18 佐久間 朝

 スーパーマーケットが好きだ。

 スーパーマーケットでカゴに入れていくもの、それは生活だ。これから食べるもの、飲むもの、使うもの。生活そのものがこのカゴに選択されていく。節約しているときは特売品、自分にご褒美をしたいときは少し高めのチョコレート、時には辛いことから逃げるためのお酒かもしれない。このカゴに入っていくものは、生活そのものだ。


 自分の大切な人を思いながらの買い物というのは特別なものだ。野菜を多めにしようとか、好き嫌いがあるかとか、果物やプリンも買ってあげようかとか、ただ相手のことを思い、大切に思う人の生活を、今僕が選択している。それは、とても特別で心安らぐ行為だ。


 タイムズスーパーは、いわゆる普通のスーパーマーケット。蛍光灯の明るい店内。クラシックのBGMが流れているのに、それをかき消すように特売品のアナウンスや、商品のCMソングがあちこちから溢れてくる。それに加え、お菓子をねだる子供の声や叱る母親の声、「安いよ~」などという鮮魚コーナーの店員の大声。


 人生の中の一部。それぞれの生活が作られていく場所。僕はスーパーマーケットに来ると、ここにいるみんながそれぞれの場所で生きているんだな、と感じることができて、穏やかな気持ちになる。


 そんなスーパーマーケット、今日は一人でショッピングカートを押しながら、好きな人の生活をカゴに入れていく。今までにないほどの、穏やかな気持ち。僕は好きな人を想うとき、情熱でも熱烈でもなく、こんなに穏やかで優しい気持ちになることを、今改めて実感している。


 今朝の小夜さんの電話には驚いた。

 確かに僕は昨日振られたばかりだ。だから、電話が来たときは正直、何の用事なのか見当もつかなかった。何か忘れものでもしたかな? そんな的外れなことを思ったりした。まさか、小夜さんが高熱を出してしまっているなんて、思ってもみなかったから驚いたし、とにかく心配した。小夜さんに言われるまで、いわゆる気まずい関係であることなんて忘れてしまっていたくらいだ。


 それに加えて、小夜さんは「誰かに頼ろうと思ったとき、佐久間くんの顔が浮かんだ」と言ってくれた。僕はもう期待はしない。でも、恵さんに言われた通り、小夜さんがそばにいてほしいときだけでも、ただそばにいようと思う。自分の想いが届くとか届かないとか、そんなこと関係なく、小夜さんが誰かと一緒にいたいとき、僕がそばにいられればいい。そう思うと、小夜さんの過去なんてどうでもよくなるから不思議だ。やっぱり恵さんに相談に行って良かった。


 一通り、買い物を済ませ、自転車で小夜さんの家に向かう。


 ドアチャイムを鳴らすと、スウェットのまま、すっぴんの小夜さんが出てきた。


「あぁ、佐久間くん、本当にごめんね」

「大丈夫ですか?」

「うん、解熱剤飲んで、なんとか熱は下がってる」

「飲み物とか買ってきましたよ」

「ありがとう。いくらかかった?」

「お金はいいですよ、お見舞いなんで」

「いや、悪いよ」

「そんなことより、寝てていいですよ。おじやで良ければ作りますから」

「え? 何言ってんの。風邪うつるから、お茶だけ出すけど、そしたら帰りなって」


 言いながら小夜さんはゲホゲホと咳き込む。


「ほら、寝ててくださいって」


 僕は部屋にあがる。

「キッチン借りますよ。せっかく『困ったときの僕』が来たんですから、小夜さんは寝ててください」と言うと、小夜さんはふっと小さく笑って、「じゃ、お願いしちゃおうかな」と言い、のそのそとベッドに向かい布団に潜りこんだ。


「佐久間くん、料理できるの?」


 ベッドから小さな声。


「まあ、一応、独り暮らしなんで、あんまりやらないですけど、たまに自炊しますよ」

「そうなんだ。知らなかった」

「熱出ると食欲出ないじゃないですか。そういうときに、母親がよく野菜いっぱい入れた中華粥作ってくれたんですよ。中華スープの素で作るおじやみたいなもんです」

「美味しそうだね」

「作るんで、食べてから感想教えてください」

「うん、ありがとう」


 今日の小夜さんはずいぶん素直だな、と思う。


「ありがとう……おいしい」


 できあがった中華粥をひとくち食べて、小夜さんはふにゃっと笑った。腫れぼったい顔、ぼさぼさの髪、熱っぽくうるんだ目、かさついた唇、いつもの小夜さんと全然違って、そこには、四十年生きてきた生身の小夜さんがいた。それは今まで見た小夜さんの中で、圧倒的にきれいで、圧倒的に愛しかった。いったいどうして、一瞬でもこの人を諦めようと思えたんだろう、と自分で驚く。いったいどうやって、この人を忘れられると思えたんだろう。


 散らかった部屋、趣味のよくわからないインテリア、本棚からあふれる本と漫画。ただこの人のためだけに、この人との「今」だけのために、生きればいいじゃないか。恋人を癒し、なだめるために歌ったというセレナーデ。この人にセレナーデを歌えるのは、きっと僕だけだ。


「ねぇ、佐久間くん」

「はい」

「昨日の話だけど」


 小夜さんの声は鼻声で、かすれている。


「なんですか」


 珍しくもじもじしている。


「その、昨日の返事のことなんだけど、昨日は断っちゃったんだけどさ、実は、もう少し、保留にしてくれないかな、と思って」

「え、保留ですか」

「うん。保留。なんていうか、その、私、佐久間くんと一緒にいると、とても気持ちが落ち着くの。これって、私も、佐久間くんのこと、好きってことなのかもしれないって、昨日帰ってから思って」

「え! 本当ですか!」


 驚いた。


「うん……困る?」


 そう言って僕を見る小夜さんは本当に可愛らしくて、あまりにも愛おしくて、思わず僕は近づいて横からそっと抱きしめた。


「ちょ、佐久間くん」

「すいません。でも、ちょっとだけ、こうさせていて下さい」


 驚いて体を硬くしていた小夜さんが、すっと力を抜いて、僕にもたれかかってきた。


「佐久間くん、昨日はごめんね。今からでも、間に合う?」


 小夜さんが囁くような声でつぶやく。


「もちろんです。間に合います。僕は、ただそばにいるって決めたんです」

「ただそばに? 何それ?」

「いいんです。小夜さんは知らなくて。僕だけの決心なので」


 小夜さんはふふふっと笑って、鼻声で「ありがとう」と小さな声で言った。


「でも、あんまりくっつくと、風邪うつるよ」


 そう言って僕から離れようとするから「小夜さんからうつる風邪ならいくらでももらいます」と言ってまた小夜さんを抱きしめた。離さない。この人を僕は離さない。


 ただそばにいて、少しでも小夜さんの気持ちが落ち着くなら、なんて素晴らしい。


「ねえ、ただそばにいるって言いながら抱きしめるのって、矛盾してない?」


 と言いながら小夜さんが笑うから、僕は少し体を離して目を合わせて「そうですね」と言って微笑み合ってから、また世界で一番好きな人を抱きしめた。


『僕の歌は夜の中を抜け、あなたへひっそりと訴えかける、静かな森の中へ降りておいで、恋人よ、僕のもとへ、僕はあなたを待ちわびている、来て、僕のもとへ、僕を幸せにして』


 心の中でシューベルトのセレナーデがリフレインしている。僕と小夜さんの、穏やかな「今」のために。




おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る