2 佐久間 春

「小夜ちゃんなら、煙草だよ」


 休憩室でお喋りをしている三人の先輩マダムたちが、お茶を啜りながら窓を指し、部屋に入ってきた僕に教えてくれた。


「いや、別に小夜さんを探しているわけじゃ……」


 実際探していたので、少し居心地が悪い。

 僕の気持ちは、誰にでもバレバレらしい。僕は、先輩たちに何も言ったことがないのに、僕が小夜さんに特別な感情を持っていると、先輩たちは確信している。週に一回だけ外勤で訪問に来る大学病院の医師にも「憧れのお姉さんとはうまくいってる?」なんて言われる始末。僕は誰にも何も言っていないのに。そんなに態度に出ているのだろうか。


 僕の気持ちに唯一気付いていないのは、当の小夜さんだけだ。気付いていないのか、気付かないふりをしているのか。おそらく、前者だと思っているのだけれど、それが僕の勝手な希望的観測という可能性も大きい。


 小夜さん。


 僕より十歳ほど年上の、きれいな人。去年、転職してきたこの介護施設で一緒に働いている看護師だ。きれいだけどちょっと無愛想で、でも施設の利用者さんには優しい。仕事が丁寧で早い。独り暮らしで、猫と本が好きで、吸ってる煙草はマルボロライトのメンソール。僕が十か月ほど一緒にいて知っている小夜さんの情報はその程度。


「まったく佐久間ちゃんは、小夜ちゃん小夜ちゃんだもんね。若いんだしハンサムなんだから、もっと良い子いるだろうに」


 先輩マダムはお茶を啜る。


「はぁ」


 へらへらと笑いながら曖昧にうなずいて、窓から体を乗り出して駐車場を覗くと、壁沿いに置かれたベンチに小夜さんが座って煙草を吸っているのが見えた。ほかの喫煙者はいないようだ。


「たしかに小夜ちゃんは美人だけど、ちょっと訳ありっぽいよねえ」

「あんなにきれいなのに、独身だし、彼氏もいないみたいだし」

「いや、言わないだけで、彼氏がいるんじゃないかね。言わないっていうか、言えない相手とか」

「どちらにせよ、佐久間ちゃんの手には負えなさそうよね。佐久間ちゃん、ハンサムだけどちょっと頼りないとこあるから」


 マダムたちの勝手な噂話を背中で聞き流し、僕は窓をよじのぼり、外に出た。


 ベンチに浅く腰掛け、遠く、どこを見ているかわからない小夜さん。煙草の煙をふーっと長く吐き、また吸って、ふーっと吐く。白衣に紺色のカーディガン。ゆるめにまとめられた長い髪、華奢な首、少し猫背、色の白い手、細い指に挟まった煙草。声をかけても聞こえないんじゃないか、と思うほど、現実味のない横顔。


「小夜さん」


 声をかけると、ゆっくり振り向いて、僕を見る。全然微笑みもしない。


「なに」

「別になんでもないですけど、隣いいですか」

「いいよ」

「今日のお昼、何食べたんですか?」

「サンドイッチ」

「おいしかったですか? 職員食堂のカレーはうまかったですよ」

「そう」


 いつにも増してそっけない。何か怒っているのだろうか、と僕が黙ると


「ごめんね、テンション低くて。朝から頭が痛いのよ、春は苦手で」


 と、少し枯れた小さな声で言った。すっと目を細めて微笑し、吸っていた煙草を携帯灰皿に捨てる。その微笑があまりにも儚げで、春の心地よい空気に攫われて消えてしまいそうだ。


「頭痛ですか。早めの五月病ですかね。午後は僕が小夜さんの分も働きますよ」


 缶コーヒーを飲む小夜さんの眉間にしわが寄る。


「うん」とだけ答える小夜さん。愛想なくあしらわれてもそばにいるなんて、男らしくないのかな。


「頭痛いなら煙草はやめたほうがいいですよ」

「そう、本当にその通りよね」


 小さな声で言いながら、小夜さんは二本目の煙草に火をつける。煙をゆっくり吸い込んで、ゆっくり吐く。白い煙がまっすぐ飛んで、擦れて消える。小夜さんの笑い方みたいだ。


「さっき薬飲んだんだけどね」

「え?」

「頭痛薬。飲んだんだけどね。まだ効かないの」

「あぁ、痛み止めですか」

「そう。お昼食べて飲んだから、もう少ししたら効いてくると思う。午後の仕事には影響しないはず」

「そうですか。でも、無理しないでくださいね」

「ありがと。無理しなくていいなら、私今すぐ帰るよ」

「え、いや、それは困ります」


 介護施設の看護師は少ない。介護福祉士やヘルパーがメインで、医療行為が必要なときだけ、看護師の出番なのだ。逆に言えば、看護師がいなければ医療行為は全くできない。それでも、医療行為の必要な利用者さんはたくさんいらっしゃる。つくづく大変な現場だと感じる。


 小夜さんは、ふっと煙を吐きながら「多少は無理しなきゃ生きていけないじゃん、人生って。だから、ほんの少しだけなら無理するよ、今日の午後も」と言って小さく笑った。


 こんなことを言われると僕は、この人をどうにも放っておけない気分になるのだ。


 小夜さんが、いわゆる放っておけないタイプの女性じゃないことはわかっている。僕なんかよりも、仕事もできるし年上だし、人に甘えて生きるタイプの人じゃない。でも、この人の多少の無理を少しでも肩代わりできないものか、とそんな気分になってしまうのは、やっぱり僕が恋をしているからなのだろうか。消えそうな笑い方をする小夜さんの遠い横顔を眺めて、僕は聞こえないようにため息をついた。


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