11 小夜 晩秋
十一月に入って、職場の夏季休暇をとった。だからって、別にどこにも行かない。ポットがいるから旅行は行けないし、ポットがいなくても、旅行に行く気分でもない。
ただぼんやりと一週間過ごせばいいだけだ。陽菜と過ごせる時間が増えるのは嬉しいことかもしれない。数少ない独身の友達(中学生だから当たり前だけれど)の存在は、やはり大きい。
二本目の煙草を携帯灰皿に捨てて、すぐに三本目に火をつける。
陽が暖かく、コートがいらない。陽菜も、着てきた紺のダッフルコートをベンチの背中にかけて、セーターとジーンズ姿でハトにパン屑をあげている。空気の間延びした午後。花壇で子供と父親らしき男性が花を見ている。指に挟んだメンソールは、どんなときでも私の肺を薄藍に染めてくれる。
どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
「佐久間くんと一緒にいると気持ちが落ち着く」
あの時、自分で口に出してから、一瞬で後悔した。恵や陽菜が言うように、佐久間くんが私に好意を持っているとしたら、なんて軽率な発言だったんだろう。しかも、セレナーデなんて、意味深げな選曲のお土産まで受け取っておいて。
「サヨちゃんは何もわかってないね」
「佐久間さん、サヨちゃんのこと、好きだと思うよ」
陽菜とのやり取りを思い出す。陽菜のほうが大人なんだろうか。そりゃそうだ。私なんかより、陽菜のほうがずっとしっかりしているし、客観的だ。
「思わせぶりな態度はやめてあげなね」
恵に言われたことを思い出す。その通りだ。やっぱり私の態度が悪かったのだ。
「一緒にいると気持ちが落ち着く」
そんな発言、誤解されるに決まっている。恵に言われるまでもなく、鈍感で、思わせぶり。最悪だ。佐久間くんが本当に私に好意があるのなら、私は最低だ、と思った。
私は本当に何もわかっていない。こんなんだから、人を容易に傷つけたり、自分が泥沼に沈んだりするのだ。
三本目の煙草を深く吸いこみ、煙をゆっくり吐き出す。肺は優秀な臓器だ。肺みたいに、何かで私の存在ごと濾過して、純粋な状態に戻してほしい。
「ねえ、陽菜」
「んー?」
「陽菜の言う通りだったわ」
「何がー?」
陽菜は近くまでパン屑を取りに来れず、離れたところで首を伸ばしているハトに、大きめのパン屑を投げる。
「私、なーんにもわかってなかったわ」
陽菜はちょっとだけ私を見て、またハトを見る。
「そっか。わかってなかったか」
「うん。全然、何にもわかってなかった。今も、まだわかんない」
煙草を深く吸い込んで、ふーと遠くに煙を飛ばす。
「あー、何で世の中、こんなにわかんないことだらけなんだろ」
無意味であるのに嘆いてしまう。私には、わからないことが多すぎる。
「生きていくのって難しいなー」
私の独り言を聞きながら、陽菜はハトのエサやりを終え、両手を上にあげて伸びをする。驚いたハトが数羽飛び去る。ハトの首のまわりはきれいな緑色だ。土鳩ではなく、キジ鳩。陽菜は私のほうを見て、「そうだね、難しいよね。私も、何にもわかんない」と同意してくれた。
「ねえ、一緒にいると落ち着くって言われたら、どう思う?」
陽菜に聞いてみる。
「落ち着く?」
「そう、例えば陽菜が、誰か友達に『陽菜ちゃんと一緒にいると気持ちが落ち着く』って言われたら、どう思う?」
「そりゃ、嬉しいよ」
「……だよね」
「佐久間さんの話?」
陽菜は何でもお見通しらしい。それとも、私の顔に書いてあったのだろうか。
「うん」
「言われたの?」
「違う」
「え、サヨちゃんが言ったの?」
「そう」
「そりゃ、佐久間さん、喜んでるでしょ。っていうか、サヨちゃん、そんなこと言ったの?」
「言っちゃった。変な意味じゃなくて、本当に気持ちが落ち着く気がするから、言っちゃったんだけど」
陽菜は私をしばし見つめたあと、ふーっと息を吐いて「佐久間さんはどう受け取ったんだろうね」と言った。
「わかんない。勤務もずれてたし、今月になってからは私が夏休みになっちゃって、全然会ってないんだ」
「実際、サヨちゃんはどう思ってるの? 佐久間さんのこと」
「どうって、ただの同僚だよ。同僚の中では、仲の良いほうの同僚」
「……ふーん。そう」
「ふーんって。だって、そうでしょ? これ以上仲良くなる必要もないし」
二人でしばらく宙を見つめていた。秋の日向は無駄に優しい。
「さよならだけが人生ならば、またくる春はなんだろう」
陽菜がつぶやく。
「寺山修二?」
陽菜は中学生だけれど、いろんなことを知っている。
「そう。けど、元があるよね、たしか」
「うん。元は井伏鱒二で、さらに元は干武陵だね」
『ハナニアラシノ タトエモアルゾ サヨナラダケガ 人生ダ』
『さよならだけが人生ならば 人生なんかいりません』
そこまで言い切れるほど私は別離を恐れているわけではない。
でも、だからこそ、佐久間くんへの態度は良くなかった、と後悔するのだ。
花を見ていた親子はいつの間にかいなくなっていた。
『引用:
井伏鱒二「勧酒」
干武陵「勧酒」
寺山修二「幸福が遠すぎたら」』
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