第2章2節


 

 軽い栄養不足からか、前へ踏み出す脚が重い。

 

 あまり気乗りしないけど、容器の中からいくつか摘んで口の中へ放り込む。

 

 今朝方から少しずつ消費してきた乾パン、空腹は最高のスパイスと言っても限度があるらしい。

 

 いや、乾パン自体は良い。驚くべきことに、その見た目はいくらか膨れているくらいで、イツモのそれと大きな違いはない。それに、イツモ通りの味だった。

 

 だからこそ、口に含んだ端から水分を奪うのもイツモ通りで水が欲しくなる。

 

 特段急ぐ必要は無いけど、わざわざ足を止める必要もまた無い。私は乾パンの入った容器ごと頭上へ差し出す。

 

 そうして空いた手で、内ポケットから飲み水を取り出した。

 

 そして残念ながら、この水こそが周囲のフェルト達と同様、作り物にしか見えない。おおよそ原色の青い油絵具を溶かし込んだような液体で、だと言うのに無味であるから恐ろしい。

 

 そんな液体を喉の奥へ押し込みながら歩みを進める……どうやら人工物と自然物の間に境界があるらしい。

 

 らしくはあるのだけど疑問も残る。一つは、私の装備品やら彼女やらには少し当て嵌まらない。一つは、その境界も曖昧で「人の手が加わった」と言っても、水はボトルへ掬っただけでは変わらなかった。

 

 だから、結局は【白い烏】のような気もする……ボトルに移しただけで姿を変えたのなら、そっちの方がよほど不可思議かもしれないけれど。

「大丈夫かの?やっぱり重くないかや」

 

 袖で口元を拭っていると、左上から声がした。そんな不可思議を体現する存在だ。

 

 そちらへ目をやれば、乾パンの容器とそれを持つ手首、それと高層雲にも溶け込めない袖が靡いている。

 

 彼女は私の左肩に座っていて、その顔は視界に入らない、無理にでも見ようとすれば首を痛めてしまいそうだ。

「全然、相も変わらず軽過ぎるくらいだ」

「疲れたなら、いつでも下してよいのじゃぞ」

「いや、約束は約束だからね、必ず守るよ」

「うーむ。こっちにくらいは曲げてもよいのに」

 

 ミノリは自ら言い出した罰ゲームだというのに、どうも落ち着かない様子だった。元より人間など居そうにないが、また違った存在は居るのかもしれない。

 

 別に、彼女を辱めてやろうなんて意図はあまりない。私が軽いと言ったのは字面通りの単なる事実だ。こちらは今更驚くようなことでもないけれど、その重さは狐だった時と大して変わらない。

 

 ただ、そいつが人間大であるのだから、まるでマザーグースで語られるような、綿菓子からでも作られているような、そんなイメージが思い浮ぶ――。

 

 ふと、つま先が小石モドキを蹴って目線が落ちた。その石は、まるで川の中でも流されるように弾みながら下ってゆく。

 

 この道は乗用車がどうにかすれ違えるくらいの幅員があった。それでも砂利道であって、よそ見はあまり褒められた行動とは言えない……言えないけれど、何処か他人事な気がして「だったらスパイスや素敵なものは何か」と、この空想も小石モドキみたいに転がっていく……どちらかと言えば、スパイスの擬人化と形容した方が近いかもしれない。

「むー、あの斜めに伸びてきた道へ入ってまっすぐじゃな」

「了解」

 

 久し振りの案内が入る。それは、かれこれ二十分ぶりの交差点だ。

 

 ここまでもプラントの合間を抜けるような脇道ならいくらでもあったが、そんないつ途切れるかも分からない道を数に含めなくても良いだろう。

 

 一帯は棚状に整理された農地。ほぼほぼ原色の、目が眩むほどに青々としたサトウキビが湖のように広がり、波立っている。その他には背の高い散水機や苔生した掘立小屋、水草の一つも生えていない用水路、と思わしき洋菓子がいくらか目に止まるくらいだ。

 

 何にせよ、ココにあるものはどこまでも没個性的だった。こうして分岐を目の当たりにして、やっと安堵できるくらいには。

「あと半分ぐらいかな」

「そうじゃの、一応見ておくか」

 

 紙を広げる音がする。それは元々、こちらの上着に入っていたものだ。

 

 正直に言えば、その存在さえ失念していた。思い返せば【音羽神社】という名称に違和感を覚えたのは、その地図で見ていたからだろう。

 

 今朝方そんなショウモナイ見落としに気が付いた際には、ミノリから酷く弄られたものだ。しかしながら、記号か汚れかすら分からないこちらからしてみれば——なんて異議申し立てするよりも、このまま街中を巡ってやればよっぽど気も晴れるに違いない。

「うむ、だいたい……そうじゃの、ちょうど折り返しくらいであろう。そっちの道を真っ直ぐ行けばもうすぐじゃな」

 

 紙を擦る音をさせながら彼女は告げる。指で距離を取っているらしい。几帳面なのか大雑把なのかよく分からない言動だ。

 

 そうして、ほどなくして立ち止まる。この三叉路は見れば見るほどちっぽけで、看板の一つさえ見当たらない。

「待て」

「なんだい、ここを右で良いんだろ、」

 

 左肩が強く押し下げられた――見上げれば、少女が青い空を背景にして高々と舞い上がっている。何事かと考える間もなく、それが映る。

 

 それから、どこか遠くの空へと飛び去って――なんてことはなく。いつぞやの月面宙返りを思わせる放物線を描いて、五メートル先へ降り立った。

 

 うらやましい、ポツリと浮かぶ。本当の自由とはこういう奴を指すのではないか……まあ、所詮は青い芝生だと分かってはいるのだけれど。

 

 そんな青い芝生の方は、さして何事もなかったように白銀の髪をかき上げながら、遠くの音を聞くように目を瞑っていた。

 

 どうやら良いことか悪いこと、そのどちらかが起きたらしい。元より距離が開いて話しかけ辛いが、邪魔になりそうでなおのこと見守るほかない。

 

 彼女は、その音源を探るように身体を捻って十秒ほど、かと思えば地面を触って二十秒ほど確かめていた。

 

 それで大方の見当は付いたのか。立ち上がるとこちらを向いて、手のひらを払いながら戻ってきた。

「どうしたんだ」

「うむ、奴らが来る、こっちへ行くぞ」

「……了解」

 

 どうやら悪い方が起こったらしい。一際異彩を放つ振動を、こんな遠方まで届かせるような何者か。彼女はその存在を知っていたからこそ、あちらこちらへ気を配っていたのだろう。

 

 言うべき言葉を形にできないまま、小さな背中が先導するままに、私はコソコソと脇道を付いて歩いた。

 

 

  ◆

 

 

 今では遠く見下ろしている三叉路。そこを一両、二両と登って行ったが、計四両で打ち止めらしい。

 

 その一両当たりに、乗り込んだ三人ほどのヒト――見かけ上は人間大の水羊羹だが、そいつらがノロノロと山の方へ向かって行った。

 

 こんな僻地の小隊に面識などない。しかしながら、組織単位でなら隣近所よりも見知った存在に当たるのだろう。

 

 いくらか頭が冴えない今であっても、これだけ見えてしまえば実感を伴ってしまう……もういくらかは都合良くあって欲しかったけど。

 

 その結論には少しばかりの当惑はあれど、それ故の遠出だと納得もできる。

 

 だからそんなものよりも、ミノリが自ら語らなかった理由を知りたくなった。

 

 彼女はわざわざ、アレを観測できる高台で足を止めた。隠す気になれば、いくらでもやりようはあった筈だ。もちろん時間の問題ではあったから、ちょうど良い機会だと判断したのかもしれない。

 

 けれど、それではあんまりな気がして、何かヒントはないかと右の方へ目を向ける。

 

 彼女は居たものの、切り捨てられたススキのような穂、それを積み上げて作られた小山。その上に寝っ転がって、日が眩しいのか、腕で目元を隠していた。

「眠いのかな」

「いや、暇をしてるだけじゃ」

「そうかい。ところで、君の言う『奴ら』とやらはもう行ったみたいだ」

「うむ、分かっておる」

 

 そう答えてもなお、彼女は顔を隠している。そのありようがこちらの答えを待っているように見えるのは、ただそう思いたいだけか。

 

 口を開こうとして、足りないパーツに気が付いた。彼女の目線に立ったなら、この答えには不備がある——いや、辻褄を合わせようとすれば可能だろう。けれどもそれは、都合の良い犯人Xを神やら宇宙人やらと名付けるような話だ。

 

 なんとなしに視線を正面へ戻す、耳鳴りがするほど静かで、そこには誰も映らない。まるで、役者を失ったトーキーでも見させられているようだ……とてもじゃないが耐え難い。

「……今までの——いや、世界自体は何一つ変わってない、これは合ってるかな」

「うむ。そうじゃ」

「なるほど、随分と気苦労かけたみたいだね」

「すまぬ」

「いや、これも君が謝ることじゃないだろ」

 

 何のことはない。相変わらず可笑しかったのは向こうではなく、私だったわけだ。

 

 元々不用品だったが、これでいよいよ不良品か——なんてことはどうでも良くて。その先の、他に何が確定できるだろう。

 

 装備品が自分のものなら時間は正しい、場所も分かる……であれば、目的の島には堕ちていたらしい。

 

 ただ同時に、【パノプティコン】とは全くの無関係だったことも導かれる。結局、治りもしない病気は抱えたままで、治るかもしれない病気を新たに患った。そういった話みたいだ。

 

 考えれば多くのことが線で結ばれた。だからより一層、彼女に起きた変化を何一つ説明できないことも浮き彫りになる……その存在すらも私の幻想でない限りは。

「とは言え困ったね、これこそ胡蝶の夢って奴か」

「うむ、そうやもしれぬ」

 

 二人きりの会話であって、一人の歯切れが悪ければ容易く途絶えてしまう。それを面倒なんて思わないけど、何か彼女を引っ張り上げるような言葉はないかと掴みかねて、どうももどかしい。

「昔話を……」

 

 と、こちらから何を話す必要もなかったようで、そう彼女は切り出した。

「んっ、ん。一つ、昔話を聞いてくれぬか。昨日は楽し過ぎて言いそびれてしまったゆえな」

「もちろん、なんら問題ないよ」

 

 ゲームに熱中したせいで忘れていた。それを理由にして誰が困るわけでもない……。

「あるところに、一匹の狐がおった――あっ、今と違って普通の狐じゃな。そやつは後ろ足を怪我しておっての、それは阿呆共があっちこっち見境なく撃ちよるから、流れ弾を受けておったわけじゃ」

 

 うなずく。

「されど、そんな阿呆共の暮らす街と違って、森は怪我をしたとて誰も優しくしてくれんからの。満足に歩くことさえままならんような狐は、よくて飢え死か。でなければ、狼にでも噛み殺される他にないわけじゃ――狐自身もそれが分からんほど愚かではない。かと言って、自ら死を選ぶほど悟ってもおらぬ。故に、川の近くの茂みで眠ることにした。なぜだか、妙に水音に引き寄せられてな」

 

 うなずく。

「それから、迎えが思っていたより遅くての。小指の一本さえも思うように動かんくなってきた頃……初めに気が付いたのは足音じゃったか匂いじゃったか。そこまでは覚えておらんが、何かしら——というのは作り過ぎじゃな。うむ、十中八九人間だと分かっておったと思う。そやつが近づいて来るのを感じたわけじゃ……それは狐にとって僥倖じゃった。個体で見れば別ではあるが、同じ人間という種に一発見舞いするまたとない好機じゃからな」

 

 見えていないけど、うなずく。

「なんとも復讐心とは恐ろしいものでな、それだけで頭が染められると躰が動くようになった。して、よたよたと這うようにして沢を覗き見れば、そやつは下流の方から歩いて来たようじゃった。その脇に猟銃を携えてな。とは言えの、端的に言えば何処にでもおるような壮年の男で、こっちには気づいておらなんだ」

 

 ただ耳を傾ける。

「ともすれば、当然ながら不意をついてそやつの首を骨さり噛み砕く——なんてこと、できる筈もない。もちろん、良心云々ではないぞ。こっちは本当にやろうとしたんじゃが、まあ躰が動くとは言ってもな。精々が足首に歯形を残すくらいしかできんかった、それだけのことじゃ。そこで目蓋が重くなって、気づけばそやつの家におった…………ほんと、馬鹿な男じゃ」

 

 その声に些細な違和感を覚えた。けれども、ただ耳を傾ける。

「んっん、すまぬ。えーっとの、もちろん遠巻きには見たことがあった筈なんじゃが。そん時の白熱電球がやたら眩しくってのっ、腕を振り回したら、こんどは奴の顔なんぞを引っ掻いてしもーた。いやはや、こう振り返ると下らないことばかり覚えてるもんじゃなー」

 

 なんとも楽しそうな声色で、慣れない筋繊維が反応する。

「そんなこんなで、奴の家で過ごすことになってしもーた。義理や人情などと堅っ苦しいものではないんじゃが、受けた恩は返さなければ狐の名折れじゃからな――それで……。まあ、結末から言ってしまった方がよいであろう。狐の寿命だったんじゃろうが三つの冬を越しても、そやつへ十分に報いることは出来んかったわけじゃ……あの頑固者は、最後まで一切何も求めんかった。こっちが畑を耕そうとすれば怒鳴り散らされ、狩りで獲物を誘き寄せても鉄砲で脅される。なーんの弱みも見せなんだ」

 

 そこで少しの間が開いて、区切りが付く。

「して、こっちが死んだ後……んー、語らんくてよいな。大事なのはそこから一年後、男が亡くなる直前じゃ。とりあえず、こっちは霊になってなんとなーく見守っておった……どうやってと聞かれても説明のしようがないの。まあ、気まぐれかは分からぬが、きっと神様のおかげじゃろうな、今こうして坊と話が出来ているのも含めて。故に、いくら礼を言っても切りないが……兎にも角にも、零した心残りを聞けた訳じゃ。それは、そやつの子どものことじゃった」

 

 そう言って、彼女は一つ仕事を終えたように息を吐いた。

「これがきっかけじゃな。坊、何か聞きたいことはあるかや?」

「……いや、特にない」

 

 抑えていた分だけ声が出辛くなっていた。その上、顔すら覚えていない人との馴れ初めを聞かされて、何を求められているのかも朧気だ。

「んー、つれない返事じゃなー……して、少しは信頼してもらえたかの?」

「どうかな」

「まあよい、時間なんぞ掃いて捨てるほどあるんじゃからな」

「ああ、もっともだね」

 

 そんな筈ありはしないと、ベタ塗りの空を見上げる――何処までが本当の話なんだろう。好き勝手に敗残兵を演じられていた人々と、その置き土産……丸々嘘だとしても、この狐は変なところで私と似ている。

「すまない、やっぱり一つだけ聞いておきたい」

「よいと言っておろう」

「彼は救われていたのかな、最期は」

「……苦しんではおらんかった、と思う……なれども、あんな死にそうになかった奴が、ほんの一年やそこらで枯葉の如く散って。今でも少しだけ、怖く思う」

「そうか。これは私が言うべきか分からないけれど……看取ってくれてありがとう」

 

 この空も、少しぐらい変わって見えるかとも思ったけど、私の感性は別段変化を示さなかった――そうだとも、何も変わりはしない。だから、少しぐらいは安堵できる。

「でもな昨日、坊を助けられて、ちーっとだけ心が軽くなったんじゃ」

「……心当たりが多過ぎるかな」

「そうかや?まあ最初の、あの事故が正にじゃな」

「なるほどね。その節はどうも……ところで、どんな奇術を使ったのかな」

「むー、『頭いっぱいに強く願ったらこの姿になって、飛行機から間一髪で飛び出した』といった具合じゃの。いやはや、ぱらしゅーとが絡まった時はもう駄目かと思ったぞ」

「……素手で列車を止める勢いだ」

「ふふっ、枕木が何十本あっても足らんじゃろうな」

 

 彼女の崇める神様とやらは何とデタラメなのか。

 

 まあ、彼女にとってはトリビア、私にとってはトリビアですらない降下訓練。そんなものへすら馬鹿正直に取り組む姿を見ていたのなら、その気持ちだけは分からなくもない――。

 

 ふと、少女の方から乾いた草の摩れる音がする。そちらへ顔を向ければ、彼女は既に起き上がっていた。

 

 そして、なにやら背中を気にしている……一つ、身体ごと衣を振る――振る。振る、振り回す。

「だーっ!全然取れぬー!」

「……分かったから、まずは止まってくれ、」

「木っ端の分際で生意気なーっ!」

「いや、『なー』じゃなくて」

 

 案外、彼女に猟の共や畑を任せなかったことは英断だったのかもしれない。

 

 野生へと回帰しそうな少女をどうにか宥めて、まとわりついた穂の成れの果てを一つずつ取って捨てる――あらかた、見える限りは取り終えただろう。

「今度からは狐になってから寝転びなよ」

「あー、あー?あー……それで何か変わるかの?」

「そうすれば上着を脱ぐだけで済むじゃないか」

「むー、少し恐ろしいのう。つるつるぴかぴかになって見えるやもしれぬ」

「まあ、それはそれで、可愛らしくて良いかもね」

 

 ミノリは否定の念をその笑みに宿して、背を向ける。

 

 それで、出発の合図をするように背筋を伸ばす。

「ほーんに、空気が旨いのー」

「そうか、昔と比べてならどうかな」

「ふふっ、もう覚えておらんよ」

「なるほど、意外だ。さっきまでは随分と饒舌だったのにね」

「まーの、繰り返し思い出せば嫌でも忘れられんからな」

 

 その返答は意図したもの違ったけれど、そう話す声音だけはむしろ清々しく感じられた。

 

 だから、その延々続いている回顧を終わらせること……それをどっかの誰かさんは求められているのだろう、そんな気がする。

 

 ただ、いつ終わりを迎えるのか、そいつは決められるのだろうか。

 

 今の私には……自信がない。

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