第2章1節
どうやら夕方に目覚めていたらしい。ココにも夜は訪れた。
ただ、現在進行形で夜空を見ているわけじゃない。
こんな簡素な熟語ですら彼女から聞いたものでしかないけれど、敷地の名称は【音羽神社】、私達はその本殿に居るとのことだ。
先刻の、ちょうど大鳥居の前まで来た時だった。そこに、何処か脳裏を掠めるような、出来の悪いラテアートみたいな記号が一列並んでいて。私は、知らず知らずに足を止めていたらしい。
そこまでミノリとは、当たり前のように手を繋いだままだった。
だから、引っ張られるようにして振り向いたのだろう。目線を下ろせば、何事かと深緑の瞳を向ける彼女がいて——そこから、ああだこうだとやりとりがあった。
そのやりとりで、彼女の口から出た呼称が【音羽神社】だった。
こんなことでは先が思いやられる――しかしながら、それらの文字が自前の知識と一切の関係を持たない方が当たり前であって、そちらと比べればよっぽど幸いだろう。とりあえずは、そう考えることにした。
けれども名称を受け入れたところで、この地を神社だと断言するのは難しい。
もしかすれば、部屋の隅の方へ置いている上着の包み、その中身とも関係がありそうなものだけれど、この施設もまた羊菓子の集合体に他ならなかった……有り体に言って、その設計段階に立ち会えていたのなら「せめて和菓子で作るべきではないか」と一言掛けずにはいられない、そんな姿だ。
この本殿と思わしき建築は勿論のこと、立ち止まった大鳥居も、歩いてきた参道も、その左右に建てられていた十数基の石灯篭、その火袋の中に至るまで。
御丁寧にも、クッキーとかカスタードとか、飴細工だけで組み立てられていた。
なんだか思い返してみるだけでも胸焼けを起こしそうで、海水で良いから塩辛いものが欲しくなる。無論、この光景の前には探す気すら起こらないけど。
ただ一つ、この嫌悪感への対処療法には否が応もなく気づかされていた。
現在進行形。私は畳を模したであろうパイ生地に胡座をかきながら、フラフラと揺れる白銀の後ろ髪を眺めている……たしかに気は紛れるけど、そこはかとなく居心地の悪い上に、そいつがよりありがたく思えてきて恐ろしい。
そんな嫌疑を知る由もない少女は、意気揚々と何かしらの道具を探している。道中で転げてはいないので救急箱ってことはないだろう。
終には、わざわざ踏み台にする適当な箱まで攫って来て、天井にも届きそうな箪笥を物色しだす――そして、大小合わせて二十は開け閉めしていただろうか。
やっと、その何かしらを見つけたようで、両手を引き寄せるとこちらへ振り向いた。
彼女の手元が見える。一目見るに三十センチ角はある茶褐色の板チョコレートと、その上に巾着状の……呼び名は思い出せないが、いくらか黄みがかった菓子が乗っていた。
「やー、あったあった。もしも見当たらなければ自作する他なかったぞ」
そんな独り言を呟きながら、彼女は足元を覗き込むようにして歩み寄ってくる。
けれど、まとめて運ぶのを諦めたのか。その場で一式を床へ置くと、天辺の巾着をどけた。
「では、一方的に問いただすのも心苦しかろう。一つゲームをしようではないか」
それで、彼女は何処から持ってきたのか。適当なクレープ生地で板チョコを擦りながら、矢鱈と明るい、選択肢を与えるつもりもない声色で提案してきた。
なるほど、それらの菓子はゲームで使うために持ち出したらしい。
「別に良いけど。何をするって」
「もちろん将棋じゃ、お主も好きであろう」
「まあ、嫌いじゃない」
嫌いではないが、よくもそんな嗜好まで知っているものだと素直に感心してしまう。
「一手毎に、では多すぎるかの。『駒を一つ取ったら一つ聞いて良い』ってのはどうじゃ?もちろん、先手番は譲るぞ」
「それでも多過ぎるかな、せめて歩は抜きにしよう」
「うむ、わかった。して、手番は」
「ありがたく頂戴させてもらおうよ」
ミノリは再び一式を手に取って、対面まで来るとちょこんと座った。
彼女は私との間に盤を置いて……たしかに縦横が九分割されている。それを指でなぞってはみると、質感はおおよそ木板のようで、視覚と触覚の不和が悍ましい。
けれども向こうさんは人の振り見てなんとやら、マイペースに巾着を右手に取って、もう片方の手の上へ駒を出した。
そこから香車を一つ拝借して、手の中で転がしてみる。
書かれた記号で識別こそどうにかできるけど、一見では向きが分かるくらいで大駒小駒の見分けすらつかない――と、巾着から全ての駒を出し終えたらしい。
それから自ら勧めてきたというのに、彼女は一つ一つ確かめるような、まるで「後ろから親に教えられている子ども」といった手つきで駒を並べはじめる。
そして、何処からその自信が湧くのかすら知らないが、彼女は目線を上げることもなく切り出した。
「それで、こっちは何枚落とせばいいのかや」
「いらないよ、言い訳にでもされたらかなわないからね」
「ほおほお、なんとも凄い自信じゃのー。であれば、負けたら罰ゲームをするってのはどうじゃ?」
離れかけた唇がそのまま閉じる。勝負をするとなれば、勝てると分かっているものしかするべきじゃない。そんな面白味のない杓子定規な思想が返答を遮った。
「……いや、それは話が別だ。そちらはどうか知らないけど、こちらには何のメリットもない」
駒を並べていた手を休めて、ミノリがこちらを向いた。私は手をつけていないのだからもちろんのこと、まだ向こうも並べ終えていない。
「メリットならあるぞ。こっちを仲間に引き込めれば、坊は必ず生き残れる筈じゃ」
「つまりは、あれかな、逆を言えば一人なら容易に死ぬって話になるよね。それは何とも世知辛いじゃないか」
ミノリは何か反応するでもなく、ただ静かにこちらを見据える。それは「この言葉を聞いてどう出るのか」と、問うているようだ。
しかしながら彼女の提示するメリットは、きっとデメリットではないがメリットでもない。それに、状況を踏まえれば彼女こそが脅威であるべきじゃないか。
何にせよ、遊びではなく真剣に指してもらいたいらしい。とりあえず、そう意味づける。
「まあ、別に良い。そもそもが、君が本気になれば抵抗のしようもないんだ。むしろチャンスをもらえた分だけ感謝するよ」
「なッ!違うぞ、なぜこっちがそのようなことをせねばっ、」
ミノリの言葉が途切れた。そして、逆恨みと言う他ない衝動を抑えるようにゆったりと返答を再開する。
「すまぬ、気が変わった……目を覆うような酷い目に合わせてやろう、このたわけが」
語るに落ちると言うべきか、彼女には別の目的があったらしい。それが何の為かは分からない――分からないなりに理屈を捏ねれば、おおよそ保護者にでもなりたかったのだろう。
遠巻きに見て、それほど庇護欲をそそるのか……別に、嫌悪感などありはしない。仮にあったとしたら、それは図星に違いない。
なんにせよ、それが脅威であれ親子であれ全くの無粋というものだ。
盤を前にしたのなら、どんな背景を持ってようが対等であるべきなのだから。
初めての機会は角交換だった。
向こうは居飛車党だったようで、右銀の欠けた船囲いに組む。対してこちらは、四飛車に振って囲いも早々に飛車先の歩を交換した。
その時に自然と角道も通ったので、7七角成とこちらの角が取られる。
彼女が手練であれば大駒を手持ちにされるのも良くないか、等とも考えたけど、いつもしないことをして負けるのも面白くない。
まあ、そのいつもであったなら即座に同桂と進めるところ、今回は向こうからの質問を待つ。
「うむ、まず一つ目じゃな……こっちの、この姿はどうかや?おかしくないかの」
「まあ、可笑しくはあるかな。けれど、特別気にするようなものだとは、」
「なっ!やっぱりおかしいかの?どこら辺じゃ?幾分太過ぎるかの」
ミノリは盤面に被るくらい身を乗り出して、ありもしない毛並みを逆立てるように捲し立てた。
ただの世間話のようで拍子抜けだ。盤上から拾った馬を表にして駒台に置き、今しがた空いたマスへ桂を跳ねる——とりあえず、向こうから飛車先交換が入るとして何処に引くのやら、高飛車相手は少し苦手だ。
「いや、言い方が悪かったね、おかしく見えるのは環境のせいだよ。君の外見は人間社会に溶け込めても不思議じゃない。それに、むしろ細過ぎるくらいだろうね」
敢えて「街中で出くわしたのなら見なかった振りをするかな」等とは付け足さないけれど。
ミノリはこんな返答でも満足したのか。手を離された振り子のように定位置に帰って、一つ大きな息をつく。
子どもっぽいというか、どうもにも大袈裟だなあ……と、そうだ。今度はこちらが質問をする番じゃないか。まあ、だからって焦る必要など無くて、敷地に入る前にはあらかた考えついていた。
「それじゃあ、いきなりで悪いけど。向こう側、さっき言った人間社会へ戻るにはどうすれば良い」
「む?……うむ、そこが一番の問題よのー」
「なんだ、君も知らないのか」
「すまなんだ、申し開きのしようもない。でも、可能性はある筈なんじゃ、方法論は調べてみないことには分からぬが」
「……なら、不可能じゃない根拠はあるわけだね」
「うーむ、坊が納得できるかは分からぬ。ただ、改善した実例は何万とある筈じゃ」
本当かと、耳を疑いたくもなる。他の世界へ迷い込んだ、なんて噂や創作は履いて捨てる程あるだろう。けれどもそれを実体験として語る人間が何万と居たのなら、世も末だと言わざるを得ない。
ただ、それが事実であるのなら、私は生き残ってしまったらしい。
なぜなら死とは不可逆的なプロセスであって、火葬した灰から蘇生できてしまうなら死体と呼ぶべきものなど存在しない――まあ、名も忘れた担当医からの受け売りでしかないけれど。
「それで、調べるにはどうすれば良いのかな」
「ふふっ、独り言かや?そんな必死な顔でせがまれたとて、こっちは一つしか答えんよ」
ミノリは両手を広げながら、意地の悪い声色で釘を刺す。
「そうだったね、たしかにルールは守らないとだ」
「なーに、心配せんでもこっちがいるであろう?坊は駿河にでも乗ったつもりでドーンと構えておればよい」
いつの間にやら、同伴するのは決定事項になっていたらしい……たしかに戦力とはなるだろうが、不沈艦を自称するには些か剽軽過ぎる。
と、以上で一連の回答は終わって、視線は再び盤上へ戻った。
打ち込みの隙ができないように注意しながら駒組みが進み、一段落した。向こうの飛車先を金で受けつつ、どちらも攻めは歩と銀桂、それに飛車。
そして、振り飛車の常套手段と言って当たり障りのないように、こちらから駒を捌きにかかる――すると自然に、次の質問者も私なった。
取った銀をゆっくりと駒台に置いて、同銀上と進める。それから天井を形作るクラッカー、その空気穴を数えながら留めていた筈の候補を探りはじめた。正直、このままゲームにのめり込んでしまうと覚えておける自信がない。
忘れてしまうことは本来どうでも良いことだ、なんてキザな台詞を言うつもりもないけれど、ここでカンニングペーパーを持ち出すのは何処までもナンセンスだろう。
「それなら、今朝はどうして傍で寝ていた……いや、昨日までは何処に居たのかな」
「おー、なんだか聞き込み捜査をしてる刑事みたいじゃな。して、昨日までか?無論、すーっと坊の側におったぞ」
「側……一応聞くけど、それはいつからになる」
こうして将棋盤越しに向き合っているからだろうか。口に出してみれば、これは聞き込みというより尋問に近い気がした。だからというわけでもないけれど、盤を隔てた向かいを窺う。
そこに座る彼女は、明後日の方角でも見るように目線をそっぽへ飛ばしていた。つられるように、その先の何かを探してみる。けれども私には、飴細工の窓やウエハースを重ねて作られた壁くらいしか見て取れない。
「五十九年の、四月二十日から」
「なんとも御利益がありそうじゃないか」
ミノリはポツリと告げた。
五十九年。キリの良い数字だ。私の記憶を元にすれば、それはちょうど二十年前を指していた。
「いいや、そんなことは万に一つもないじゃろうよ。こっちはただ見ていることしかできんかったゆえな」
先ほどまでの気勢は何処へ行ったのか。少女は懺悔でもするように言葉を投げ捨てる。
だから、それは赦しを乞うような先を求める言動ではなくて、赦されること自体を諦めたような——いや、この印象は自らの過去を勝手に結びつけているだけだ。
だからこれ以上、馬鹿げた言葉遊びをはじめてしまわぬ内に、どうにかこうにか会話を繋ぐ。
「そうか、ちなみにエーリヒの行方を知らないかい」
「すまぬ……こっちは見ておらん」
「いや、謝る必要はないよ、見てないってだけでも貴重な情報になるからね。それに、ここから始めれば良いだけだよ」
「……うむ、そうじゃな!いやはや、変なことを言ってすまんかった。次を指してもよいかや」
「問題ない」
短く肯定する。私には彼女の作ったその空白が、出したかった言葉を噛み潰してできたように見えた。
当然のことだけど、具体的なことは何一つ分からない。
それでも仮に、そんな気が遠くなる時間を何も伝えられずに過ごしていたのだとすれば、この少女が湛える影は赦されるべきだと、それだけは感じられた……感じはした。
「と言っても同歩だろうから、質問を考えれば良いだけかな」
「うーむ、そう言われてしまうと他の手を指したくなるの」
そう言ってミノリは将棋盤を注視する。
こちらが無視できない手、例えば陣形を乱す様な歩の打ち込みなら指せるだろう。ただ、それは指さざるを得ない手であって、少なくとも歩切れになってしまう今は悪手の筈だ。
だから、やはり迷えるほど取れる選択もないのだけど、彼女は考え込む。
それは私が外界の物音に意識を連れてかれて、のんびりと物思いに耽り、そこから戻ってもなお続いていた。
「……五十秒。一、二、三、四——」
何となしに、聞き齧った秒読みを真似てみた。この後は何だったか。たしか名を呼んでから残りの分数を伝えていた気がする。
「答えたくなくば、首を振ってかまわんが」
どうやら言わんとしたことは伝わった様で、ミノリはあっさり同歩と着手した。これがラジオ越しで聞いた一手なら、その意図を延々と考察していたかもしれない。
「はははっ、答えなくて良いなら意味がない。好きに聞けば良い、なんだって答えるから」
「うむ……ではな」
そして、曰く二十年も見てきただけあって、知らないことを聞くというよりか、知っていることを確実にしたいが為といった面持ちで、彼女は続けた。
「どうして、あやつとの婚姻をなかったことにしたのかや?」
「ああ、そんな簡単なことか。あの人は運が悪かった、それだけのことだよ」
変に誤解を与えてもいけないと、間を開けずに努めて柔らかい口調で答える。
このやりとりで、こちらからすべき質問が一つ減る。けれどもそれとは別に、プライバシーについて話す必要は増えたみたいだった。
「その……『運が悪かった』とは、坊が兵として出るからであるとか、そういったことかや?」
「そうだね、そうなる」
「でも、そうであったなら、こっちは別れを告げる必要なんぞないと思うんじゃ。他の、坊の友人であっても。帰る約束をしていた者も沢山おったではないか」
「よく言うだろ、よそはよそ、うちはうち」
「う、うむ。それはそうかもしれんが」
何を納得がいかないのか。たしかに実情を見ればそう感じるのかもしれない。
けれど、例え事故に絞っても零ではない。ことによっては永久に相手を待たせてしまうのだから、こちらを選ぶ通りだって明快だろう。
9筋香車に、中指を乗せて一つ上げる。手渡しに近いけれど、「場合によっては飛車を回して雀刺しにする」そんな意思表示。
「でも、違うんじゃ。坊と他の者では」
「長いこと見てきたのなら、思い入れがあるとかそんな話じゃないかな」
「そうではなくての、なんと言ったらよいか……こっちの気のせいならすまぬが——」
布地が摩れる音をさせて、ミノリは自らの肘へ手をまわす。それから一つの、決まりきった答えを迫るような声色で続けた。
「戻るつもりがなかった。そんなことはないであろう?」
「ない」
何かを思い出すように目線を上へやる。それ以上を口に出してしまえば全てが瓦解するような、そんな気がした。
こちら返答に、幾らかの含みはあっても一応の納得はしたのか。再び、布地の音が聞こえる。
もしかすれば、これが一番聞きたかったことかもしれない。真っ当な良心など持ち合わせているつもりはないけれど、「お前は酷い奴だ」なんて、もう居もしない誰かから指を差された気がした。
「……ならばよかった!して、無事に戻ったらしたいこともあるんじゃろ?あえて仲直りしろとまでは言わんが、顔ぐらい見せてやるのが人の道だと思うがの」
「独り言なんて言ってないで続きを指して欲しい」
耳が痛いといった素振りで次の指し手を促す。向こうは呆れたように視線を落とした――。
「よかった。坊はもう、頑張らなくてよいのじゃ……」
それは偶然にも耳に届いてしまった、そんな声だった……だから言い間違いか、聞き間違いだったのだろう。そう決めつける。
決めつけて、遠くへやって――だってそうだろ。
そいつはまるで、蝋燭の灯りへ近づくことも遠ざかることもできない一匹の蛾のように、いずれ床へと堕ちるまで同じことを続ける……そこまで行ってやっと【意味】を見出すことができる。
そんな馬鹿げた思想だけが唯一信じたいモノで。きっと、それは自己陶酔の末路……誰に対しても最大の裏切りだ。
それなのに、まるで生まれ持った一つの使命のかのように……勇者が世界を救うとか、もしくは魔王が世界を滅ぼすとか、理由は腐るほどあっても意味は一つとしてなくて。
本当にどうしようもない――どうしようもない私を置き去りにして、盤面は淡々と進んで行った。
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