17 小夜 朝

 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。朝になっていた。雨はあがったようで、窓から冬の冷たい光が差し込んでいる。


 携帯電話を握りしめて、泣いていたことは覚えている。そして、まったく馬鹿らしいことに、目が覚めて、冷静になった今でもなお、携帯電話に何の連絡も入っていないことに落ち込んでいる自分がいる。振ったのは自分なのに、馬鹿みたい。


 布団の足元でポットが丸くなっている。今朝はなんだかとてつもなく寒い。寝汗をかいたのか、肌着が湿っていて冷たい。体を起こそうとすると、ぐらっと眩暈がした。おかしい。肌の表面がぴりぴりする。頭も痛い。なんか体調が悪い。明らかに体調がおかしい。息が熱い。


 熱があるのかな、と思い、揺れる体でどうにか洗面所へ行き、引き出しから体温計を探す。脇にはさんで、アラームが鳴るまでずいぶん長い。


 ──ピピピピ。ようやく鳴る。38.9℃。


「……うそでしょ」


 体中が重くて痛くて、悲しくなった。昨日、雨に濡れたままシャワーだけで眠ってしまったから風邪をひいたのか。確かに昨日の雨は冷たかった。でも、38.9℃って。仕事が休みで本当に良かった。


 昨日ほとんど何も食べずに眠ってしまったから空腹なはずなのに、お腹もすかない。スポーツドリンクかゼリーでもあればいいのに、と冷蔵庫をのぞくが、見事なまでに何もない。


 おじやを作るにも、卵もなければ野菜も全然ない。かろうじて、冷凍保存してあるご飯が一膳分。ため息が出る。これだけじゃどうしようもない。


 寝汗で冷えた肌着を着替える。この体調を我慢してまで買い物に行く元気はない。立っているのも辛くなって、とりあえずベッドに戻った。

 布団に潜っていても寒い。高熱なのに氷枕もアイスノンもない。まったく、看護師の不養生だ。


 携帯電話を見つめる。今、助けてほしい相手を考えると、どうしても佐久間くんの顔が浮かんでしまう。


 私は、昨日振った瞬間にもう後悔していたのだ。でも、そのことに気付くのが、遅かった。遅すぎた。私はもう、佐久間くんの好意を断った。はっきりと振ったのだ。今更、やっぱりもう少し考えさせてほしいなんて、言えない。それこそ都合が良すぎる。


 でも、と、ぼーっとする頭で考える。でも、今みたいな、自分が弱っている状況で、頼りたい、甘えたい、と思える相手がいることは、とても大切なことなんじゃないかと思う。私は五年前に離婚してから、誰かに頼ろうとしたことはなかった。陽菜も恵もとても優しくていつも支えてくれたけれど、甘やかしてほしいと思ったことはない。でも今もし佐久間くんが来てくれて、アイスノンやスポーツドリンクを買ってきてくれたら、私はきっと穏やかな気持ちで安心して休めるだろう。それは、好きという気持ちとは違うのか?


 なんたる甘えた考え。ひどい女。懲りないやつ。わかっている。でも、もう一度だけ、誰かのそばにいて落ち着く気持ちを味わいたい。もう一度だけ、私は誰かを好きになってみてもいいんじゃないの。あんなに泣くほど恋しい相手だったことに気付けたなら、この気持ちに素直になってみてもいいんじゃないか。まっすぐに気持ちをぶつけてくれた佐久間くん。私はその気持ちに応えられるのかな。目を覚ましたポットがのそのそと布団の上を歩いて私の顔を見に来た。


「おはよう、ポット。ねぇ、どう思う?」


 ポットはグルグルと喉を鳴らし、頭をこすりつけて甘えてくる。こんな風に、惜しみなく甘えられたら。私はもっと素直になれるのだろうか。


 横になったまま携帯電話を持つ。緊張する。信じられないくらい緊張する。受け入れてもらえないかもしれない。そしたら、そこでもう一回傷付けばいい。傷付くことなんて、もう五年前にしっかり経験したじゃないか。


 佐久間くんの電話番号を表示して、一度息を吸ってから、通話ボタンを押した。


 コール3回。


「はい」

「あ……佐久間くん?」

「小夜さん? おはようございます! 朝からどうしたんですか?」


 涙が出そうなのを堪える。今まで以上にいつも通りの、元気な佐久間くん。私が昨日振ったのに、失恋したばかりなのに、その相手からの電話なのに、どうしてこの人はこんなに優しいんだろう。


「もしもし? 小夜さん? どうしたんですか? 今日休みですよね」

「あ、うん、そうなんだ。佐久間くんは?」

「僕は遅番なので、午後からですよ」

「あ、ごめん、じゃまだ寝てたね」

「いや、大丈夫ですよ、っていうか、小夜さん鼻声ですね。大丈夫ですか?」


 こうやって気付いてくれるところに、私は甘えているんだ。そして、今はこの優しさに甘えたい。


「そうなの。実は、熱出ちゃって」

「え! 大丈夫ですか? 何度くらいあるんですか?」

「それが39℃くらいあって」

「えー! 大変じゃないですか」

「そうなの。だから、その、ちょっとしんどくて、それで、佐久間くんに電話しちゃったんだ」


 一瞬の沈黙。やっぱり引かれたか。そりゃそうか。


「ごめん、何でもない」

「え、いや、しんどくて僕に電話してきてくれたんですか?」

「うん。心細くなっちゃって。でも、ごめん、やっぱり何でもないよ」

「何でもなくないですよ! 僕今めっちゃ喜んでるんですよ」

「え?」

「だって、小夜さんが僕を頼ってくれたの、初めてですから」

「……ごめん。誰に頼ろうかって考えたとき、佐久間くんの顔しか浮かばなかった」

「うわー嬉しいこと言ってくれますね」

「でもさ、その、昨日の今日だから、嫌がられるかと思って」

「え、何でですか?」

「だって、私、佐久間くんのこと振ったから、気まずいっていうか」

「あぁ、でも、電話してきてくれたじゃないですか。嬉しいですよ、素直に」

「ありがとう」

「こっちこそ、ありがとうです。飲み物とか買ってお見舞い行きますよ、欲しいものメールしてください」

「……ありがとう」


 声が小さくなった。人に優しくしてもらえることは、本当に貴重だ。私はこの貴重な相手を、失わずに済むだろうか。来てくれたらちゃんと自分の言葉で、自分の気持ちを伝えて、まだ間に合うのか、怖がらずに聞かなければいけない。


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