10 佐久間 秋

 介護施設はまとめて職員が休暇をとるわけにいかないので、順番に時期をずらして夏季休暇をとる。今年の僕の夏休みは十月。十月の北海道は十分に肌寒く、関東に戻ってきて、季節が逆戻りした気分だ。


 小夜さんに渡したいものがある、と連絡をすると、今日は休みらしく、いつもハトにエサをあげている公園を指定された。公園に着くと、小夜さんはベンチに座って、ぼーっとしていた。


 僕に気付いていないのか、少し紅葉し始めた木々の葉を眺め、遠い目をしている。白い長袖のTシャツにゆるいデニムのパンツ、グレーのコンバース。長い髪を珍しく下ろしている。木漏れ日の下、心ここに在らずといった顔をした小夜さん。こういう顔を見ると僕は、この愛おしい気持ちをどこに向けたらいいのかわからなくなる。小夜さんにこの気持ちをぶつけても、あんな遠い目をした彼女には、到底届かないのではないか。小夜さんは一体、何を見ているのだろうか。


 仕事中の小夜さんとも、陽菜ちゃんや恵さんと一緒にいるときとも違う、一人のときの小夜さんの顔だな、と思った。


 僕はしばらく一人で座っている小夜さんを眺めた。


 少ししてから声をかけると、小夜さんは振り向いて、すっと目を細めて微笑し、誰かと一緒にいるときの顔になった。


 僕は小夜さんの隣に座り、意味もなく足元の砂を靴でこすってみたりする。言いたいことをすぐに言えない、僕の悪い癖だ。


「夏休み、久しぶりに実家に帰ったんです、これ良かったら、お土産もらってください」


 大きな勇気と一緒に取り出した、小さな取っ手のついた小箱。透明の蓋から中身が見える。細かい突起のついた回転する筒のようなもの、目の細かい銀色の櫛のようなもの。小さい美しい精密な金属。小箱の端にOTARUと彫ってある。


「オルゴール? 小樽? ご実家、北海道なの?」

「そうですよ、前にも言ったじゃないですか」

「ごめんね、忘れちゃった」


 小夜さんはその華奢な機械を受け取り、そっと取っ手を回して音を奏でる。


「きれい。シューベルトのセレナーデ」

「そうです。セレナーデって日本語にすると小夜曲さよきょくっていうから、小夜さんにぴったりだなって思って。ロマンチックなお土産でしょ」


 渡しながら、結構緊張していた。僕としては、結構思い切った選曲だった。でも、お店で探しているとき、これしかない、と思ったのだ。


 小夜さんはふふっと笑いオルゴールを回す手を止めてじっと手元を見る。


「僕の歌は夜の中を抜け、あなたへひっそりと訴えかける、静かな森の中へ降りておいで、恋人よ、僕のもとへ、僕はあなたを待ちわびている、来て、僕のもとへ、僕を幸せにして」


 それだけ言い終えると、小夜さんはまたオルゴールを鳴らした。


「え、なんですか、それ」

「何って、シューベルトのセレナーデの歌詞。こんな感じだった気がする」


 僕を見て首をかしげる小夜さんの、耳にかけていた髪がほどけてなびく。「知らないで買ったの?」と苦笑している。


 セレナーデの意味は知っていたが、そんなに直接的な愛の歌だったとは。


 恥ずかしくなって、「ところで」と話を変える。


「小夜さんって、きれいな名前ですよね。小夜さんの小夜は、小夜曲の小夜が由来ですか?」

「どうなんだろ、聞いたことない。そうなのかもしれないし、違うかもしれないわ」


 僕は苦笑した。


「そりゃ、そのどちらか、ですからね」


 小夜さんはときどき、真顔で変なことを言う。


「セレナーデって、愛の歌だから情熱的なイメージですけど、確か由来はイタリア語のセレナーレで、『なだめる』とか『穏やかにさせる』とかいう意味なんですよ。知ってました? メロディにはぴったりですよね」


 さきほどの歌詞で無知を晒してしまったので、名誉を取り戻したい。


「知らない。佐久間くん、物知りね」

「あ、いや、受け売りなんですけど。兄の奥さんの親友が音楽の先生で」

「お兄さんの奥さんのお友達? ずいぶん遠い知り合いね」

「そうなんですよ。でも、兄の家に遊びにいくとその奥さんの親友もよく来ていて、よくいろんな音楽の話を聞かせてもらいました」

「セレナーデって、夜に恋人が窓の外で歌ってくれる歌のことでしょ。その愛の歌を聞いて、気持ちがなだめられたり穏やかになるなんて、熱烈な愛の歌よりずっと、ロマンチックね」

「僕もそう思います」

「ありがとう。私オルゴール好きなのよ、大切にするね」


 小夜さんはすっと目を細めて笑った。残暑の日差しは傾き、少し秋めいた涼しい風が吹いている。


 僕は、ずっと気になっていたことを小夜さんに言おうか迷っていたが、何気ないふりで言うことにした。


「小夜さんって、陽菜ちゃんとか恵さんと一緒にいるとき、ちょっといつもと違いますよね。いつもより楽しそうっていうか、にこにこしていて、バーベキューのときもちょっと妬いてました」


 言った途端、小夜さんは僕をパッと振り返り、ふっと吹き出した。


「やだ、それ、陽菜にも言われた」

「え?」

「だから、佐久間くんと一緒のとき、いつもの私より楽しそうだって」

「え、ええ? 本当ですか? わー嬉しいな」


 ふふふと笑いながら僕を見て、けど、と言う。


「けど、佐久間くんは、そう思ってなかったの?」


 少し首をかしげる小夜さんの、長い前髪が揺れる。


「佐久間くんは、佐久間くんと一緒にいるときの私、楽しそうに見えてなかったの?」


 すっと目を細めて僕を見る。


「え、いや、わからないですよ、自分では。そりゃ、楽しいって思ってもらえたら嬉しいですけど、それは僕にはわからないし」


 しどろもどろが嫌になった。まったく、だから僕では頼りないって言われてしまうんだ。


「佐久間くんからどう見えてるのか知らないけど、私、こう見えても、佐久間くんと一緒にいるとき、いつもより気持ちが落ち着いてるのよ」

「え」


 ふいに真面目な口調で言うから、思わず見つめてしまった。


 小夜さんは、すっと目をそらし、それきり無言で秋の高い空を見つめていた。


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