第1章2節


 

 頭に疼くような痛みを覚えながら、目蓋が開いた。

 

 オレンジのパレットに、一晩放置した油絵具みたいな雲が乗っている。その周囲に、ピントの合わない黄やら紅い葉っぱ達が飾られていて――どうやら夕方か、もしくは朝方らしい。

 

 右手はひとりでに患部を触れようとする……まともに動かないみたいだ。

 

 おおよそ踏んづけてでもいたのだろう。首筋に力を込めて、なんとか重い頭を起こす。

 

 それで、視界を布っぽいモノが擦り落ちて、そいつが額に乗っていたのだと――これは……。

 

 これは……こいつは、何だろう。

 

 そちらへ目をやれば、容疑者が静かに寝息を立てていた。

 

 狐と思わしき動物だ。そいつがこちらの右腕を、さも枕にでもするように小さな二本の前足で抱いている。そんな光景が映った。

 

 ただ、「思わしき」と形容したように矢鱈とズングリした形状をしていて。その上、作り物のように透き通った白銀の毛並みをしていた。

 

 これで息さえしていなければ、至極上等なヌイグルミだと決めつけることもできただろうに……けれどもそうでない以上は、冴えない頭を使ってでも解釈しなければならない。

 

 まさか固有種ってわけでもないだろう、ガラパゴスでもあるまいし――。

 

 と、この試みもまた、ヒューズが飛んだように打ち切られる。視界がブラウン運動でも追うように、あちらこちらを駆け巡る。

「……なるほど」

 

 どうやら、こんな狐モドキでさえも異常ではないようだ。

 

 だから、これらの名称すら憶測に過ぎないけれど。下に敷かれた茶褐色の落ち葉の群れ、辺りを囲む無数の紅葉樹、それに先ほど目視した筈の空でさえ。

 

 それら全てがこの狐モドキと同じ世界感の、ただ彼の背景を彩るような、フェルト生地で作られた玩具にしか見えなかった。

 

 目蓋を閉じて、開く、閉じて、開く……変わらない。そんなことを幾度か繰り返す。

 

 それからいくらか、体感ではさほど長く経ってはいないと思う。口から独りでに、一つの思考が零れ落ちていた。

「ああ、死んだのか」

 

 音として耳から入ると、また違ったニュアンスを感じさせる……なんだか他人事みたいだ。

 

 これは諦めなのか。安堵なのか。憎しみなのか……いっそ、楽しんでいるのかもしれない。

 

 どうなんだろう。生きている間は【死後の世界】なんてものを信じてはいなかった。というよりも、あるべきではないと思っていた。

 

 それなのに、やっと形になった答えがコレとはなんとも皮肉じゃないか。

 

 まあ、そんな答えには大した意味なんてない。ただ記憶を遡って、真っ先に浮かんで来ただけだ。

 

 けれども「答えが浮かんだ」という事象が、スターティング・ハンドルを回すように理性を始動させたらしい。それで、そいつは回り出した勢いのままに一つ先へ歩みを進めた。

 

 今一度、この遠近感すら失いそうな森林を見渡してみる……ザックは見当たらないけれど、駄菓子屋で売られてそうな腕時計が左手首に巻かれていた。

 

 その手で上着を漁ってみる。手製の貨幣らしきもの、歪んだペンと歯ブラシ、あとは落書きのような地図が一枚だけ出てくる。

 

 どうにも記憶上のものと品名こそ似通っているけれど、ロクなものがなかった――それに、最もあるべきモノがない。遂に、象徴であるどころか取り上げられたらしい。

「……酷い事故を起こしたもんだね」

 

 そう誰にでもなく嘯いて、とりあえずの点検を終えた。

 

 次は生活の痕跡を探すべきだけれど……まあ、兎にも角にも水と食料と、あとは住処が必要だろう。これもまた『死んだのか』などと宣った手前で不可解な発案かもしれない。

 

 やはり、もう少しまともな解釈を与えておいた方が良い気もする。

 

 例えば、モルヒネや狂人病で幻覚を見ているだとか、巨大なセットの中に幽閉されているだとか、全ては一羽の蝶の夢であるとか――いずれも馬鹿げた絵空事だ。そもそも、そんな夢物語を否定され続けてきたのは他の誰でもなく私自身じゃないか。

 

 私の知る創作の数が少ないからか。結局、寝ていて何が分かるわけでもないだろうと、そんな当たり前しか得られなかった。

 

 それで、肘に腐葉土の様な柔らかさを感じながら上体を起こす……どうにも、二泊分くらいは眠り呆けていたのかもしれない。熱っぽくはないけど、身体が重い。

 

 ただ、この重さには一つ備考がある。これには眠っている筈の狐が上乗せされていた。

「おい、私はお前の枕じゃないんだぞ」

 

 軽く腕を引き上げてみる――狐は威嚇するような、随分と不愉快そうな顔つきになって、前足の力をより強くした。

 

 前足を摘んで引っ張ってみる――狐は「お前こそ離せ」とでも言うように、御自慢の犬歯を見せつけてきた……これで眠っていると言えるのか。

 

 まあ、狸寝入りだとしても、こちらが取れる行動はそう多くない。一つ深く息をする。

 

 それから、この態度だけは獰猛な獣を小銃を扱うかの如く抱え上げて、なるべくゆっくりと立ち上がる。

 

 そして、登っている方へ歩き出す。きっと、その鋭い牙で噛みつかれる危険を加味すれば、ヘタな銃火器よりもタチが悪かろう——と、出鼻を挫くように、狐の背中へ妙な違和感を覚えた。

 

 なんとなしに揺すってやると、朧気だった違和感が突き出て見える。

 

 それは、所謂【妖狐】を連想させるものだった。

 

 この狐からは、尻尾が一本ばかり余分に生えていた。ただ、体毛に溶け込んでいたくらいで、一方と比べて随分と小さい……何か、結びつきそうだ。

 

 いや、ココは元より童話のような空間であって、この狐がただの住人であると言い張れば「そんなものか」なんて頷く他ないけれど。

 

 妖狐の特徴……化けられるとか、それで人を攫って自らの養分にするとか、なら油揚げは主食なのかとか。

 

 つまりはそう、「この化け狐によって幻想を見せられている」といった考えが形になる……なんて馬鹿げた妄想を膨らませたものだ。

 

 けれど、そうであってくれれば【パノプティコン】の片鱗を垣間見たことになる筈で。だからこそ、魅力的にも映ってしまう。

 

 これは単なる馬鹿話、吹けば飛ぶような心許ないヨスガ……結局、でっち上げられれば何でも良かったのだろう。

 

 それで、右足はやっと一歩を踏み出した。少しでも下っている方、先程とは真逆へ。

 

 より一層大切に、この化け狐を抱えながら。

 

 

  ◆

 

 

 獣道を抜けると比較的広い、一世帯がキャンプを楽しめるくらいの空間に出た。同じ森林の違った場所――いや、たしかに地続きではあるけれど、取り分け異質な雰囲気を醸し出している。

 

 ここには引き寄せた元凶、喉を突き刺すような甘く芳しい香りが満ちていた。

 

 それと、この香りに関係のあるだろうカケラが見て取れるだけで何百と、なぎ倒された草木の先に散乱している。大小は様々で、大きなもので人間大。また色合いも目に見えて緑は多いが、そのほか赤、黄、黒と、千差万別だった。

 

 ただ、どうやら共通点もあるようで、そのどれもが記憶の片隅にある洋菓子と重なる。それに、周囲を巻き込んで爆発でもしたのか、所々焦げていた。

 

 だからこの光景は「菓子で作られた家が、何かしらの重火器で破壊された」そんな筋書きを思い描かせる。

 

 まあ、考え込んでも始まらないと、もう少しばかり歩み寄る——腕の中で、狐がうなされるように身を捩った。

 

 この御狐様は相も変わらず眠っている筈で、こいつもこの異臭が苦手ってことだろう。

 

 そうは言っても、こいつだけを風上へ置いておくこともできず、急ぐことでその代わりにする他ない……起きてくれた方が好都合な気もしたが、起きたら起きたで後が怖い気もする。

 

 私は狐を腕に乗せるようにして、空いた手で小石程度のカケラを拾い上げる。見てくれはビスケットのようで、顔に近づけた分だけ甘い匂いが強くなった。

 

 それで、不用心かともよぎったが迷っている暇もない。適当に焦げていないカケラを選んで灰を払う。

 

 そして食料になりそうならありがたいと、一口だけ齧ってみた。

「……痛った」

 

 歯が砕け散るかと思った。

 

 ひとえに、この硬さは凶器でしかない。見た目こそ、童話のように優しい世界だけど、そう易々と事は進んでくれないらしい。

 

 いやはや、「こんなことなら素直に沢を目指せば良かった」なんて、悪態をつきたくもなってくる――いや、悪くない、これだけ硬ければナイフや器に使えるだろ。そんな風に自らへ言い聞かせて、散らかったカケラを踏まないように散策する。

 

 使えそうなもの。比較的平滑な、蜜柑の葉みたいな明るい色をしたクレープ。鋭く尖った、複数の層を持つ飴細工。水の汲めそうな、中身を何処かへ忘れたタルト生地。

 

 そいつらを一つ、また一つと拾い集めた。

 

 ただ、こうして積み上げるともう一つ、ちょっとした問題も浮かび上がってくる。どう見積もっても、今のままでは運べない。

 

 平常だったなら上着でも使えば済むものだ。けれども現状、その服すら脱げやしない。

 

 ともすれば、曲芸師のように積み上げて山道を歩くか。もしくは、この狐を叩き起こすしかないのだろう。

 

 右腕が疲れてきたのも相まって、その場に胡座を組んで目蓋を閉じる……これで目を覚ましたとしても不可抗力だ。

 

 それよりも考えるべきこと。もちろん、積み上げて歩くのは危なっかしくてできそうにない。都合の良い入れ物は無くとも加工すれば……片手でできるかと言えば難しい。

 

 やはり、水を掛けてでも起こすしかないか。もしくは童話であるのなら、口づけの一つでもすれば目覚めるかもしれない。

「狐と口づけ、ね」

 

 それは余りにも荒唐無稽で、思わず零れた言葉だった――ふと、右腕が軽くなる。それと、不意に物音がした。

 

 目蓋が開けば、当の狐が消えている。何があったのかと辺りを見渡してみた。

 

 右、上方、左、そして後方まで目線が流れる――そいつはさも当然のように、地面へ座り込んだこちらを見下ろすように、こちらをまじまじと覗き込んでいた……どうやら、ココの狐は二本足で立てるらしい。

 

 私はオモリから解放された右腕を、感覚を確かめるように二回、三回と回す。

 

 分からないことが何かと言えば……何もかもではあるのだが、一先ずは逃げるか、もしくは戦うか。それを決めなければならない。

 

 性格に難はあれど、その丸々とした容姿からして無害にも見える。ただ、先程のビスケットモドキを踏まえれば姿なんて当てにならない——。

「ヘェッー」

 

 反射的に身体が強張った。突然の奇声……これは狐の鳴き声らしい。その声は金属製のホイッスルよりは柔らかいくらいのもので、既知の狡猾といったイメージにはまったく似つかわしくないものだった。

 

 狐はこちらが唖然としている間にも二、三鳴いて、鳴いては止まって、止まっては鳴く。

 

 その間隔はランダムにも思えたが、そいつが人に近い立ち振る舞いをしているからか、意思を持って何かしらを伝えているようにも見えた。

「お前は、敵なのか?」

 

 自らの口元に手を添える。なんとも馬鹿馬鹿しい問いをしたものだ。

 

 けれども、狐は即答するように鳴き声をあげた。単に、私の出した音に反応しただけとも取れるが……。

「すまないけど、私にはそちらの言語を理解できない。だから肯定なら左、否定なら右へ跳ねるとかしてくれないか。あとは……何かしらのプロトコルを通したなら、」

 

 手振りを交えながら伝えると、狐はやや食い気味に左へ弾んだ。

 

 もはや何でもありなのか。何にせよ、どうやら二者択一の回答なら得られるらしい。

「答えてくれて感謝するよ、早速なんだけどここら辺に集落はないかな。恥ずかしながら遭難したみたいでね」

 

 とりあえず左へ弾むものとして問い掛ける。まさか、私と同じ境遇なわけではあるまい。何処かしらの住処から食物でも探しに出掛け、私を見つけたのだろう。

 

 しかしながら、その予想はまったくの的外れだった。

 

 そいつはまた鳴き出す。ただ先程と違って、より短い間隔で鳴いては止まってを繰り返している。その規則的な鳴き声は明瞭に、耳馴染みのあるリズムを刻んでいた。

「……モールスを知ってるのかい?」

 

 そう問うと狐は面倒そうに、でなければ哀れむみたいに身体を左へ傾けた。そして、もう一度同じように鳴きはじめる。

《ナニヲ フザケテオルノカヤ》

「いや、何もふざけてなんてない。私は飛行機乗りで、それが墜落したんだ。だから今は君みたいな【変わった狐】の手でも脚でも、大真面目に借りたいと思っている」

《コツチガ キツネニミエルノカヤ》

 

 見えるのかと言われてもね……ああ、狐という概念が共通認識ではないのだろう。それで、『コツチ』が名前……いや、「こっち」が一人称なのか。

「今のは『こっちが狐に見えるか』で合ってるかな?まあ、私の知っている動物の中では一番近いってだけだよ、忘れてくれて良い」

 

 こちらの返答に、他称狐は動きを止める。

 

 それから、静寂が気になる程度には時が流れた。意思があることを前提にすれば、少しばかり考え込んでいるのかもしれない。

 

 そして、おもむろに右へ一回傾いて、再び考え込むように固まった……今回は四十秒、五十秒、一分が過ぎても戻ってこない。

 

 もしかすれば、また寝入ってしまったのか。眠ったまま人の腕を掴んでいられるなら、立ったまま眠れてもおかしくはない。

 

 だったなら、今度は首にでも巻いて運ぶか。それもまた暑苦しそうだ——。

《シバシマタレヨ》

「……ああ、待つのは良いけれど、」

 

 すーっと、身体の芯が冷たくなった。その場に居ると分かっていても突然鳴かれては心臓に悪い。

 

 と、そんなこちらを露知らず、狐は迷う素振りも見せずに背を向け駆けてゆく、そのまま草本の雲海へと姿をくらました。

 

 どうやら……失敗してしまったらしい。

 

 逃げられるほど変なことを言ったつもりはないけれど、気分を害してしまったのだろう。

 

 どうすれば良かったのかと、空を仰ぐ。

 

 方向性は合っていただろう。相手の目から、私がどう見えていたのか。ただ、上手く使えたためしがない。

 

 いっそ「私と相手がズレていた」その一点に全ての原因を擦りつけてしまおうか。特に今回なんて、その最たる例じゃないか。

 

 まあ、そんな自己満足の性格診断に浸っていても仕方がない。私は両手をついて立ち上がる……その感触すら、なんだか久しぶりに思えて右手を靡かせた――。

「つーつーつーつー、つっつーつーつっ、つっつっつーつっ、」

 

 私が向き直るが早いか、前方から声が聞こえた。そう、これは紛れもなく人の声だ。

 

 だんだんと、その声は近づいてくる。見え隠れしながら、紅と白の衣が浮き上がってくる……飼い主だろうか。

 

 それは少女だった。

 

 その背丈は容姿に相応な、私の肩よりいくらか低いくらいであって、紛れもなくヒトガタだ……畏怖を植え付けるような線が通った出で立ちに、長く透き通った白銀の髪、全てを見通すような深緑の瞳をした少女。

 

 その服装から巫女の類とも取れるけど、むしろその手本になったような実在がそこにはあった。

「つーつっつっつっ、つっつっつーつっつっ、つっつっつー、」

 

 だというのに、口を尖らせながら一生懸命にモールスを奏でている。

 

 何というか、まるでシュールをありのまま絵に起こしたようだ。

「いや、待って欲しい、普通に話せるだろ」

 

 彼女はいくらか、驚きとも喜びともつかない顔をした。それから一つ咳払いすると、何事もなかったように発話する。

「あ、あー……なるほどの。この姿が人間に見えているのかや?」

「そりゃあそうだ。ためしに自分の手なり足なり見たら良い」

「う、うむ。たしかに、そうじゃな」

 

 何を狼狽することがあるのだろう——いや、その急いだ戻りを踏まえれば、らしい振る舞いとも言えるのか。

「それで、君は先ほどの……かわいらしい動物で、今はヒトなのかな」

 

 こちらの問いに彼女は顔を俯かせる。頭へ片手を添えながら一言、二言くらい口が動く。何と言ったのか、母音を拾ったところで分からない。

 

 単に言葉を選んでいるのか。もしくは今更なかった事として、例えば「今来たばかりの別人」なんて語り出すつもりなのか……それなら、夏祭りでも楽しむように狐の面を飾り着けもしないだろう。

 

 悩む癖も狐に通じるものであるけれど、彼女はいくらかの沈黙に続いて顔をあげる。

 

 その印象は再びスイッチが切り替わったようで、いつかにブラウン管を通して見た白黒の光景、こちらへ向けて帽子を振っていた人々を思い起こさせるような寒々しいものだった。

 

 彼女は、すーっと遥か遠くを見据えた眼をして、口を開く。

「そうじゃな。正しくは、何れも一時の姿でしかありはせぬがの。見ての通り、こっちは由緒正しき化け狐であるがゆえ」

「……そうかい、これは失礼したね」

 

 背筋から、冷めた水滴が伝ったような名状しがたい感覚がする。

 

 こんな童話みたいな世界であっても、それは明らかにズレている。いや、その場所が天国でも地獄でも、この少女の姿をしたモノは【外れた存在】なのだろう。

 

 だからこそ一つ、辻褄が合った。

「それなら、この幻術をかけているのは君なのかな」

「幻術とな?いやはや、それは行き過ぎた早とちりに過ぎん、こっちにそんなもの使えやせんよ。そもそも、そんな無意味なことをしてなんになるのじゃ」

「はははっ、妖怪の類なんて無意味に化かすのが生業だろう」

「いやはや、随分と冷たい物言いじゃのー。こっちは悲しみに打ちひしがれて今にも泣き出してしまいそうじゃ」

「そうかい、失礼したよ。当人の前で噂話なんて宛てにすべきじゃないね」

 

 こちらも努めて平静を装う。

 

 そいつの軽口すら、反って先の見えないトンネルのように思える……混じり気の無いの化け物だ。

「けれど、君が無関係だとしたら。このヘンテコな世界が幻覚でないなら、ココは、」

「まあまあ、落ち着くのじゃ。どーせ、根掘り葉掘りと質問責めにでもするんじゃろ?さすればこんな所で立ち話をしても仕方ないであろーに——ついてくるがよい。近くに適当な社があるからの。茶菓子の一つでも齧りながらまったり話したとて、罰の一つも当たらんじゃろうよ」

「なるほど、それもそうだ——」

 

 だと言うのに、そんな理性と矛盾して愛着にも似た感覚を持ってしまうこともまた事実だった。

 

 それは、この化け物が理不尽なまでに親しげに振る舞うからか……いや、違う気がする。

 

 この感覚は、元より彼女を知っていたようなニュアンスであって。けれど、知っていると言うには些か朧げな「夢で見た、ある筈の無い影法師」のように遠く淡いイメージでしかない。

 

 ココではない何処か、今ではない何時か。分からない、だからこそ——。

「ていっ!」

 

 掛け声が聞こえるや否や、地面を蹴るような音がした。少し遅れて、脳天からも鈍い音が響く。

 

 ぼやけていた視界に意識が移って、鮮明になり、焦点が定まった。

 

 そこでは化け狐が、吹けもしない口笛をか細く鳴らしながら、後ろ手に回して顔を背けている。どうやら、その中身が同一なだけあって考えが行動へと直結するらしい。

 

 そちらから見れば単なる戯だろうけど、今朝の頭痛が振り返したらどうしてくれる……そんな抗議の念もあれど、火種はこちらなのだと押し留めた。

 

 そんなこんな思考を巡らせて、チョップされた頭頂部も冷えてくれば、その珍妙な口笛も鳴り止んだ。どうやら切りの良いところまで吹き終わったらしい。

「いや、当たるとは思わんかったのじゃが——」

 

 彼女は取って付けたような弁明を前置きすると、そこが舞台上かのように小芝居を交えながら続ける。

「坊も悪いんじゃぞ?まさか『都合が悪くなったから聞き取れない』って訳ではないであろう?たしかに右も左も分からぬゆえ、致し方ないところもあるじゃろうし……もしかすればこっちと共に行きたくないのかも知れぬ。されども口に出さねば何も分からぬではないか」

「すまない、こちらが悪かった。少しばかり考え事をしていたんだ」

「うむ、いやはやまったくじゃ。坊はまいぺーすというかのー、はじめっからゆえな。今更直せと言ってどうなるものでもないのであろう。されとて、せめて時と場所くらいは弁えて欲しいものじゃな」

「ああ、努力する」

 

 記憶にも、記録にも居る筈のない知人。そんな作り話もいくつか思い当たる。

 

 どうやら、この『知っていた』という印象はまるで出鱈目というわけでもないらしい……ただ、その二人称で呼ばれる所以は一切無いと思うけど。

「ところで、その『坊』ってのは何かな?」

「はて?坊は坊じゃろ」

「いや、そんな顔をされても……まあ、自由と言えば自由か」

「なあ、はよ行くぞ?こんなことでは一里行くに、何千日とあっても足らんじゃろ」

「ごもっともだ。先を急ごう」

 

 右の手首が掴まれる。それから、良い加減にしろと言わんばかりに締め上げられた——いや、少し被害妄想が過ぎたか。

 

 彼女の表情はむしろ涼しげであって、その華奢な身体と不釣り合いなバカ力から言えば案外触れただけとも見える。

「無駄な考え事なんてせんで、アヒルの子どもよろしくしていればよい。山においても足元こそが肝心じゃからな」

「ああ、肝心だ、まったくもってその通り」

 

 化け狐は満足そうに口角を上げている。その意図は汲み取れないけれど、こちらの指先から血の気が失せていくことは確かだった。

 

 私はいくらか思案したものの、ヘタな自尊心と折り合いをつけるように、彼女の手ごと首元へ引き上げる。

「……この手を離してくれないかな」

「ん?どうしてそんな寂しいことを言うのじゃ」

「どうにも首元の辺りが気になるんだ」

 

 顎を上げて強調する。

「なら、そっちを使えばよいであろ?そんな阿呆を言ってないで仲睦まじく行こうではないか」

「なるほど、たしかに」

 

 仕方なしに、浮き出た血管を隠すように手を下ろす。

 

 たしかに一理ある。だからと言って、はいそうですかと受け入れるわけにもいかないけれど。

「なら、それは良い。けれど、いざという時に手を使えないのはよろしくないだろ」

「大丈夫じゃ、こう見えて運動神経には自信があるからの。坊が無様に転げようとも容易く支えてやれるわ」

「……だったら手首でなく手を繋ごう、なんせ君にとっては旧知の仲なんだから」

 

 距離感を探りながら食い下がると、図らずも少女の手が離れた……何故かは分からない。

 

 私の目は独りでに離れゆく小さな手を追っていて、それはゆっくりと、どこか物惜しそうに映る。

「そうであったな。あくまで『こっちにとっては』じゃの」

「いや、すまない、あくまで今の話だよ。例えば、そう、昔話の一つや二つもすれば思い出せるかもしれない」

「……まあまあ、よいわ。それもまとめて話すかの」

 

 そう自らへ言い聞かせるように零すと、少女は回るようにそっぽを向く。

 

 たぶん、解放された手首がかえって火照るからだろう。彼女の仕草へ巻き取られるように、その背中へと声をかけていた。

「分かった、そうしよう。後で嫌というほど聞くことにするよ」

「うむ、もちろんじゃ」

 

 一拍おいて、彼女はもう半回転するようにこちらへ向きなおる。

 

 それで、ちょうど今しがた思い出したように続けた。

「そーいえば集めていた残骸があったの、こっちが持ってもよいんじゃが」

「いや、このくらいは自分で持つよ。君みたいな子どもに持たせるなんて可笑しな話だ」

 

 そして、全ては気のせいだったんだと言うように目を細めながら応える。

「うーむ。その志はよいが、それは見てくれだけの話じゃぞ?」

 

 私からそちらへ向けて、手を翳すようにジェスチャーを送る。

 

 まったくもって掴みどころのない。まるで「どこからが朝なのか」等と問われているみたいだった……この昼下がりのような世界で言えば、あの狐はいつから起きていたのだろう。

 

 辺りの可笑しな様相に当てられたのか。そんな考えを浮かべながら、五、六歩後方にあったカケラ達へと歩み寄る。

 

 何のことはない。両手さえ空いていれば他愛のない作業で、寄せ集めたカケラ達は高々二十秒ほどで上着に包まれた。

 

 ただその途中、一つ憂慮すべき事柄に気が付いた。

 

 そいつを消えない程度に片隅へ置きながら、膨らんだ上着を肩に掛ける。

「すまない、待たせた」

「ん?大して待ってはせんが……そう思ったなら詫びとしてこっちと手を繋いでくれるかえ?」

「問題ないよ、精々焼き立てのパンでも手に取るように握ると良い」

 

 彼女は苦笑いを浮かべるわけでもなく、下から添えるように手を伸ばしてくる。

 

 あらためてその仕草を観察する。そいつはこちらが手を取ろうとしないことに気づいたのか、その視線を上げた……やはり演じているような、何かを隠すようなわざとらしさは拭えない。

「まあ、交換条件ってわけでもないけれど、一つ簡単な質問に答えて欲しいかな」

「……こっちは選択肢のない質問が嫌いじゃ」

 

 だから、元より何者を信用するつもりのない私にとって、折り合いを付けるとすれば「この辺り」なのだろう。つまりは、この狐に化かされてやったとしても面白いかもしれない、そんなところだ。

 

 これは「何様のつもりか」等と、言い出したら切りがないほどの暴論だ。けれどもなんであれ、やっと一つだけ歩みが進む。

 

 思えば、どうして今まで浮かばなかったのだろう。それは最初にすべき当たり前の質問だった。

「——私は君を、なんて呼べば良いんだ?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る