セレナーデ
秋谷りんこ
1 小夜 春
ゆるい日差しに、桜の淡い花びらが光る。まだ少し冷たい風が前髪を揺らして頬を撫でる。景色は何もかもが平和で、平凡で、平均的な春の日。ベンチに浅く腰掛けて、煙草を吸う。
爪の短い私の指に挟まる、長いメンソール。
煙草から直接立ち上る煙は青白く見えるのに、吐き出す煙はただの白に見えるのはなぜだろう。私の肺で、青色が濾過されたのだろうか。煙を深く吸い込みながら思う。私の肺に、置き去りにされ溜まっていく青。ヘビースモーカーの人の肺は真っ黒に汚れているというけれど、私の肺は今頃、真っ青に染まっているのかもしれない。
さーっと風が吹いて、桜吹雪が舞う。メンソールの先端からまっすぐ立ちのぼっていた青白い煙がかき乱され消えていく。
平和や幸福を実感するというのは、とても鈍感な人の特権なのだな、と思う。
今日はこの喫煙スペースに誰もいない。私一人だ。休憩室の窓を乗り越えて外の駐車場に降りてすぐ、職員用に作られた喫煙スペース、といっても、ベンチが一つあるだけ。表立って『喫煙所』と言ってはいけないらしく(施設の敷地内は禁煙だから)灰皿も置いていない。喫煙者は携帯灰皿持参で、ここに集う。でも今日は誰もいない。私の、貸し切り状態だ。
一人で桜を見ながら煙草を吸う休憩時間というのは、贅沢なのか寂しいのかわからないな、と思いながら煙を吐き出す。
この喫煙所で一人というのは珍しいな、と思って、そういえば今日は何だかとても静かだな、と思ってから、そうか
佐久間くん。
私より十歳以上若い、去年入職してきた中途採用の男の子。自然食品の営業職をしていたらしいけれど、仕事をしながら介護ヘルパーの資格をとって、去年転職してきた。今は、介護スタッフの中で一番後輩だから、先輩たちにかわいがられながら働いている。ここで働きながら、次は介護福祉士の資格をとりたいそうだ。
真面目でやる気があって爽やかな青年。誰にでも優しくて、穏やかな人。
その佐久間くんが、何かと話しかけてきたり、自分は吸わないくせにこの喫煙スペースにまでやってきてはお喋りをしてくるから、今日のように佐久間くんが休みの日は、静かに感じるのだ。
二本目の煙草に火をつけて、冷たい缶コーヒーをひとくち飲む。私の肺が真っ青なら、胃はコーヒー色かもしれない。
午後の仕事は、経管栄養の片付けと、バイタルサインの測定、あと水虫の軟膏を塗るくらい。介護施設で働く看護師の仕事は、病院の入院病棟より少ない。介護職員がメインの職場で、今日の日勤も看護師は私ともう一人の、二人だけだ。治療の場ではなく生活の場だから、利用者さんたちがどれだけ穏やかに安らかに生活できるか、が大切なのだ。私たち看護師が行うのは、安寧な生活を送るために必要な最低限の医療行為だけ。
利用者さんたちの平和で穏やかな生活のために、私はたぶん、ほんの少しだけ役に立っている、はずだ。その思いだけで、私はぎりぎり勤労の義務を果たしている。
「私は、平和で安らかな老人介護施設で役に立っている」
一人でつぶやいてみて、ふっと笑った。自嘲めいた笑い。
きれいで嘘くさい言葉。そんなものを笑うような中年になってしまったな、とまた笑う。ずっと前、とても若い頃は、嘘くさくてもきれいで平和な未来を、信じていたのだろうか。
私の思い描いていた未来は「こんなはずじゃなかった」とも思うし、「こうなることはわかっていた」とも思う。結局どうすればよかったのか、なんて今でも全くわからない。大人になればもう少し、いろんなことがわかるのだと思っていた。それが今でも、何もかもよくわからない。理解できないことのほうが増えていく気さえする。私はもうすぐ、四十歳になろうというのに。
微風に揺られちらちらと光る桜の花びらを眺めていると、ふいに
「
と聞こえた。
いや、聞こえたわけじゃない。唐突に思い出されたのだ。
まるで本当に聞こえたかのように、声の質も大きさも明確に思い出せる。このセリフを実際に聞いたのは、もう五年も前のことなのに。
こんな陳腐なセリフを、まさか自分が実際に言われるとは思っていなかった。そしてそれを、五年も経つのにまだ思い出すとは。
考えまい、思い出すまい、と決め、煙草のフィルタに口をつける。
ふっと煙を吐き出す。どうでもいいことばかり考えてしまう。だから春は苦手だ。いろいろ一人で考え込んでしまうのは、いつも話しかけてくれるはずの佐久間くんがいないからだ、と人のせいにしておく。
煙草を携帯灰皿に捨て、窓をよじ登って休憩室に戻る。生きていくには必要最低限の勤労をし、今日もどうにか大人の社会人をこなさなくてはならない。
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