7 小夜 夏

 台風が近いらしい。

 雨は降っていないが、風が強いから、指に挟んでいるだけで煙草がどんどん短くなっていく。その様子を少し眺めてから、フィルタに口を付ける。煙草は血管を収縮させるはずなのに、全然気が引き締まらない。余計にぼーっとしてしまうのは何故だろう。


 青鈍の空を流れる雲が速い。

 この前、佐久間くんと陽菜とお好み焼きを食べたあと、陽菜に「いつもよりサヨちゃん楽しそうだったね」と言われた。別にそんなことない。


「いつも通りだよ」と返したけれど、陽菜は笑って言った。


「サヨちゃんは何もわかってないね」

「何が?」

「佐久間さん、サヨちゃんのこと、好きだと思うよ」

「そんなはずないじゃない、私何歳だと思ってるの?」

「そんなの、年齢なんて関係ないじゃん。サヨちゃんも佐久間さんといると、楽しそう」

「そういう関係じゃないんだって」

「そお? 私は、いいと思うけどな、佐久間さん。サヨちゃんに合ってる」

「何それ、佐久間くんに迷惑よ」

「サヨちゃん、わかってないなー」


 そんなわけないじゃない。わかってないのは陽菜のほうだ。


 つい先日、久しぶりにめぐみと電話したときも言われた。


「陽菜ちゃんの言う通り、恋愛対象として見られてるんじゃないの? そうじゃなきゃ、わざわざ小夜に会いに公園まで来ないでしょ。しょっちゅう喫煙所に出てくるのだって、小夜と話したいからなんじゃないの?」


 恵は私の数少ない友達のもう一人で、一番古い友達だ。


 恵は、長い髪を三つ編みにして制服を着ていた中学生の私を知っている。私は、ショートカットだった中学生の恵も、おかっぱで前髪を切りすぎて、ワカメちゃんみたいになった高校生の恵も知っている。恵の結婚式で友人代表のスピーチをしたのは私だし、私は人前で恥ずかし気もなく泣いて祝った。そんな友達は、恵しかいない。


 でも、私のことを一番わかってくれている恵にしたって、佐久間くんとはそういう関係じゃないんだ、と言いたかった。何にせよ、佐久間くんに悪いじゃないか。


 ほとんど風でなくなったも同然の煙草を消して、窓をよじ登って休憩室に戻ると、同じ休憩時間帯なのに珍しく喫煙所に出てこなかった件くだんの佐久間くんが、テーブルに分厚い本を広げ、難しい顔をしていた。


「何してんの?」


 よほど集中していたのか、声をかけるとビクっとして顔をあげる。


「あ、小夜さん、煙草吸ってたんですね。いやあ、ちょっと難しい仕事やることになっちゃって。悩んでました」


 見ると、分厚い本のほかにノートもあり、何やら細かく書き込んでいる。


「僕、来週介護スタッフ向けの勉強会をやる担当になっちゃって」と言ってノートを見せてくる。


「【認知症:その病気の理解と介護のポイント】なんか難しそうなテーマだね」

「そうなんですよ。これからの社会はますます高齢化が進んで、僕たちの施設にも認知症の方が増えるだろうから、介護職も専門的な知識をより深めていこう、という趣旨の勉強会なんですけど……。調べ始めたら、認知症ってひとことに言ってもすごい種類があって……」

「そうね。アルツハイマー、脳血管性の認知症、器質性のもあるし、レビー小体とか、アルコールからくるコルサコフ症候群もあるし……」


 私の話の途中で、佐久間くんはペチンと音を立てて自分の額を叩いた。


「あー、さすが小夜さん。マジですか。やっぱりナースなんだなあ。すごいや。この難しい本に、まさにそういうのが書いてあります!」


 目を丸くして私と本を交互に見ている佐久間くん。


「ナースなんだなあって、当たり前でしょ。何だと思ってたのよ。もう十五年以上ナースやってるわ」


 それにしても、と分厚い本を見て思う。


「その本、難しすぎない?」


 佐久間くんは学術書のような難しい本と格闘しているのだ。


「そうなんですよ。図書館に行ったら認知症の本がこれしかなくて。僕、活字あんまり得意じゃないし、読んでるだけで難しくて……」と項垂れている。


「あー、たぶん、私もう少し分かりやすい本、持ってるよ。ナース向けの」

「え、本当ですか?」

「うん。家にある。明日休みだけど、ここに届けにきてもいいよ?」

「僕も明日休みです」

「あ、じゃ、うちに取りに来てよ」

「うわー、超助かります。ありがとうございます。あー良かったー。これで、もうこの本を見なくていいんだ、良かったー」


 いつまでもぶつぶつ言っているから、相当学術書に参っていたんだな、と思うと、気の毒で笑えてきた。そして、ほらこんなに簡単に家に来るって言うなんて、恋愛の意味の好意があったら、普通躊躇して、言えないでしょ? と陽菜と恵に言ってやりたい気がした。


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