8 佐久間 夏

 小夜さんに本を借りるため、公園で待ち合わせをして、小夜さんのアパートに向かう。近付いていた台風は夜のうちに海のほうへ逸れてくれて、今日は天気が良い。


 小夜さんがあまりにも繰り返し「狭いし、本当に片付けられないタイプだから、すごい散らかってるよ」と念を押すので、足の踏み場もないゴミ屋敷のような、使った食器がシンクに積み上げられ、灰皿には山盛りの煙草の吸殻、その合間を愛猫のポットが大暴れ……なんて想像を勝手に膨らませていたのだけれど、予想に反して小夜さんの部屋は片付いていた。


 いや、すごくきれいな部屋を想像して行ったら「少し散らかっている」と思ったのかもしれないが、小夜さんに散々「本当にひどいから」と言われてから来たので、基準が下がっただけかもしれない。


 六畳ほどの洋室と四畳ほどのキッチンが、仕切りなく繋がっているタイプの作り。玄関を入ると、大きな猫が出迎えてくれた。小夜さんの愛猫、ポットちゃん。


「ポット~、ただいま。お留守番ありがとう。かわいいねぇ。今日はお客さんだよ。陽菜ちゃんじゃないよ。初めましての人。こんにちわって挨拶するのよ」


 小夜さんが愛猫を抱き上げて、聞いたことのないような優しい声で話しかけている。


「散らかってて本当に申し訳ないんだけど、あがってくれる?」


 言われて僕は「おじゃまします」と言って、少し緊張して靴を脱いだ。


 室内は、ベッド(グレーのベッドカバー)とソファ(ベージュ色で猫の爪とぎ跡が目立つ)とテレビ、小さなテーブル、そして本棚。


 僕が今までの人生で読んだ全ての本より多いだろう。胸の高さほどの本棚が二つあって、全て本と漫画で隙間なく埋まっており、その本棚の前にも、もう一つ本棚買ったほうがいいんじゃないですか? と言いたくなるくらいの量、本が積まれている。乱雑にではなく、きれいに揃えられてびしっと積んである。


 本棚の上にはいろんな物が乗っている。僕の知らない絵のポストカード。見たことがあるものもある。完成しているジグソーパズルが額に入って飾ってある。かろうじてわかるのは、このパズル、ゴッホくらいか。


「コーヒー淹れるから、適当に座ってて」


 と言ってキッチンに立っている小夜さんに聞く。


「これ、ゴッホですか?」

「え? あぁ、そう。パズルは『夜のカフェテラス』ポストカードは『カラスと麦畑』。なんだっけ、『孤独と悲しみを十分に表現しえた』だっけ。ゴッホが亡くなる直前に描いたって言われてる作品。あとは、ジョルジョ・デ・キリコとルネ・マグリット。好きなの」


 どこで区切るのかわからないような、呪文のような名前だな、と思う。『街の神秘と憂鬱』『光の帝国』と、それぞれのポストカードの下にタイトルがついていた。


「小夜さん、絵、詳しいんですか?」

「いや、全然。詳しくないよ。見て、ただきれいだな、とか、好きだなとか思うだけ。解釈とかは、全然わかんない。それは本もそうだけど。陽菜が美術部だから、陽菜のが詳しいよ」


 コルクボードが飾ってあり、ポットの子猫のときの写真や、その子猫を両手で包むように抱いている少女の写真があった。


「これ、陽菜ちゃんですか?」


 キッチンでコーヒーの準備をしている小夜さんに話しかけるとチラっと振り向いて「そーよ、それ、ポットを拾ってすぐの頃」と言う。というと、陽菜ちゃんは小学二年生くらいか。


 大人びた目つきで僕をからかうようにニヤニヤする今の陽菜ちゃんではなく、素直そうな無邪気な少女だ。小学二年生から中学生では、内面も外見も、大人からは信じられないほど成長するのだろうな、と思う。陽菜ちゃんに言ったら「佐久間さん、知ったかしないでよ」と笑われそうだ。


 コーヒーを運んできた小夜さんは、僕にソファを勧めてから、自分はクッションを敷いて床に座る。


「すごい本の量ですね」


 思わず口に出す。


「あーもう、ほんと散らかっててごめんね。本はね、未読の本が十冊くらい手元にないと落ち着かないのよ。こっちは読み終わった本だけど」と積みあがった本を指す。


「これでも、もう置き場がないから、文庫本は五十冊くらい古本屋に売ったんだよ」

「え、まだこれ以上あったんですか?」

「うん。けど、古本屋の買い取りって、すっごい安いんだよ、知ってる? 文庫本なんてきれいな本でも五円とか、三円とかのときもあるし。単行本で、よくて五十円くらいだよ。信じられない」


 手元にあった本を一冊手にとり、「この本たちは、そんな価値じゃないのに」と言って愛おしそうに表紙を撫でる。そして、ぺらっと一ページ目をめくると、すっと気配を消すように小説を読み始めた。


「小夜さん、小夜さん?」


 呼びかけると、はっと顔をあげてバツが悪そうに「あ、ごめん。つい読み始めちゃった」と笑った。


「そうだ、カステラあるんだ。食べる?」


 小夜さんは立ち上がって、またキッチンへ行った。


「陽菜のお父さんが出張だったらしくて、美味しいカステラ買ってきてくれたのよ。おすそ分けだって。出張の多い仕事も大変だけど、お土産は楽しみよね」


 カステラを皿に盛っている小夜さんは、自分の家にいるのだから当然なのだけれど、いつもよりずっとくつろいだ様子で、その無防備さがあまりにも可愛らしくて、僕は本当にこの女性に恋をしているのだ、と自覚せざるをえなかった。そして、その気持ちを自覚した瞬間、一気に緊張し始めた。僕は今、小夜さんと二人きりで小夜さんの部屋にいる。


 小夜さんは決して軽いタイプの女性ではないだろう。でも、男を部屋にあげるというのは、何かあっても良いということなのか? いやいや、そもそもそういう対象の男として見られていないということだってありうる。好きな男だったら、逆にこんなにも簡単に部屋にはあげないのではないか? ここで僕が小夜さんを抱き寄せたり、押し倒したりでもしたら、それはやっぱり犯罪になるのだろうか。もちろん、僕はそんなことはしない。できない。でも、せっかく二人きりになったチャンス。気持ちを伝えることくらいは、してもいいのではないか?


 僕はソファから立ち上がり、両の拳を握りしめる。


「小夜さん……」


 んー? という間の抜けた返事とともに振り返る小夜さん。


「小夜さん……」

「何?」


 カステラの乗った皿を持ったまま小夜さんは立ちつくして僕を見ている。


「小夜さん、えっと……」


 小夜さんが怪訝な表情になる。なんだよ、何かあるなら早く言えよ。そういう顔をしている……ように僕には見える。


「小夜さん……僕カステラ大好きです」


 はあぁ。だめだ。言えない。


「あ、そお? 良かった」


 僕は拳を解き、へなへなとソファに座る。小夜さんの足元にすり寄っていたポットが僕を盗み見て「バカだなあ」という風にあくびをした。


 そのあとの僕はすっかり意気消沈してしまい、カステラを味わい(確かに美味しかった)コーヒーを飲み(美味しかった)勉強会の資料に使う文献を借りて、そそくさと小夜さんの家を後にした。

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