5 小夜 梅雨

 今日も雨だ。今年の梅雨は、肌寒くて雨が多い。

 霧吹きのような細かい雨に、全身が包まれるようだ。雨音の少ない静かな雨。吸気に混じる湿気。室内にいても雨の気配は入り込んでくる。雨は好きだけれど、煙草を吸いに行けないので、休憩中コーヒーを飲みながらテレビを見るしかない。


「苦労したくないから離婚する、っていうのも、何か違う気がするけどね」


 何かと思って見ると、同僚の山下さんがお茶を啜りながらテレビを指す。


「あぁ、これ」


 ワイドショーで最近離婚した芸能人の話題がやっていた。山下さんはため息をつく。


「一度でも好きになった人を、こんな風には言いたくないねえ」


 テレビでは、一方的に離婚を言い渡した女性タレントが元夫の悪口を大げさに笑いながら芸能レポーターにぶつけていた。モラルハラスメントだとか、何だとか。


『よくあんな人と五年も夫婦やってられたなって、自分で自分をほめたいですよ! 苦労しかなかったんですよ。私は苦労するためだけに結婚したのかって! ひどいもんです!』


「苦労したくないから離婚するっていうのも、おかしなものだね」

「そうですね」

「この人となら、どんな不幸も乗り越えられるっていう人と、結婚したほうがいいのにねえ」


 山下さんは独り言のようにぶつぶつと話す。あぁ、そんな考え方もあるのか。


「そんな人と結婚できるのが、一番いいのかもしれませんね。でも、自分と一緒にいることで、相手の幸せを奪っているような気になってしまうなら、離れたほうがいいですよね」


 そう言うと、山下さんは私をチラっと見て、「まあ、そんなことも、あるかもしれないね」と言った。


 山下さんは十年ほど前に亡くなった旦那さんの借金をまだ返している途中だ、と聞いたことがある。でも、その話は、山下さんから直接聞いたことはないし、山下さんから「私苦労してます」という雰囲気を感じることは全然ない。いつも優しいし穏やかだし、面倒見の良い人だ。


 山下さんだけじゃない。私はここで働く年上の女性たち、人生の先輩たちに、いつも優しくしてもらっている。でも、明るくてお節介で噂好きの人生の先輩たちは、あの明るさの内側にたくさんの過去を隠しているのだ。いや、隠しているわけではない。他人から見えないところにそっと置いて、ひっそりと抱えている。パッと見じゃわからないようにして、自分だけで抱いているのだ。まるで、卵を温める親鳥のように。


 新婚で夫に先立たれたとか、子供を亡くしているとか、暴君のような姑の介護を三十年続けてきたとか。たくさんの語られない過去たち。みんな、わざわざ自分の苦労を日ごろから口にしたりしない。


 利用者さんたちもそうだ。

 仕事柄、他人様のプライベートを知ることが多い。例えば私が会社員をしていたなら、絶対知ることはないであろう、他人様の夥しい量の過去。

 利用者さんたちのカルテには、八十年、九十年、百年と生きてきた「生活歴・成育歴」が記されている。そこには、想像もつかないような凄惨な過去がある。悲しい事情がある。残酷な現実がある。


 私は、ご高齢の人生の先輩たちに、聞いてみたいときがある。今までの人生で一番辛かったことは何ですか。それを、笑って話せるようになるまで、何年かかりましたか。


 私は、あと何年たてば、何もかも笑って話せるようになるのだろうか。内側にたくさんのことを隠して穏やかに過ごす、人生の先輩たちのようになれるのだろうか。


 黙ってしまった私のことを気に留めず、お茶を啜る山下さん。


 この職場の人たちはみんな優しい。私は愛想がないし、あまり人との距離をつめていない。その自覚はある。

 そのことを不快に思っている人もいるのかもしれないし、私の過去をあることないこと噂しているのも聞いたことがある。でも、そういう類の噂は、全て優しさでできているのだ。だって、どうでもいい人の噂はしない。私は同僚の先輩たちに、どこか心配されている節がある。それがなぜなのか、自分でもわからなくはないのだけれど、それでもまだ誰かと親しくなって、あけすけに何でも話して、自分を解放する気にはなれないのだ。いつかそんな日がくるなら、どんなにか楽なのに、と思う。


 雨はまだ降っている。

 止まない雨はない、なんて言うけれど、雨が止まない人生で何が悪いのだろう。行くところ行くところ雨。雨に打たれながら、あぁ今この雨は私のために降っているんだな、と思う日があったっていいじゃない。


 一つ小さくため息をついて冷めたコーヒーを飲む。午後は少し忙しいから、頑張らなければ。どんなに雨に打たれていたって、仕事は仕事だ。こんな私にも、きっと少しはできることがある。看護師免許をとっておいて良かったな、とふと思った。自分が何者であるのか、帰属する肩書があって良かった。とりあえずは、看護師という名で、生きていけるから。

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