2話・部活中に学校で……。

 それから。

 学校が始まるまでの一週間と、学校が始まってから今日までの一週間、私たちは律儀に、一度も怠ることなく毎日キスをした。

 今までと同じように勉強だの遊びだのと理由をつけて私の部屋に訪れる久穏くおんは、を合図するとき、石像のように固まって私をじっと見つめる。

 心臓の位置がわかる程度に鼓動が高鳴って、リップを塗って瞳を閉じて、かするように触れ合わせ、すぐに離れる。

 三日目くらいから『そのうち慣れるだろう』と、余裕めいたものを感じていたが、何度交わしてもその兆しは見えない。

 いつだって緊張する。最近は部屋のドアが開くたびに、いや、久穏の足音が部屋に近づいてくる度に緊張する始末……。

 それもあってか今日の放課後はなんだか家にいる気になれなかった。

耀ひかりちゃん」

「なんだ柚子ゆずか、びっくりした。どうしたの?」

 校舎から長い階段を下った先にある三面のテニスコートでは、新入部生獲得のためにいつもより気合の入った練習が行われており、私はそれを、階段の最上段に座ってぼんやりと眺めていた。

 突然、背後から声をかけられ飛び跳ねるくらいに驚いたものの、振り向くとそこにいたのは顔馴染みの白河しらかわ柚子ゆず

「んーん、背中見えたから、どうしたのかなぁって」

「別にどうもしないよ。暇つぶし」

「そっか」

 私の隣に腰を落ち着かせ、同じ景色を眺めている彼女の横顔は、ファッション誌の切り抜きみたいに整っていて思わず背筋が伸びた。

 久穏が物心ついた頃からの幼馴染とすれば、柚子は私が初めて自分から声をかけてできた友達だ。確か小二か、小三の頃。

 初めて会ったときは雪兎みたいにふっくらしていて柔らかく優しげな、可愛らしい印象だったけれど――

「なぁに?」

 私の視線に気づいた柚子がはにかむ。そんな仕草をこんな距離で見たら、老若男女問わずコロッと恋に落ちてしまうだろう。私は長年一緒だからこそ耐性できているが。

「別に、なんも」

 ――今の彼女は、透き通るような白い肌はそのままに、スラりと伸びた四肢、栗色に染めたウェーブのセミロング、シャープな顔立ち……イコール完璧な綺麗系女子だ。

「演劇部、行かなくていいの?」

「今は大道具の作業中なんだ。ちょっと休憩で抜けてきた」

「あれ、舞台立つんだよね?」

「うん。でも人数カツカツだからさ、役者もいろいろやんなきゃなんだ」

「ふーん。大変だ」

 小学生の時、柚子は私や久穏と同じテニススクールにいた。というか私が誘って、一緒に通っていた。中学に上がると同時に地元の劇団からスカウトされてそっちに行き、高校ではその劇団に所属したまま演劇部の助っ人として活躍している。

「テニス部、入りたいの?」

「……いや、まったく、全然」

「そうなんだ、入ってあげたら久穏ちゃん喜ぶのに」

「久穏がそう言ってた?」

「言ってないけど……聞かなくてもわかるよ」

 久穏も久穏で中学卒業と同時に――つまりは私と同じタイミングで――両親が経営しているテニススクールを辞め、わざわざ高校のテニス部に入って今こうして、視線の先で体験入部生に素振りを教えている。部としては大歓迎だったそうだけど、ご両親コーチ達とは割りと揉めたらしい。

「耀ちゃん、まだ帰宅部なんだね」

「まあ、ね」

 チクリと、後ろめたさの棘が心に刺さる。私と、久穏や柚子の間には、既に一年の経験という差が開いていることに気づいたからだ。二人とも一つのコミュニティーで一年間活動し、今や先輩という立場。比べて私は……。

「じゃあさ」

 柚子の視線がテニスコートから私の瞳へと切り替わり、右手が彼女の両手で包まれる。白くて、細くて、なのに力強くて、暖かい。

「演劇部、入らない?」

「……はい?」

「私としても勝手知ったるって感じだから安心してお勧めできるし、部としても人手不足だから大歓迎だし!」

 妙に明るく理由を解説してくれた柚子だったが、両目に疑問符を埋め込んで見つめる私の圧に耐えきれなくなったのか、途端にもじもじし始め伏し目がちに進めた。

「……と、いうのは建前でね……私、ずっと耀ちゃんに恩返し、したいと思ってて……」

「……恩って、なんの?」

「私の人生を変えてくれた、恩」

「私はただスクールに誘っただけだよ」

 急にスケールの大きい話になり、私は首を振って答える。

「それがどんなに嬉しかったか。ほら、私太ってたでしょ? みんなから……男子からは特にからかわれててさ、学校行くの……すごく嫌だったんだ。だけど耀ちゃんが声をかけてくれて、同じ場所で同じ時間を過ごせて……すごく幸せだった。冗談とか大げさじゃなくて、本当にね、人生を変えてもらったんだよ」

 これは素なのか、演劇で習得した感情表現なのかわからないけれど、染み込ませるような柚子の言い振りに、少し、涙腺が熱くなった。

「実際に行動したのは柚子だから。私に恩を感じるのはやっぱり違うと思うけど……柚子がそう感じてるなら、ずっと友達でいて。それだけで十分だよ。私だって柚子と仲良くなれて幸せだし」

「耀ちゃん……」

 自ら選択して、行動して、今こうやって活き活きしている柚子に、かつてそのきっかけになったらしい私がウジウジしている姿を見せるの……なんだか申し訳ないなぁ。

「…………まだ、マメ残ってるんだね」

 私の手のひらをさすりながら、小動物でも愛でるように柚子が言う。

「テニスやめてまだ一年だからね。早くターンオーバーして消えてほしいよ。ゴツゴツしてて恥ずかしい」

「そんな風に言わないで。耀ちゃんが頑張ってきた証拠なんだから」

「……」

 私からしてみればこれは、逃げ出したのに拭えない過去がそのまま残っているみたいで、それこそ頑張っていた昔の自分にも申し訳なくなる。

「あれ、なんか久穏ちゃん、こっち見てる?」

 しばらくの間、無言のまま私のマメを撫でていた柚子が、目を細めてコートを注視しながら言った。

「ホントだ」

「こっち来るよ」

「えっ、なにしてるのあいつ」

 素振りを教えていた新入部生達を放置して、漫画ならずんずんという効果音、そして効果線がびっしゃーと引かれそうな気迫を纏い、久穏がこちらへ迫ってくる。

 階段を登っているのに勢いは削がれることなく、むしろ近づいてくる程に加速しているような気がした。

「耀、なにしてるの」

「こっちの台詞セリフなんだけど……」

 私達の眼前で仁王立ちしている久穏は、息一つ上がっていない。この体力お化けめ。

「……こっち来て」

「えっ、ちょ、引っ張らないで」

 柚子の手のひらに包まれていた私の手をもぎ取って、彼女は再び動き始めた。いきなり立ち上がったので転びそうになったが、久穏の体幹は一切ブレることなく私を支える。

「ちょっと久穏ちゃん」

 置いてけぼりになっていた柚子が叱るように声をかけてくれるも――

「ゆずこはついてこないで」

 ――久穏はそれを突っぱね、歩く速度を上げていく。

「……もう……相変わらず強引なんだから」

 困ったように呆れたようにそう零した柚子は、言いつけられた通りその場から動かなかった。

 そういえば久穏の誤読から生まれた「ゆずこ」というあだ名は、柚子自身意外と気に入っていて、それで呼ばれると嬉しくなり大概の言うことは聞いてしまうと随分前に言ってたっけ……。


×


「耀は、相変わらずデリカシーがない」

 どうして久穏がこんなスポットを知っているんだろう。

 連れていかれた先は、校舎の端っこにある非常階段の下のスペース。死角が多くて、二人きりになるにはもってこいだった。……まさかこれもお義姉ねえちゃんの入れ知恵……?

「部活抜け出す久穏は常識が足りないんじゃない?」

「私に足りないのは忍耐。だけど、あんな風にイチャイチャされたら誰だって我慢できない」

「い、イチャイチャ? 手のマメ触られてただけなんだけど……」

「世界はそれをイチャイチャと呼ぶ」

 ……確かに、真剣に練習している視界の隅でごちゃごちゃされたら、集中が途切れてカチンとくるのもわかる。でも久穏の集中力ならそれくらい問題ないはず……まぁでも本人がこう言ってるんだし、ここは素直に謝ろう。

「ん。わかった。今回は私が悪かった。ごめんね。気をつけるから、ね、戻ろう? みんな心配してるよ」

 言ったあとに今度は私の方から手を引くも、久穏の体は石像のように頑なに動かない。

「耀」

「なに――っ」

 呼ばれて視線をやれば、久穏の瞳はじっとりと熱を帯び、明らかにを合図していた。

「ちょ、嘘でしょ。学校だよ。というか久穏は部活中でしょ……?」

「幸い、今なら誰にも見られない」

 この状態になったら久穏はテコでも意思を曲げないことを知っている。よくない流され方をしているなぁと感じつつ、私が返せる答えは一つだった。

「……はいはい、もうわかったから。好きにしたら?」

「わかった、好きに、する」

 観念して直立した私の肩に、久穏の両手が乗る。俯いた私の顔を覗き込んで、久穏の唇が近づいてくる。瞳を閉じてそれを受け止めつつ、慣れることのない微痛に耐える。

「…………」

「…………」

 なんか……長くない? 少し苦しくなってきて、私から彼女を引き剥がそうと、した瞬間――

「っ!!!?!?!!!?」

 ――今まで味わったことのない感触が、温度が、私の唇の上でうごめいた。

「……く、久穏……今あんた、まさか、な、舐め……?」

「す、好きに、した。じゃあ、部活戻る」

「ちょっと、久穏! 逃げるなぁ!」

 あまりの衝撃で足が動かず、今までの石像っぷりが嘘のような俊敏さで駆け出した久穏を追いかけることは叶わない。

 遠ざかっていく彼女の髪から時折覗く小さな耳が真っ赤に見えるのは……夕焼けのせい、なんだろうか。そうじゃないなら……そんなに照れるくらいならこんなことするな、ばか。

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