9 小夜 秋
ポットの爪を切っていてふと思う。
爪の伸びている男の人が苦手だ。一見、素敵に見える男性でも、爪が伸びているのを見ると「うわっ」と思ってしまう。不潔に見えるし、だらしなく見えるし、何より、そんな伸びた汚い爪でどうやって好きな女性の体に触るの? と思ってしまう。「女性の体はデリケートだから傷つけないように爪はいつも短く切っておくんだ」と、昔よくモテる男友達が言っていたことを思い出す。
男はタフで女はデリケート、なんて全く思わないけれど(面の皮の厚い女なんて山ほどいる)体の組織や皮膚の薄さを考えたら、短い清潔な爪で丁寧に扱ってほしい。
ポットの爪を切り終えて爪のゴミを集めながら思う。昔一緒にいたあの人は、爪の短い優しい手をしていた。そして、私を優しく抱いた。もう、ずいぶん昔のことだ。
佐久間くんも、いつも短くて清潔な爪だな、と思ってから、介護職だから当たり前か、と思う。でも、そうじゃない職員もたまにいるし、休憩室で慌てて爪切りをしている職員もたまにいる。佐久間くんは爪も短くて清潔だし性格も優しいからきっと女性にも優しくて丁寧なのだろう、と思ってから、「佐久間くん」と「性的な想像」というのはかけ離れているな、と思う。それは、年齢のせいなのか。彼が物理的にも精神的にも私と一定の距離を保っていて、近付いてこないせいなのか。
この前、この部屋に来たときも、彼は、親戚の家に遊びにきた甥っ子のようだった。図々しくない程度にくつろぎ、カステラを食べて「じゃ、勉強会の資料作るので!」と言って、早々に帰っていった。
だから、だからやっぱり、恵や陽菜が言うような恋愛感情を佐久間くんが私に持っているとは思えない。
そうなればなおさら、わがままな親戚の叔母さんのような私から、解放してあげなければいけないのだ。「困ったときの佐久間くん」は卒業しなければならない。
この前、恵の家でやるバーベキューに誘われ、いつもは陽菜を連れて行くのだけれど、部活があると断られ、初めて佐久間くんを連れて行った。恵の友人やママ友も多く集まるから、恵には会いたいが、一人で行くのは気が引けるのだ。
佐久間くんは、はじめましての人たちの中であっという間に打ち解け、積極的に肉を焼いたり、飲み物を配ったりして、私の目から見ても、とても気の利く好青年だった。
「佐久間くん、優しそうで可愛いわね。何歳っていったっけ?」
恵は私が佐久間くんを連れていくと言ったとき、大いに関心を示した。ずっと会いたがっていたのだ。
「確か十歳くらい下だから、三十歳くらいじゃない?」
「え、十歳も下? そうは見えないわね、なんか、小夜と並んでると、兄と妹みたい」
「そりゃ、いくらなんでもかわいそうよ」
「いや、外見はね、小夜のが上に見えるんだけど」
「当たり前でしょ」
「でも、何だろ、精神年齢? 案外、小夜よりしっかりしてるかもよ」
遠慮のない女友達の意見に口をとがらせて不満を示す。でも、確かに、私なんかよりもずっとしっかりしている。こんな誰も知らないバーベキューに連れてこられて、あんなに打ち解けて、社会性があるのだ。あと協調性。陽菜よりも子供っぽい私が、佐久間くんより大人なわけがない。
「まあ、そうかもしれないけど」
「陽菜ちゃんが言ってた通り、佐久間くんが小夜のこと好きなの、本当っぽいわね」
「は? なんでそうなるの? 今日会ったばっかりでしょ、何がわかるのよ」
ふふっと笑って恵は、華奢な指を折りながら、私を諭すように話す。
「まず、好きじゃなければこんなバーベキューの誘いに乗らない。次に、小夜みたいなワガママで愛想のない女を慕っているのは、尊敬や友達としてでは無理」
「あ、ひどい。そんな友達の一人のくせに」
「私と陽菜ちゃんは小夜のことよく知ってるから友達やってられるのよ。あんな若い、しかも気が利くイケメンがさ、ただの友達で小夜を慕うって、ちょっと考えられない」
「ひどい言われようね」
何でもあけすけに言いすぎるこの友達を、私は貴重に思っている。五年前、誰にも告げず勝手に引っ越した私が、唯一連絡をとり続けた友達。
「だって事実でしょ。男の人からの好意に気付きにくいし。小夜、鈍感でしょ」
「まあ、そういうところもあるけどさ。けどさ、いくら私が鈍感だからって、何も言われたことないわよ? 好きとか。そんな直接的じゃなくても、例えば、彼氏いるんですか? とかさ、聞かれたことないし」
「ふーん。それも小夜が聞き逃してる気もするけどね。まあ、けど、小夜にその気がないなら、早めにはっきり断ってあげたほうがいいわよ。もしかしたら脈ありかも、って思ってる可能性高いわよ」
「なんでよ?」
「小夜、困ったときの佐久間くん、やってない?」
「え?」
「今日だって、『恵には会いたいけど人が多いのは苦手だな、けど陽菜は部活だし、そうだ佐久間くんにお願いしよう』……って感じでしょ、どうせ」
これだから長い友達というのは。ため息が出る。
「その通りよ。まったくもって、その通り」
「そういうの、佐久間くんにしてみたら、誘ってもらえるのは嬉しいから来るわけでしょ? こんな初めましての人ばっかりのところに」
「そうかなー。そうなのかなー。私が悪いのかなー」
「別に悪いとかじゃないよ。思わせぶりなことはやめてあげなってこと」
「思わせぶりになんてしてないわよ」
あのときははっきりそう言い返した。私は佐久間くんに思わせぶりな態度なんてしたことはない。それに、お好み焼きをひっくり返すのがうまいから、という理由で食事に誘ったり、確かに「困ったときの佐久間くん」をやってしまっているかもしれないけれど、それは佐久間くんと一緒にいるのが楽しいからでもあるのだ。
私は、あの爪の短い好青年を、嫌ってはいない。それは事実だ。だからって、私を恋愛対象として見ているとは、やっぱり思えない。それも事実なのだ。四十歳になる女が、十歳も年下の男性に好かれている、という発想が持てるのは、私には考えられないことなのだ。
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