったんじゃがなー」

「だったらカモメにでも化けたら良いんじゃないかな」

「まあーそれは……なんせんすじゃろ」

 

 その矢鱈と投げやりな声色に振り返る。一つ後ろのエクレアに立つ少女は、左手に石ころを、右手にはノートの切れ端を持っていた。

「んー、なんで全部ひらがななんじゃ?」

「……なんだい、その紙切れは」

「いや、すぐそこで拾ったんじゃが……『好きの反対は無関心ですよ』」

「そう書いてあるのかい?」

「うーむ、狐――こっちから離れれば見えてくるものがある、って意味かの?それも書いておる」

 

 おい、狸よ。アドバイスどころかおおよそ答えではないのか、それは。

 

 もちろん鵜呑みにするわけはない。けれども同時に、無かったことにもできないか。

「うむ。これはお告げかもしれぬな」

「――見せてくれ」

「ん?べつに構わぬが」

「あと、その石ころも」

 

 右腕をまっすぐに伸ばして、紙切れとそいつの重しにしていたであろう小石を受け取った。その石を芯にして紙を丸める。

 

 それからピンの抜けた手榴弾でも放るように、横殴りに地平線へ向けて投げつけた。

 

 そうして【狸からの贈り物】は、すっぽ抜けたように小さな弧を描いて、弾着した音共々波に掻き消される。

「なーっ!なななななーっ!」

「これは気分が良いね」

「……なぜじゃ?なぜなんじゃ?……分からぬ、こっちはなんも分からぬ」

 

 そちらへ目をやれば、ミノリはポロポロと言葉を落っことしながら、化け物でも見るような目でこちらを見ていた。大層失礼な奴だ。

「わざわざ『離れろ』なんて書いてあったんでしょ」

「うむ」

「なら、そんな馬鹿げたものは投げ捨てるべきだ」

「うむ……うむ?」

「それとも『はいそうですか』なんて、距離をとってみるかい。君の信じる神様とやらはそんな下らないことをするのかな」

「……な、なるほどのっ!たしかに投げ捨てるべきじゃったな!やぁ、あやうく騙されるところじゃ」

 

 少女は、疑念を振り解くように大きく髪を靡かせる。元気なのは良いけれど、目を回して落ちるなよ。

 

 一応、その儀式をもって一段落したようで、今度は私のバケツへ視線を下ろしてくる。

「ところで魚が見当たらんが、なんじゃ、坊主かや?」

「そちらは思いのほか釣れたみたいだね」

「ま、まあ?価値のある釣果であってな……量より質というかの?」

「二人分には足りないかな」

「……そうじゃな。でも勝ちは勝ちじゃ!罰ゲームはちゃんとしてもらうからの」

「ああ、分かってるよ。なるべく穏便にね」

 

 少女は思わせぶりに不敵な笑みを浮かべると、私から見て右隣りのエクレアへ飛び移った。

 

 やっぱり心配など不要なようで、ただの地面と大差ないように、竿を脇に挟みながら餌をつけはじめる。

「そういえば狐で思い出したんじゃが、言ってよいかの」

「どうした、確認されると反って恐ろしいんだけど」

「いやな、こっちが狐ならば、坊はネコみたいじゃなーって」

「……それはどこら辺が」

「んー、とりあえずはその癖毛かの」

 

 なんだ『とりあえず』とは、まるで挙げれば切りがないとでも言いたげじゃないか。

 

 そもそも、「機械みたいだ」なんて言われたことはあれど、猫だなんて自分でも思わない――一番欲しい道具はなんだろう……いや、何も要らないな。

「あとは、人に飼われてるところかの」

「どうしたんだい、そんなにストレスが溜まったのかな」

「む?……あー、たしかに坊へ言うのは御門違いじゃったか。すまぬ、ちょっとじゃれたかっただけじゃ」

「……そうか、かまわないよ。君はよっぽど可愛がられてたんだね」

「はて?どうやったらそんな、はーとうぉーみんぐに聞こえるのかや」

 

 どうやら私の方が短絡的だったらしい。

 

 きっと彼女には、あのヒトと過ごしたことが良い思い出として残っている。であればこの場合、誉め言葉として受け取るべきだ。

 

 少女は、いくらか不貞腐れたようにキャストした。飛んでいくウキを目で追って、それは音が聞こえないほど遠くへ着水する。

「さーてな、明日は何をしようかのー?」

「何でもかまわないよ、オススメとかある」

「いんや、思いつかんな。坊の方こそ何かしらはあるじゃろ?」

「いきなり聞かれてもね……紅葉狩り、ゲームセンター、いかだ下り――」

 

 彼女のありもしない狐の耳がピクリと返事をして見えた……こちらが言い出した手前でアレだけど、君は初日に言ったことを完全に忘れてやしないか。

 

 けれども、エセ投げ釣りを再開して沈黙が落ちると、そんな明日の心配は【狸からの贈り物】によってすぐさま上書きされる。それは贈り物の内容ではなくて、そいつの飛距離が存外に短かったことによって。

 

 きっと、その距離は過去と対峙するまでの残り時間、それが確実に迫ってきているのだと、否応なく私へ突きつけているのだろう。

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