15 小夜 新年

 行くところがあるという佐久間くんと神社で別れて、一人で電車に乗って、一人で駅に降りて、一人で歩き出した。しっぽの長いきれいな三毛猫がいて、思わず携帯電話で写真を撮る。佐久間くんに知らせようと思ってしまってから、何をしているんだ、と自制し、のろのろと携帯電話をバックに戻した。気温が低く、手袋越しに指が冷える。ダウンコートを着てきたけれど、風が冷たく湿っていて寒い。雨になりそうだ。


 駅から家まで半分くらい歩いた時、案の定雨が降り出した。駅まで引き返して傘を買う気が起きない。少しずつ雨脚は強まってきた。


 仕方ない。ひとつため息をついて、バックを抱え、走った。はねた水でブーツが汚れる。

 家に着くころには土砂降りになった。コートは重く冷え、髪からしずくが伝って首に入り込む。寒い。玄関まで出迎えてくれたポットが、私から滴る雨水に少し怯んでいる。


「ごめんね、びしょびしょだから抱っこできないよ」


 中まで水の染みたブーツも、びしょびしょの靴下も、重くなったコートも玄関で脱ぎ、脱衣所で全裸になり、そのまま熱いシャワーを浴びる。


 立ったまま顔に熱いシャワーを浴びる。あーもういやだ。この憂鬱な気分は何事だろう。


 佐久間くんが私を好きだったのは本当だった。恵や陽菜の言う通り、本当だった。でも私は佐久間くんの気持ちには応えられない。だから、振った。それだけのことじゃないか。

 冷えた体がシャワーで温められていく。佐久間くんはもう家に帰ったのだろうか。


 髪を乾かし、温かいミルクティを淹れ、ソファに座るとため息が出た。なんだか疲れた。すり寄ってくるポットに改めてただいまを言い、抱き寄せて毛をもじゃもじゃにして撫でる。


「ポットー。これでよかったんだよね……」


 膝の上でグルグル喉を鳴らすポットは、その姿勢のまま顔を伸ばして私の顎を舐めた。後悔はしていない。そう言い聞かせる。これで良かったんだ。


 ベッドに入っても眠れそうにない。


 携帯電話を眺める。何の連絡も入っていないことに傷付く自分がいる。何を待っているの、私は。誰からの連絡を待っているの。


 今日撮影した三毛猫の写真を見る。共有する相手がいない。誰と共有したいの。三毛猫の写真、誰に見せたいの? 恵? 陽菜? そうじゃなかったら、誰?


 佐久間くんに会いたい。


 唐突に感情がこみ上げた。信じられない。馬鹿らしい。恥ずかしい。佐久間くんに会いたい? なんで? わからない。わからないけれど、佐久間くんに会いたくて涙が出てきた。


 私を好きだと言ってくれたときの真剣な顔。いつも隣で笑わせてくれた、優しい声。お好み焼きをひっくり返すのが上手で、よく食べて、真面目に働く好青年。


 困ったときの佐久間くんは、困ったとき「だけ」の佐久間くんだと思っていた。でも、もしかしたら、困ったときも、寂しいときも、驚いたときも、嬉しいときも、いつでもそばにいてほしい佐久間くんだったのではないか。私は、あの笑顔にどれだけ救われたか。煙草やめたほうがいいですよ、といつも私を心配してくれて、そのくせいつも喫煙所にやってきて、にこにこ喋ってくれる。佐久間くん。


 一緒にいると落ち着くと思っていた。落ち着くというのは、恋愛とは別の感情だと思っていた。でも、セレナーデは熱烈な激しい曲じゃない。気持ちを落ち着かせる、なだめてくれる愛の歌。

 本当にどうしてなんだろう。涙が出てくる。もう二度と誰かを恋しく思うことはやめようと決めたのに。どうしてこうやって、特定の誰かに会いたいという気持ちが沸き出てきてしまうんだろう。頬を伝う涙を手でぬぐう。誰かに会いたい、と思ってしまう自分が情けない。もう会いたいなんて感情は持ちたくなかった。会いたい人に会えないことが、どれほどつらいか、私は知っているじゃないか。会いたければ会いたいほど、会えないときが悲しいんだ。会いたい相手が、ほかの誰かと一緒にいるという事実に、どれほど傷付いてきたんだ。それなのに、私はまた懲りもせず、佐久間くんに会いたい。本当に馬鹿じゃないの。泣いても泣いても答えは出ない。自分で決めるしかないんだ。


「小夜は、一人でも大丈夫でしょ」


 またあの声が聞こえてくる。結局、五年前の呪縛からは逃れられないのだ。苦しいような悲しいような、惨めな気持ちで、逃れられないならいっそのこと全てを思い出して、悲嘆に暮れるのもいいかもしれない、と抵抗を諦めた。


 春だった。桜が満開の、四月上旬。夫は、薄いブルーのシャツを着ていた。結婚して、三年だった。夫は、マンション前の公園に咲いている桜を窓から眺めている私の背中に「離婚してくれ」と言った。え、と振り返った私は、本当にまぬけな顔をしていたと思う。私は、おめでたいことに、本当に何の予兆も感じていなかったのだ。夫に言われたことを、理解するのに時間がかかった。


 突然切り出された別れと、その理由を、窓から注ぐ平和な温かい日差しの中で聞いた。


「どうして?」と聞くと夫は、まるで当たり前のように「付き合ってる人に子供ができた」と言った。何を言われたのか、わからなかった。


 確かに私たち夫婦に子供はいなかった。でも、私はそれでもいいと思っていた。でも夫には恋人がいて、しかもその恋人は、妊娠しているのだという。


「僕には、彼女と、産まれてくる子供を守る責任があるんだ」


 そして言われたのだ。


「小夜は、一人でも大丈夫でしょ」


 家の窓から、桜の花びらが飛んできた。


 私はあの日から今日まで、大丈夫だったことなど、一瞬もない。


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