後宮の軍師は眠らない
やなか
第1部 東宮妃選抜
第1話 夜明け前
「そろそろ都か?」
規則正しい寝息がしていたので、眠ったものと思っていたが、わたしの
「夜があけるころには着くでしょう。あと二刻くらいかと」
わたしは答えた。
「夜があけなければよいのに」
翠玲がつぶやく。
湿った声ではない。思い浮かぶままに、言葉が口から出たのだろう。
「あけない夜はなく、やまない雨はありませぬ」
わたしが答えると、くすりと微笑む気配がした。
「やまない雨なら、ここにいるではないか。
その言葉に、わたしも暗闇で微笑んだ。
わたしは、
姓は
しんとした夜に雨音に耳をすますような、静かな気持ちになれるから。
「雨雨、手を握ってくれ」
翠玲が腕を伸ばす。
ここは馬車の中だ。
積荷の馬車十台と騎兵も追走しているが、翠玲の馬車の同乗者は侍女のわたしのみだった。
わたしは揺れる馬車の中で音もなく彼女に近づくと、仰臥したまま伸ばされたその白い手をとった。
翠玲の手は冷えている。
わたしは自分の両手ではさみ、もみこむようにして温めた。
「ああ、気持ちいい」
「手を温めるのは大事です」
「手など冷たくても良いではないか」
「手の不調は全身に通じます。わたしは自分の手を、泥の中で夜通し温めたことがあります」
「それは戦場での話か。面白そうだな」
「面白くはありませぬが、それでは寝物語に話しましょう」
わたしが指揮をした城攻めでの話だ。
その城は小さいながら堅牢だった。山岳地帯のため投石車などの攻城兵器が使い難い。わたしが参戦した時点で、攻めあぐねて既に数週間が経過していた。
ちょうど晩秋の雨の季節を迎え、両軍に
三日目の深夜、攻め手が退却した後、わたしは泥の中にいた。外壁のたもと、折り重なる死体に紛れて。竹筒をくわえて静かに息をしながら。
わたしは翠玲に説明した。
「両手は羊の内臓でつくった袋に入れておりました。寒さで凍えそうでしたが、右手指、左足指、左手指、右足指の順に指先を必死に動かして、耐えたのです」
それを聞いた翠玲は笑いをかみころした。わたしの泥にまみれた、みっともない姿を想像したに違いない。
「雨雨、それから戦はどうなったのだ?」
城の守り手は通常、敵が退くとすぐさま城外に出て後始末をする。生き残った敵にとどめをさし、武具を拾い集め、死体を腐敗する前に埋めるのだ。
だが、このとき、守り手は城外に出てこなかった。とどめも城壁の上から矢をわずかに射ただけだ。雨も降っているし、疲れもたまっている。翌朝まで放置しておく構えだった。
明け方近くになって、わたしの指揮で死体が動きだす。死体の半分は、死体に扮した兵だったのだ。我々は外壁にはしごをかけると、次々と城内に乗り込んだ——。
翠玲がいつのまにか、わたしの腕を撫でている。
「そうか。雨雨のこの肌は、血と泥と臓物にまみれていたのだな」
「ええ、そうです。汚れた身なのです。わたしは」
突然、翠玲がわたしの手首に舌を押し付けると、肘に向かって舐め上げた。
「何をなさいます!」
わたしは思わず声をあげた。
「雨雨は汚れてはおらぬ。何なら、わたしがこうやって、きれいにしてやろう」
翠玲がころころと笑う。
わたしの頬が火照る。柄にもなく赤面していたが、幸いここは暗がりだ。
「結構です。おやめください」
いつもこうだ。
翠玲はわたしの心を無遠慮にかき乱す。
「つれないことを言うな。ほら」
翠玲が両手を広げた。
わたしは抗えず、その手の中に身を沈める。
「お嬢さま、誰かに見られたら、男と同衾していたと噂になりますよ」
翠玲の胸の中で、わたしは言った。
わたしは女だが、普段は男装している。もともと身体が細くて肉が薄い。男のなりをして剣をさげていたら、女にみられることはなかった。
「ふふ、どうとでもなるさ」
翠玲がわたしの髪を撫でる。
わたしはその心地よさにいったんは目をつむり、えいと身を離した。いま離れないと、離れられなくなりそうだ。
「まだ夜明けまで間があります。お嬢さまはお休みください」
「お前も眠っていいのだぞ」
「いいえ、わたしは眠りません」
翠玲もわかっているだろうに。わたしが決して眠らないということを。
馬車は走り続けた。
やがて朝陽が昇ると、わたしは馬車の窓を跳ね上げる。光とともに、冷えた空気がびょうびょうと吹き込んだ。
その光のなかで、翠玲が髪をかきあげる。銀白色の髪、高い鼻梁、そして、
「雨雨、髪をととのえてくれ。そんなにじっと見られたら、恥ずかしいではないか」
翠玲がいたずらっぽく笑う。
わたしは慌てて櫛を手ににじり寄る。
もちろん翠玲は恥ずかしがってなどいない。彼女が恥ずかしがったところなど、見たことがない。
わたしは初めて会ったときから、翠玲の気高さと美しさに魅せられた。全身全霊をかけて、この主に仕えようと誓ったのだ。
都では、翠玲はどのようにみられるだろうか。彼女の人目をひく容姿は、間違いなく噂の的になる。ただし、あまりにも異端すぎて、眉をひそめる者もいるかもしれない。
異端と言うなら、わたしもそうだ。
わたしは戦略家の一門である
男に扮しているが、女であることが有利になることも多い。女の姿で敵の城裏や王宮、時には後宮にまで忍び込み、謀略を仕掛けた。策子にいた最後の一年間で、わたしは五つの戦場で勝利した。
そんなわたしが侍女になるとは。
それも、この
必要な知識や技能は既に身につけた。わたしは物を覚えることも、役割を演じることも得意だ。だが、育ちとは、ふとしたはずみに
「雨雨」
翠玲の声に、わたしは我にかえる。
朝陽を背に、翠玲が再び手を差し出していた。
光にまぎれて、翠玲の表情が見えない。わたしが手を握ると、翠玲が言った。
「雨雨、この手を、離すなよ」
「はい、もちろん。離しません」
わたしは力をこめて答えた。
願わくば、命が尽きる瞬間まで、この手を握っていたい。そう心のなかで祈りながら。
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