第2章3節


 

 時折、左方を眺めながらペンを走らせる。

 

 スルスルと、パイ生地の床を滑る水羊羹。コロコロと、ウエハースの台車を押す水羊羹。ショコラだったか、そんな見かけの机を拭く水羊羹。

 

 それと、こんな気の抜けるような光景に、紛れ込めない一匹の狐。そいつは似つかわしくないほど大きな棚の合間で、さぞかし重そうな本を立ち読みしていた。

 

 それは眉唾というか、付け焼刃というか。そんな風に足掻いたところでどうにもならないだろ……そんな説得をして、あの大きな耳が聞き入れるなら苦労もない。

 

 だからその解決は時の流れへ一任して、私は地図の裏面を有効利用していた。

 

 水羊羹なんて適当に丸を描いて点を打っておけば、それで済む。そこに四角いワッフルの棚。ホワイトチョコレートの天井。奥の壁は台車と同じウエハースで、椅子がカラメル焼きにクリームを挟んだようなもの……見たことすらないと言い切りたいが、自らの幻覚であって思い出せないだけなのだろう。

 

 どうせなら幻覚が悪化して、この絵と同様白黒になってしまえば楽だろうに――そういった無音のノイズに横槍を入れられながら、楕円状に残していた空白へ手をつける。

 

 他と違って、手抜きをすれば後で何を言われるか分かったものではない。とは言え、生きた被写体としてはこれほど都合の良い対象も少ない筈だ。

 

 そいつは時間の流れを忘れたように物静かで、放っておけば何日間でもそこに居そうだった。

 

 外形を描いて、全体的な当たりをとる。おむすび型の耳が二つに、申し訳程度に突き出した口。首の下から胸部へかけて膨らんだ毛並みに、大きな尻尾と小さな尻尾。

 

 どうやら妖狐の成長とは早いようで、この小さな尻尾は昨日見た時より一回り膨らんでいた。一年も経つ頃には三本目が生えているかもしれない。

 

 そうして描き進める。もう少し実在を与えようかと考えて、腕時計を読み取る……とりあえずは止めておこう。

 

 まだいくらかの猶予はあるが、他に描くべきものもまたあった。

 

 取り分け悩むほどでもない。けれど手元の紙に目線を落として、それからいくらか記憶を辿ってみる……やっぱり、一番らしく描けるのはこいつだった。

 

 その逆を言えば、自らを見る機会は思いのほか少ないということになる。この被写体と比べて向けられる視線の量は大差なかっただろうに、どうしてこうも差が出るのやら。

 

 

 ……こんなもので良いか。そもそも診療所が閉じてしまえば、何のために出てきたか分かったものではない。

 

 であればと先程の、精神医学の棚へ狐の姿を求めたが、その姿はどこにも見て取れなかった……仕方がない、なんて言うまでもなく席を立つ――。

「ヘュー、ヘュヘュ」

 

 大人しい鳴き声がして、目線が落ちる……狸であろう動物がいた。

 

 そいつの大きさは狐より一回り小さいくらいで、その栗色をした毛並みも相変わらず丸っこい。

 

 ただ、のんびりとした見た目に似合わず勇猛果敢な奴らしい。いくら彼ら、彼女らが水羊羹のような腑抜けであっても、この生き物からなら脅威に見えただろう。

「なんだ、餌でも欲しいのかい?」

「ヘュ」

 

 懐から乾パンの缶詰を取り出して、その功績を称えるように差し出してみた。


 そいつは引っ手繰るように掴み取って口へ放り込み、暢気に咀嚼する……とても不吉だ。


 なんだろう。まるで点滅する信号を前に立ち止まるような、そんな行き場の無さを感じる。


 そいつは余裕綽々と食べ終えると、辺りを一つ見渡す。


 それから、手頃な本棚から一冊ばかり抜き取ると、器用に右隣りの席へ飛び乗ってくる。本の背表紙をトンッと机に当てて、ちょうど中ほどのページを机上へ開く。


 そして、また何かを探す素振りをする――おもむろに私の手元からペンを取って、本の余白へと筆先を走らせた。

「……まあ、私が何を言えたものでもないけどね。漢字は読めないよ」

「ヘュー」

 

 狸がこちらを一瞥する。それで、手で作った輪っかをこちらへ向けてから、再び執筆作業へ戻っていった……何となくだけど、それらの行いは子どもの無邪気みたいに、悪気があるわけではないだろうと、そんな風に映る。

[やあやあ しょうねん おひとりかい]

 

 狸が差し出した本には、そんな言葉が加筆されていた。

 

 なんで君達は可笑しな呼び方ばかりするんだ……まあ、性別が含まれている分だけマシだけど。

「見ての通り一人身だね」

[なら ぼくさまと おちゃしよーぜ]

「すまないけど先約があるんだ。またの機会にして欲しい」

 

 狸はページをめくり、新しい余白を手にかける。

[つれないねー きつねくんとは なかよくしてるくせにさ]

「……向こうには借りがあるんだよ」

[そうなんだー だったらぼくとも こうしょうしない?]

「いや、やめておこう」

 

 またページをめくり、新しい余白を手にかける。

[いいのかい? ぼくは そのしょうじょうのなおしかたをしってるよ]

「興味がない」

 

 どうやら時差は伴ったが、願い通り幻覚が悪化したらしい。兎にも角にも、これ以上新しいページが犠牲とならない内にと、本を取り上げた。

 

 そのまま、なんとなしに天井を見上げて「このホワイトチョコレートは石膏ボードなのだろうか」と、ドウデモイイ穴埋めをする……間もなく誰が叩いているのか知らないが、脇腹に打感を覚えた。

 

 きっと、こいつの存在を認めてはいけないのだろう。認めてしまえば境界線を見失って、いよいよ自分が何者か分からなくなってしまいそうだ――ああ、ヒトはなぜ、暴力でしか相手を従わせられないのか、なんて哀しき生き物なんだ。そんなクダラナイ言葉で意識を上塗りする。

 

 そんなこんなしていると、抗議活動は終わったようでサクサクと鳴る足音が遠退いて行った。

 

 今更、溶けて消えたところで気になど止めないだろうに、なんとも律儀な幻覚じゃないか――。

「ヘュー!」

 

 飛びかかってくる声に屈む。ドップラー効果を体現した阿呆が頭上を掠めて行った――程なくしてゴンッと、机を揺らすような鈍い音が響く。

 

 ああ、お前もか。などと思ったが、狐と違って確信犯であることに気がついた。

 

 そちらへ目をやれば、部屋の明るさに似つかわしくない小さな窓。その下の壁に打ちつけたようで、阿呆は頭を抱えて丸くなっていた。仮に飛び蹴りをするにしても、もう少し後のことを考えたら良いものを。

 

 ただ、それはいくらの騒ぎにもならなかった。辺りの水羊羹は痛々しい音に生理的な反応を見せたくらいで、まるでこいつの存在自体を否定したいようだ。

 

 それが返って、この二匹目の化け物に実在を与える。

 

 いや、もしかすれば一匹目なのかもしれないけれど――ああ、狐を探さねばいけなかった。

 

 いくらか思案して、突かれたダンゴムシみたいになったそいつを長椅子の上へ転がした。そこへせめてもの手向けとして、自らの上着を被せる。

 

 さらば狸よ、いつか心優しい飼い主に拾われれば良いのだけれど。

 

 

 同じ階層を一通り横目に見たけれど、その姿は見当たらない。

 

 少しずつ狐のイタズラである可能性が高まる中、私は一階へと続く螺旋階段に歩みを進める――残念ながら、あれは二匹目だったらしい。

 

 その階段を半周ほど回ったところで、目的の狐を何の苦労もなく視界に捉えた。

 

 他と比べて、とりわけ背の低い棚が集まった区域に一匹目は居る。自ら言い出した役目をほっぽり出して、何をしてるのやら。

 

 私は、足音に気を配りながらターゲットへ近付く。

 

 そいつの横まで来た。その場で屈んで、覗き込んでみる……一つの文が目に留まった。

「そりゃあ、毎日栗やら松茸を置かれてたら不気味だ」

「ヘェ、ヘェーヘェ。ヘェー、」

「とりあえず、モールスで打ってくれないかな」

 

 そいつの手元へ右手の甲を差し出す。すると、本から顔を上げもせず、左の爪でトントンとつつきだした。

《タワケ コンナニセイジツナノハ キツネダケジヤ》

「そんなものか」

《ウム ドイツモコイツモヒドイモンジヤ トクケ》

 

 頭の中で、ツーーと電子音が流れる。

 

 それからミノリは相変わらず目を向けようともせずに、読んでいる絵本を閉じた。

《ナンドキ》

「ん?ああ、まだ昼の二時ってところかな。その一冊くらいなら問題ないね」

《オヨバヌ》

 

 そう打ち終わると、狐は垂直跳びをして本を棚の隙間へ突き刺し、もう一回弾んで、その本を定位置まで押し込んだ。

 

 それで棚の方を見収めもせずに、手足を棒のようにしながら向こうの方へ歩き出す。黙って後に続くと、その足取りはまっすぐ外へ向かっていた。

 

 狐はそのまま、扉を押して正面口から出ようとする――ミシッと、扉からしてはいけない音がして、けれどもそいつは何事もなかったように引いて開ける。

 

 私は自力で閉まらなくなった扉へ手をついて、受付を見た。奴は私が見えているのかいないのか、何事もなかったように吹き抜けの向こうへ顔を逸らしている……なるほど。


 この狐はやはりズレているらしい。きっと当人は一ミリたりとも望んでいなかっただろうに。

 

 

  ◆

 

 

 もはや、管理されることが目的化した図書館を出ると、いつの間にやら案内役の少女がいた。なにやら項垂れている。

 

 その横へ歩み寄ると、彼女はバツが悪そうに切り出した。

「見られるのがむず痒いから、少しの間そっぽへ行こうとしただけなんじゃ」

「なるほど、無理もない」

「……不覚じゃ」

「別に、良いんじゃないかな。どうせ誰も追ってや来ないだろ」

「そうではない」

 

 分かっている。彼女からすれば、それこそ『ごんぎつね』のような献身を望んでいるのだろう。そんな役目からいつ開放されるかすら知らないというのに、難儀なものだ。

 

 言葉を探ってはみるけれど、今の私に何ができるでもないと歩き出す。

 

 彼女も、とぼとぼと後に続く……今の内に渡しておこうか。掛ける言葉の代わりに、ハリセン折りになった地図をサイドポケットから取り出した。

「……ああ、地図かや」

「凹んでいるところで悪いけど、確認して欲しい」

「診療所の場所ならそこにはないぞ、今朝と同様じゃ。それと、こっちは凹んでなんておらぬ」

「そうかい。ただ、見て欲しいのは裏面だね」

「ん?……人と本と、」

 

 彼女は紙の裏を覗き見るように広げて、まじまじと観察する。それからどこか納得いかなそうに、描かれた巫女装束のヒトガタを指差した。

「こやつは誰じゃ?」

「君だよ」

「あー、なるほどの。坊からはこんな風に見えとったのか、まんま狐じゃな」

「いや、逆と言えば逆なんだけど――まあ良いか」

 

 絵を通しても認識は異なるそうだ。その上、『まんま狐』と言うからには私の知る丸っこい狐とも違うらしい。

 

 それは「本来の彼女を知らないから描けず、他の人間や物品はイメージできるから描けた」と、そうなるのか。

「あっ、そーじゃ!どうせなら絵描きになってみたらどうかの?『全ては感動から始まる』なんぞと聞いた覚えがある」

「残念ながら、私には人間が分からないからね。出来ない奴に出来ないことを強いるほど、惨いこともないんじゃないかな」

「ふーむ、そんなものかの?よい考えだと思ったのじゃが。こっちは坊の絵が好きじゃぞ?なんというかの、心が見える気がするんじゃ」

「……そりゃあどうも」

 

 いやはや、心無い奴の心とやらがどんな色をしているのか、是非とも教えて欲しいものだ……そもそもが、本人ですら無数の変換を通した不可逆的な写像くらいしか知る由もないだろうに。

 

 まあその写像の、更に言えば明文化できそうなモノを挙げるなら、「鼻で笑われる為だけに行かねばならない現状を憂う心」ぐらいはあるかもしれない。

 

 しかしながら、こんなモノをこころと言い切ってしまうのは、自らが死へ追いやった友人、そいつの墓参りを日課にした人間と比べて失礼千万に違いないだろう…………いや、いつまでそんなポンチ絵を見続けてる。

「気が向いたら、その内ね」

「ん?何がじゃ」

「暇潰しに、絵でも描こうかなって」

「ほうほう……なんとッ、本当かや?無しってのは無しじゃぞ、約束じゃからな!」

「そうだね、約束だ。その代わりに地図はちゃんと仕舞っときなよ」

「うむ、心得たっ」

 

 少女は「凹む凹まない」どころか。さっきまでが私の勘違いであったように、もはや季節外れの夏祭りへでも行くように浮かれている。

 

 ああ、そうだね。もしも精神病棟送りにされたなら、望み通り月夜の一つでも描いてやろう……流石に耳まで切り捨てるつもりはないけれど。

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