1日1回、幼馴染とキスをする。

燈外町 猶

プロローグ

耀ひかり、いいよね」

 見慣れた幼馴染の、見慣れない表情。うだつの上がらない昼下がり。窓の外へ逸らした視線の先で棚引く飛行機雲。一面に広がっていた青空が、か細い線で分断されていく。

「こっち、見て」

 言われてしぶしぶ視線をやれば、普段は猫みたいに気だるげで気まぐれな久穏くおんが、珍しく見せている、真剣な瞳。

「今度は、逃げないでね」

 頬に添えられた右手。何度もマメを潰して固くなった手のひらは、愛おしいくらいに暖かい。

 ――逃げないでね。

 脳内で絶えず反響する、寂しい声音。そうか、やっぱり久穏、わかってたんだ。わかってて、逃してくれてたんだね。

「……耀、」

 瞳を閉じた久穏は、念入りにリップクリームを塗り込んだ唇を寄せる。

 あぁ、やっぱりずるい。私も……私も、ファーストキスなんだし、それくらいの準備、させてほしかったなぁ。


×


 あぁこの夢、何度見ただろう。何度も何度も再生されているのに、画質は落ちることがない。どころか、見るたびに磨かれて景色は鮮明になっていく。

「久穏」

 ジュニアテニス県大会の決勝は、同地域どころか同小学校、同テニススクールの生徒同士ということで、他のカードよりも注目を集めていた。

 ネットを挟んで向き合う二つの体はまだまだ未熟で、コートがやたら大きく見える。

「そんなに観客席あっちが気になる?」

 私は挑発的に、苛立ちを隠そうともせずに久穏へ言った。

「いい加減にしなよ。コートここには私と久穏しかいないんだよ」

 言いながらも、わかっていた。

 久穏にのしかっている期待プレッシャーを。その細い手で握りしめたラケットに、どれだけ努力の痕跡を染み込ませてきたかを。その実力を発揮できないで一番苦しんでいるのは、誰かを。

 わかっていて、それでも私は吠えた。負け犬になってもいい。最高の舞台が、最後の舞台が、こんな消化不良で終わってたまるか。

「私だけを見てなよ」

「っ……」

「私だけを意識しなよ! 他のことなんて全部忘れて! 今までの全部を、この瞬間にぶつけてよ! そのために私は……本気の久穏に勝つために私は、今日まで生きてきたんだよ!」

耀ひかり――」

 私は試合でも練習でも、室内コートが好きだ。なぜなら外は風の影響を考えないといけないし、雨が降ったら最悪だし、体温調節も気を使う。

 だけど、たまには野外コートも悪くない。久穏のこんな――太陽の光を真っ直ぐに受けて、見ているこっちが恥ずかしくなるくらいの清々しい――笑顔を、見ることができたから。

「――ありがとう」

「目、覚めた?」

「うん。……そうだね、もうどうでもいいや。耀としかできないこと、ここでしかできないことを……楽しみ尽くす。それだけ」

「そうこなくちゃ」

 そうしてたがが外れた久穏は、彼女の大好きな攻撃的なテニスへ切り替えた。両親コーチの指示を無視して、ただ、楽しむためだけに。けれど今この瞬間こそ、彼女のベストパフォーマンスであることは体の動きや球威で一目瞭然だった。

 何度も何度もデュースを繰り返して、お互いに膝が笑って、ラケットがすっぽ抜けるくらい握力も使い果たして、観客が飽きてきた頃ようやく私が勝利を収める。そう。この試合は、この夢は、私が久穏に勝った、最後の試合。

 この試合を機に完全に吹っ切れた久穏は、チームメイトもコーチもライバルも置き去りにする速度で進化を始めた。

 彼女がテニスの道を選んだことで、テニスの神が彼女を選んだとしか思えない、圧倒的な成長振り。

 そして情けないことに、その速度はやがて私をも引き離し、付いて行くことを諦めざるを得なかった。

 幼い頃からずっと、久穏と一緒に切磋琢磨してきたテニススクールを中学卒業と同時に辞め、高校では帰宅部に。

『他にやりたいことを探したい』と、マシな言い訳も思い浮かばず適当に言った私へ、「そっか」と小さく微笑んだ久穏の表情が浮かぶ。視線を落として彼女が笑うときは、何かを堪えるときの癖だと私は知っていて、見て見ぬふりをした。

『ごめんね、久穏』

 その言葉を零すと同時に、罪悪感なのか、後悔なのか、重たくて鋭い痛みが心臓に突き刺さって――いつも、この瞬間に目が覚める。

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