16 佐久間 雨

 雨に降られて髪も服も濡れて、うつむいて突っ立っている僕を恵さんは家にあげてくれた。「どうしたの、こんな時間に。とりあえず、あがって」


「すいません」


 リビングに入ると恵さんの旦那さんがスウェット姿でソファでくつろいでいた。娘さんはもう寝ているらしい。


「おお、佐久間くん、どうしたの、何かあったの」

「すいません」


 僕は、情けなくて仕方なかった。


「とりあえず、体拭いて、座って」

「すいません」


 すいませんしか言えない。

 恵さんがタオルを持ってきてくれて、僕はその柔軟剤の香りのする柔らかいタオルで、顔や髪や服を拭かせてもらって、ソファでくつろぐ旦那さんの隣に座った。「飲む?」と言われたグラスにはお酒が入っているようだが、断った。酔っぱらってしまったら、何を言ってしまうかわからない。


 恵さんが熱い紅茶を淹れてくれたので、ひとくち飲んで、長い溜息をついた。


「どうしたの、小夜と何かあったの?」


 膝の上で握った手に力が入る。


「告白、したんです、小夜さんに」


 恵さんと旦那さんは、二人同時に同じ表情で驚いて見せた。夫婦というのは、やっぱり似てくるものなのだな、とこんなときなのに思ったりもした。僕と小夜さんは、たしかに、どこも似ていない。


「振られました。少しは脈があるんじゃないかと思っていたんです。でも、全然だめでした。小夜さんは、その、小夜さんは……過去に、結婚していたことがあるんですか?」


 恵さんは旦那さんと顔を見合わせてから、小さくため息をついた。


「いくら友達でも、人の過去のことは勝手に言えないわ。本人に聞くべきじゃないの?」


 優しく恵さんは言う。


「そうですよね」


 そりゃそうだ、と納得する。どうしてこんな非常識な時間に突然押しかけてしまったんだろう。ひどくみじめに思えた。でも、誰かに聞いてもらいたかった。そして、小夜さんのことを、教えてもらいたかった。


「僕の告白を断るとき、小夜さん、『もう』結婚はしない、って言ったんです。それって、一度は結婚していたってことですよね。一緒に食事したり、公園を散歩したりして、いろんな話してたつもりでいたんです。職場で見せない少し無邪気な小夜さんも知っていて、僕は自分が少し特別な気分でいたんです。でも、思い返してみると、小夜さんって、昔のこと何も話していないんです」


 温かい紅茶をまた一口飲む。


「僕はバツイチなんて全然気にしないんです。結婚していたことがあるっていう事実がショックだったんじゃなくて、僕は小夜さんのこと、何も知らなかったんだな、と思って。小夜さんは、僕に、何も教えてくれてなかったんだな、と思って。そのことに、とても落ち込んでしまって」

「それで、雨の中、うちまで歩いてきたわけ?」

「はい。すいません。何も考えられなくなってしまって。前に、小夜さんが、僕と一緒にいると気持ちが落ち着くって言ってくれたんです。楽しいでもおもしろいでもなく、落ち着く、です。そう言ってくれたことが、僕は本当に嬉しかったんです」


 自分の心を支えていた根拠も、今となっては、ひとりよがりなエゴに思えた。


「でも、小夜さんが過去の誰かとの恋を、その結婚していた人との気持ちを引きずっているのなら、僕は小夜さんを諦めなきゃいけないのかな、と思って」


 僕の話を静かに聞いていた恵さんは小さくため息をついた。


「ねぇ、佐久間くん、小夜の過去がそんなに大事?」


 恵さんは穏やかに話し出した。


「四十年も生きてくればさ、そりゃ、親しい人にだって言いたくない出来事の一つや二つあるものよ。四十年も生きてきて、一晩中泣いても気持ちがどうしようも整理できそうにないくらい辛いことが、一つもない人なんていると思う? その、一つ一つ全てを知らないとダメなの?」


 僕は考えてみる。小夜さんにも、一晩中泣いても気持ちが整理できそうにない夜が、あるのだろうか。


「そんな風に、小夜の過去に戦いを挑むような、なんていうか、過去を全て清算してやる! みたいな考えでいるのって、どうなのかな。過去はもう永遠に過去だから消えないんだよ。消えないけど、もう決しても巡ってこない。だから、小夜の過去は過去でそっとしておいて、その過去を持ったままの、ありのままの小夜の、ただそばにいてあげるってことはできないの?」

「ただそばに?」

「そう。ただそばに。あの、寂しがりで強がりの小夜のそばに。ただいてあげてほしい」


 それを聞いた旦那さんが笑った。


「おいおい、それは小夜ちゃんに甘すぎないか? 俺は佐久間くんの気持ちもわかるよ」


 そう言いながら旦那さんも「まあ、小夜ちゃんはあぁ見えて甘えん坊だからね」とグラスに口をつけた。


「ただ、そばに」


 僕はその言葉の意味を繰り返し考えた。僕はどうしたかったんだろう。

 僕が受け入れてもらえないのは、小夜さんの過去に何かあったせいだと決めつけて、その過去を清算すれば、僕はまっさらな小夜さんと恋ができると思っていた。でも、過去に何かあったせいだ、なんて、おかしな話だ。生きていれば毎日が、大きな小さな「何か」の積み重ね。一瞬一瞬の「何か」の積み重ねで今があるのだ。もう巡ってこない過去の「何か」。それらがなかったら、今もない。今の僕もいないし、今の小夜さんもいない。


「とにかく、今日はもう帰って、ゆっくり休みなさい。一晩ちゃんと寝て、少し冷静になってから、またゆっくり考えたほうがいいわ」

「ありがとうございます。僕、小夜さんのこと、ちゃんと考えられてなかったのかもしれません。人を好きになることって、難しいですね」

「ふふふ。そんなに思いつめないの。それに、そんなに難しいことじゃないわ」


 そう言って恵さんは僕の肩に手を置いて「小夜のこと、よろしくね」と言った。


 僕は曖昧に返事をして、まだ少し湿っているコートを着て、傘を借りて帰った。


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