苦味

かしこまりこ

苦味

 口にしたコーヒーの冷たさに、思わず顔をしかめた。


「熱いのでお気をつけください」と、店員が二人分のカップをテーブルに置いてから、どれほど時間が経ったのだろう。頭がしびれて、思考がうまく整理できない。


 白いカップの内側に視線を落とすと、茶色い線が丸くこびりついている。底に残るわずかなコーヒーの粉を見て、口の中がざらついた。


 コーヒーショップの出口を何度見ても、山崎はもういない。くたびれたスーツを着た、彼の後ろ姿が目に焼き付いている。


「連載が打ち切りになったよ」

 頼んだコーヒーに口を付けることなく、私の担当編集者の山崎は、申し訳なさそうに言った。

「あと二話でちょうど二巻になるから、それで完結できるように調整してくれる?」

 そんな予感はしていたけど、宣告されるとやはりショックだった。


 テーブルの上に置かれた山崎の手に自分の手を重ねようとしたら、彼に手を引っ込められた。本当に衝撃を受けたのはその時だ。足元に急に穴が空いて、深い穴に落下していくような感覚がした。


 そのあとのことは、あまり覚えていない。シワだらけのハンカチで、顔の汗をぬぐいながら、山崎はあらゆる言い訳と慰めの言葉を口にした。彼の言葉が頭を素通りしていく中、情けないオジサンにしか見えない彼の顔を呆然と眺めた。


 彼が去った後も、私はそこから動けなかった。自分にさっき起こったことを、うまく飲み込むことができない。


 連載が打ち切りになった。それはわかる。デビューして初めての連載で、一巻目の売れ行きがパッとしなかったのだから、二巻目を出してもらえるだけでもありがたい話だ。残念なことに変わりはないが、厳しい世界なのだから仕方がない。


 私が混乱しているのは、山崎との関係のほうだ。


 終わった? 本当に? こんなにあっけなく?


 安心して身を沈めたふかふかのベッドが、朝起きたら跡形もなく消えていたような……大げさに言えば、世界の法則に裏切られた気がした。


 十五歳年上で既婚者の山崎は、短大を出たばかりの私にとって、人生の師のような存在だった。編集者として多数の新人を世に出してきた彼は、漫画や出版業界だけでなく、あらゆることに博識で、私は彼にすっかり心酔していた。


 なにより、彼は私を有頂天にさせる天才だった。

「リナちゃんはすごい才能の持ち主だよ」

「きっと人気の漫画家になるよ。僕がついてるから大丈夫」


 私の作品を語る熱い口調。

 私を真っ直ぐに見つめるまなざし。

 私と過ごす一分一秒がうれしくてたまらないとでも言いたげな笑顔。


「リナちゃん、きれいだね」

 そう言って耳元にキスを落とされるとき、私は美しいのだと信じることができた。

「リナちゃんの声が好き」

 とベッドでささやかれると、私は甘い声のボリュームを上げた。

 誰よりも才能豊かで魅惑的な女。それが、山崎と一緒にいるときの自分だった。


 彼と結婚したいとか、奥さんと別れてほしいと思ったことはない。

 私と山崎は結婚よりも強い絆で結ばれているのだと思っていた。私は漫画が描ける。山崎と二人で作っていける世界がある。そう信じて疑わなかった。


 自分の作品がヒットして、彼が何十年も私と伴走してくれるところを想像した。彼は私の先導者で、私は彼の女神ミューズ。そんなシナリオを私の頭に刷り込んだのは、山崎の方だったのに。


 ようやく席を立つと、テーブルが揺れ、まだカップいっぱいに残っていた山崎のコーヒーがソーサーに垂れた。

 カップごと床に投げつけてやりたい衝動が、にわかに突き上げる。


 ちきしょう。ふざけんな。


 泣くもんか、と奥歯にギリリと力を入れた。コーヒーショップを大股で出る頃には、私はある決心をしていた。

 

***


 平日の昼下がり、私は小さな一戸建ての前に立っていた。「山崎」の表札が、春の光に呑気に照らされている。


 連載が完全に打ち切りになるまでの二ヶ月、原稿をメールで渡すように言われた私は、山崎に直接会うことさえできなかった。会って私に激昂されるのを恐れたのか、ただ単に気まずかったのか。


 その程度の男で、その程度の関係だったのだと悟り、羞恥と怒りで頭がどうにかなりそうだった。


 山崎は迂闊すぎる。私とそのまま自然消滅できるとでも思ったのだろうか。まずは彼の妻に洗いざらいしゃべってしまうことに決めた。その後は、会社にも報告してやるつもりだ。


 そんなことをすれば私だって無傷ではいられないが、それで彼が傷つくなら本望だ。彼の人生をめちゃくちゃにして、一生後悔させてやる。一生憎まれる方が、忘れ去られるよりも何倍もマシだ。


 ふう、と深呼吸をしてから、震える指でインターホンを鳴らした。

「はーい」と明るい女性の声がインターホン越しに聞こえてくる。

「あの、山崎たけるさんのお宅でしょうか」

「あ、はい。今開けますね」 

 間髪入れずにそんな対応をされて拍子抜けする。知らない女が夫を訪ねてきたというのに、私のことを誰だと思っているんだろう。


 ドアを開けた女性が車椅子に乗っていて、私はさらに驚いた。

「こんにちは」

 にっこりと挨拶をされて、反射的に頭を下げた。

「あの……、広瀬リナと申します。あの……、あの……」

 動揺して言葉がちゃんと出てこない。山崎の妻に会ったら、ああ言ってやろう、こう言ってやろう、と頭の中であれほどシミレーションしたのに。

 そもそも、この女性は山崎の妻なのだろうか。


「あの、あの……。失礼ですが、そちらは山崎さんの……」

「家内です」

 きっぱりと言われて息をのんだ。

「中、入りますか?」

 笑顔で促されて、そろそろと家の中へ足を入れる。

 この人は、何もかも見透かしている。

 そんな確信に近い予感がして、一歩進むたびに、体に緊張が走った。

 

「コーヒーでいい?」

 同級生の友達にでも聞くような調子で言われて、声も出せずにうなずいた。ばくばくと心臓が脈を打ち、強く握った拳が汗ばんでいる。


「座ってて」

 ダイニングテーブルを手で指され、私は木の椅子に腰を下ろした。

 山崎の妻は、車椅子ように低く作られたキッチンで、くるくると器用に動き回る。

「ミルクとお砂糖は?」

「い、いらない……です」


 彼女はコーヒーメーカーをセットすると、私の向かい側に車椅子をするりと移動させた。四人用のダイニングテーブルで、そこだけ椅子が置いていない。


「難病なのよ」

「え?」

「遺伝子の病気なの。身体中に腫瘍ができちゃうの。ガンとはまた違うんだけど、まあ、似てるわね。二十歳になるまで、知らなかったのよ。大学生のときに、てんかん発作みたいなので倒れちゃってね。そのときに、全身に腫瘍が見つかったの」

「はあ……」


 なぜこんな話を私にするのだろう。想定される疑問にさっさと答えておこうとしているようだ。いろんな人に繰り返した自己紹介なのかもしれない。


「手脚は二回手術したし、頭蓋骨も一度開けてる。進行が遅いから、今すぐ死ぬってわけじゃないんだけど、全身に爆弾抱えてるみたいなものね。去年までは働いてたのよ。でも、もう外で働くのは無理かもしれないわ」

 なんと反応していいかわからなくて、私は彼女を黙って見つめた。あっけらかんとした表情から、何を考えているのか全く読み取れない。


「あなたは?」

 急に話を向けられて、猫に見つかったネズミみたいに、全身が硬直した。

「わ、私は、ま、漫画描いてて。山崎さんが私の担当で。それで……」

「あなた、健の愛人だったの?」


 いきなり袈裟懸けでもくらったみたいに、息が止まった。

 柔らかに口角を上げた彼女の目が笑っていない。

 私は、とんでもないことをしてしまったのかもしれない。

 敗北感と恐怖が内臓をじわじわと侵食していく。


「健に優しくされて、そのあと冷たくされた?」

「あの……」

 目にみるみる涙が溜まってきて、こぼれないように、と大きく鼻をすすった。

「健はね、優しいのよ」

 一音一音、はっきりと耳に届く。まるで、鼓膜に突き刺さるように。

「誰かに必要とされたくてしょうがない人なの。誰にも必要とされなくなることが、何より怖いのよ。だから、一人じゃダメなの。あなたは、保険だったの。わかる?」

「な、あなた、頭、おか、おかしい……」

 必死で反撃の言葉をかき集めても、文章を最後まで言い終えることさえできない。

 体が細かく震え始めた。


「あなたが、先に、健を必要としなくなったのよ。だから、逃げられた。わかるでしょ?」

 彼女はそう言うと、くるりと車椅子を回転させてキッチンへ移動した。

 彼女の言葉がぐるぐると頭を回る。

 私は、彼女の言ったことが、正確に理解できた。


 山崎と出会う前、私はコミュ障のヴァージンだった。クリエイターとしても、女としても、人間としても自信がなくて、他人も世間も死ぬほど怖かった。


 山崎が初めての担当編集者で、恋人で、救世主だった。山崎がいろんなドアを私のために開けてくれ、私に自信を与え、新しい世界へ連れて行ってくれたのだ。


 そんな関係に変化が訪れたのは、連載打ち切りを告知されるより、一ヶ月ほど前のことだ。

「僕がついているから大丈夫」と言われて、山崎の言う通りに漫画を描いていたのに、私の連載は人気が伸びなかった。


 せっかくのチャンスをフイにしたくなくて、私はこめかみに血管が浮き上がるほど思い悩んだ。悩んで、悩んで、自分が出せる最高のものだと思って出したネームに、ダメ出しをされる。言われるままに書き直した原稿を発表しても、一向に人気は上がらない。


 私はだんだん山崎の助言に懐疑的になり、ある日とうとう反論した。

 山崎の言う通りにしても人気が出ないのだったら、一度くらい自分の思ったように描いてみたかった。それで打ち切りになってもいいと思った。結局、私の熱意に負ける形で、山崎は私の意見を尊重してくれた。


 結果、山崎が心配していたような読者離れも起きなかったし、私が期待していたような好意的な反響もなかった。少数のファンがDMで「一番好きな回です」と言ってくれたくらいだ。


 山崎の態度が急に変わったのは、それからだ。毎日のように電話で話し、週に一度は打ち合わせをして、そのあとでホテルへ行くのが習慣のようになっていたのに、会う頻度が減り、電話がかかってこなくなり、ラインのメッセージに既読がつかなくなった。


「コーヒー、入ったわよ」

 ハッと顔を上げると、山崎の妻がテーブルにカップを置いたところだった。

「冷めないうちに、飲んで」

 有無を言わさないような口調に気圧されて、私はコーヒーに口をつけた。

「あつっ」

 思わず声を出し、置いたカップがガチャンと音を立ててしまうほど、コーヒーもカップも熱かった。口の上側の皮がめくれたのが舌で確認できる。


「毒入りよ、それ」

 低い声が聞こえて、私は椅子から立ち上がった。口を手でふさぎ、目を見開いて、彼女の顔を見る。

「冗談よ」

 彼女は目を細めてコロコロと笑った。脇の下から、冷たい汗が流れた。


「か、帰ります」

 自分のものとは思えないほど、かすれた声が出た。

 スロープになっている玄関へ急ぎ、ガクガクと震える膝に力を入れて靴をはく。左足がすべってパンプスが転がった。

 早く。早く。

 乱暴に靴に突っ込んだ足がつんのめり、バランスを崩した体がドンとドアに当たる。


 ドアに手をかけた瞬間、背後から声がした。

「健が私から離れていかないのは、私は、彼がいないと生きていけないからよ」

 声のするほうへ、ゆっくりと振り返る。

 私を真っ直ぐに射抜く目は、死ぬのも殺すのも、怖くないのだと言っていた。


 逃げるように家を出てると、やみくもに走った。すぐに息が上がり、つまずいて転んだ。擦りむいた膝こぞうから血がにじんでいるのに、痛さを感じない。通行人が奇異なものを見た顔をして通り過ぎて行く。


 地面に座り込んだまま、私は声をあげて泣いていた。火傷した口内がジンジンと痛む。ぐらぐらと煮える怒りと嫉妬の味だと思った。

「毒入りよ、それ」というセリフが聞こえて、苦い粉薬でも飲んだように口の中がザラザラする。そんなはずはないのに。


 涙と鼻水を流しながら、私は路上に唾を吐いた。何度も何度も吐いた。

 いらない。山崎なんて、いらない。


 救世主ヒーローなんて、一生いらない。

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苦味 かしこまりこ @onestory

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