1話・私の部屋で……。

 机に突っ伏していた頭を持ち上げて、全く手のついていない参考書や白が目立つノートが雑然と広がっている光景をぼんやり眺めつつ、自分が寝落ちしていたことに気づいた。

「……」

 今さっきまで見ていた夢はまだ脳から抜けきっておらず、心臓の痛みも克明に残っている。

「……」

 部屋の外から、久穏くおんと私のお義姉ねえちゃんが話している声が聞こえる。だんだん近づいてくる足音と声音に起こされたらしい。

「それじゃ、またね」

「うん」

 それを最後に二人の会話は途切れ、私の部屋のドアが開く。入ってきた久穏はドアを締めて私を見ると口角を少しだけ上げて笑い、クッションに腰を落ち着けた。

耀ひかり、寝てたでしょ」

「まぁね」

「今日はたくさん勉強するって言ってたのに」

 こんにちはもいらっしゃいもない。私の日常に彼女の日常が違和なく溶け込み、二人の日常が今日も始まる。

「勉強は早々に諦めてたよ。そんで気まぐれに始めたこっちも案外難しくて寝ちゃったってわけ」

「なにそれ」

「やりたいことリスト」

「ふーん……」

 高校生活一年目は結局帰宅部のまま、何をするでもなく、成績が良いでも悪いでもなく、青春を謳歌するでもなく、かといって退屈に嘆くわけでもなく、淡々と終わってしまった。

 怖いと思った。だって、こんな感じでスーンと、平行線のまま山も谷もなく人生が終わってしまう気がする。

 それはそれで幸せなのかもしれないけれど、せっかくなら何か新しいことに挑戦したいとも思って、ありきたりながらやりたいことを書き上げてみるも……。

「ぜんっぜん思い浮かばなくってさぁ」

 海外旅行、スカイダイビング、食い倒れの旅など、書いてあるのは誰でも思いつきそうなものばかり。しかも別にそこまでやりたいことでもない。

「楽しそうだけどね」

 あまりにも寂しいリストを目で追いながら、久穏は馬鹿にするでも褒めるでもなく言う。そう思うならもっと楽しそうって感じを音声表現に乗せてほしい。

「何かをやりたい、というよりかはさ、継続、したいんだよね。例えば新学期から、何かを毎日続けたい。それで何かを積み上げたい。なんでも良いから、毎日、絶対」

 春休みもあと一週間で終わるというのに、随分と悠長なことを言っているのは自分でも痛感している。

「……なんでも、いいの?」

「まぁ、続けば、なんでも」

 こんなに中身のなくて気楽な話題にも関わらず、想像以上に空気が重くなった。その原因は顎に指を添えたまま考え込んでしまった久穏だ。別にそんな真剣に考えなくて良いのに。見つからなかったら見つからなかったで、良くはないけど悪くもない日々がまた続くだけなんだから。

「じゃあ一個、提案」

「はい、どうぞ」

 ようやく動いた久穏は挙手するも、再び停止した。私の目を見つめたまま動かない。赤面はしていないし焦点も定まっているが、私は知っている。こんな具合で石像のように久穏が固まるときは、極度の緊張に見舞われているとき――。

「き……………………」

「き?」

 やがて。最初の一音を発してから、時間止まった? と不安になるくらいの沈黙を超え、久穏は言い切った。

「……………………キス、とか」

「はい?」

 久穏の声量は霞のように薄れていったが、それでも私の耳には届いていた。だのに私が聞き返したのは、もちろんただ単に意味が理解できなかっただけ。

 確かに彼女は空気が読めなかったり世間ずれしているところもあるが、決して常識がないわけではない。

「だからその、毎日……1日1回……キス、するの。私と、耀が……キス、するの」

「……もしもし久穏さん、具合が悪いならもう帰った方がよろしくてよ」

 そんなことを言うか言わまいかで緊張してたのか。えっ珍し。……いや、そうか。私の部屋に入ってくる前に、お義姉ちゃんから何か入れ知恵されたな。じゃないと久穏がこんな冗談言うわけない。

「真面目な提案だから、耀も真面目に、答えて」

 あっ、えっ、どこで? なんで? 久穏の瞳の奥や言葉の中に熱が帯びている。どうしてそんなスイッチ入った?

「なんでもいいんでしょ。私が協力すれば、強制力が生まれて、必ず毎日継続できる。耀の目標を、達成できる」

 こんなに喋る久穏も珍しい。なんだ今日はどうしたんだなにかのサプライズ?

「……いや、それなら手を繋ぐとかでもいいんじゃない?」

 いやいや、私もその返答はおかしくないか? なんだか乗せられて会話が変な方向に走り出した気はしているんだけども……修正の方法がわからない。

「ダメ。ハードルが低すぎるのは意味がない」

 もっともらしい論破で瞬殺され返す言葉を失う。というか久穏の勢いが強い。コートに立ってるときと同じくらいの気迫を感じる。

 ほらあのー私はね、AO入試の面接とかで話せるような経験を……んー、でもそんな経験、やろうと思えばみんなできるのか。

 久穏と1日1回キスは久穏の協力なしでは成し得ないし、過信かもだけどたぶん今現在は私にしかできないことでもある。私がキスってどんなもんなのか興味があるわけではなく……なくはないけれども…… 。

「無言は、肯定」

「ちょ、ま!」

 ずい、と。私に身を寄せた久穏を両手で制しながら、彼女を抑え込める論拠がないか脳をフル回転させた。

「私ファーストキスだから!」

「私も」

 そっかーお揃いだねー、じゃないんだよ! なんて心の中でノリツッコミしていると、久穏は飄々と自分の鞄をあさり始めた。そしておもむろに取り出したリップを塗りたくっている。

「待ってずるい。私もちょっと乾燥してるから貸して」

 しっちゃかめっちゃかしっぱなしの精神状態な私を横目に粛々と準備を進める久穏に、なぜだか悔しさが湧いてきた。どうしてここまで冷静になれるんだろう。さっきまであんなに緊張していたのに。一生に一度の、ファーストのキスなのに。

「やだ」

「なんでよ」

「ファーストキスの前に間接キスなんて味気ないから」

「どういう理屈? 」

「なんか、薄まっちゃう感じがする」

 間接キスなんて星の数くらいしてきたのに、今更何ロマンチックなこと言ってるんだ。……ロマンチックか? ああもういよいよ混乱してきた。

「……」

「……久穏、やっぱり私――」

 一瞬生まれた沈黙を利用して、部屋から逃げ出そうとした私の手が掴まれ、引かれ、ベッドへ放り込まれた。どうしてだろう、流されるままに、仰向けで寝転ぶ。おちゃらけた感じで抵抗したって良かったのに。

「……」

「……」

 久穏も続いてベッドのふちに腰掛け、静かに私の顔を覗き込んだ。昔から久穏の瞳は、私に炎を連想させる。静かに、されど熱く燃え揺れる青い炎。その熱が、私の頬や耳に移ってきたらしい。じっとしていられなくなって、目を逸らした。

耀ひかり、いいよね」

 見慣れた幼馴染の、見慣れない表情。うだつの上がらない昼下がり。窓の外へ逸らした視線の先で棚引く飛行機雲。一面に広がっていた青空が、か細い線で分断されていく。


×


 唇が離れたあと、まぶたを開いた久穏が吐息の混ざる距離で私を見つめている。

 今までの日常には存在しなかった、不思議な空気が立ち込めていた。息苦しいような、それなのに、心地良いような。

 声の出し方を忘れてしまって、体の動かし方もわからなくなった。じんわりと早まる鼓動に飲まれていると、ほんの少しだけ頬を赤く染めて久穏は言う。

「耀、その、キスしてすぐに舌舐めずりは――」

「へっ? あぁ、ごめん」

 無意識に、彼女の唇から間接的に塗られたリップを舌で拭っていた。流石にデリカシーがないと反省しながら、とりあえずファーストキスはりんごの味ってことと、久穏とのキスは、想像以上に緊張するということを咀嚼した。

「――すごくえっちだから、今後控えてほしい」

「なにそれ」

 これもまた冗談だろうか。いや、キス、したんだから、冗談なんてなかった。だから、意味はわからないけれど久穏は真面目に言っているんだろう。

「えと……なんかゴメンね。とりあえず今日で「明日から――」

 少しだけ、怖かった。今までの関係性が、久穏に対する感情が、日常が、未来が、聞いたことのない音を立てて変わり始める予感がして。

「――明日からも、毎日だからね。耀」

 そう言ってようやく私から離れた久穏は、鞄を持ってさっさと出ていってしまった。今日は夜まで一緒に勉強をする予定だったのに。

「……明日、も……というか、これを、毎日……?」

 気持ちの整理ができないまま、なんとなく、指先で自分の唇をなぞった。ふにふにしていて、やっぱり少し、乾燥している。なんてことない人体の一部。なのに。あの瞬間だけ、別の器官のようだった。ここに久穏の唇が触れた瞬間にほとばしった――頭のてっぺんから足の先まで痺れるような――痛みに似た何かは、一体なんだったんだろう。

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