第8話
かやが自分の兄に問いかけると、彼は小さく引きつった悲鳴を上げただけで動けなくなっている。かやに兄の顔はよく見えない。しかし熱を感じるのだ。跳ね上がった鼓動に誘われるように早まる呼気、そして冷や汗で冷えていく体の表面とは逆に熱を上げる体。それを感じたかやは自然と笑みを浮かべていた。
やっと手に入る、と伸ばした腕が弥太郎に届く前にかやは地面に付していた。訳が分からなかったが、自分の体から酷く濃密で甘く香しい酒精の香りがしている。ポタリ、と垂れて来た雫が口に入るだけでかやの意識は朦朧としかけた。そこで正気を保っていたのは、かやの体が人間のものだったからなのか、もっと別の理由があるのかは分からない。それでも弥太郎の近くに集まる気配に自分は罠に嵌められたのだと気付いた。
「カガチにしちゃあ警戒心が足りねえんじゃねえか」
「それどもそんた事気にする余裕もねがったのか」
「ぅ、あ……」
誅の姿を見てかやは弥太郎を返せと言う。確かにかやに兄もみつもいなくなったと聞いたのは誅だ。しかしそれは、かやが人間だと思っていたからだ。すでに人間ではないモノがかやの姿を借りている時点で彼女の望みは誅に聞き届けてもらう事はできない。
それでも何かのたがが外れたように呟いていたかやの猫目の中で白く変化した瞳孔が開いていく。赤く染まった白目から流れた涙は落ちた場所を己の目と同じ色に染める。
「おにいさ……かえして……」
「断る」
「よた兄……かえしてよ……」
「おめがいだ内は帰されね」
「かえして……かえして……かえして……」
誅の姿を見てかやは弥太郎を返せと言う。確かにかやに兄もみつもいなくなったと聞いたのは誅だ。しかしそれは、かやが人間だと思っていたからだ。すでに人間ではないモノがかやの姿を借りている時点で彼女の望みは誅に聞き届けてもらう事はできない。
それでも何かのたがが外れたように呟いていたかやの猫目の中で白く変化した瞳孔が開いていく。赤く染まった白目から流れた涙は落ちた場所を己の目と同じ色に染める。
「カエセェ!!」
「ひっ」
まるで悲しみを吐き出すように吠えたかやの体が持ち上がった。その様に弥太郎は腰を抜かして尻もちをついてしまう。彼は暫く自力で逃げる事は出来ないだろう。
形相の変わったかやに対して思わず自分の得物を構える誅とあかがねだったが、かやはそれ以上動かずただ荒い息を吐き出して真っ赤な涙を流している。
「……誅、中のカガチだけ斬れるか?」
「祓いだばできる。あの酒どこ貸してけれで」
「おう」
かやから目を離さず、誅はあかがねに渡された竹の水筒に入っていた酒を己の刀に振りかけた。一層強く酒精の香りが辺りに散らばる。空に舞う酒の香りは、振り撒いた張本人である誅とあかがねすらも一瞬自分が酩酊したのではないかと錯覚させる程強い。
二人よりも強く酒精に纏わりつかれているかやは一瞬顔を歪めたが、襲い掛かってくる事も逃げる気配も無い。もしかしたらできないのかもしれない。しかしそれでも何があるか分からないため、誅はすぐに斬りかからずにかやの動きを見る。その時間はほんの一呼吸だったかもしれないし、月が動くくらいの時間だったかもしれない。張りつめていた緊張の糸はかやが力なく頽れるように膝をついた事で断ち切られた。
「……斬られてもいい」
「は?」
「斬られてもいいから、最期にあのひとと逢わせて……あのひとを返して」
力なく座り込んで俯いたかやが見た目にそぐわない大人びた声でか細く言葉を紡ぐ。ゆっくりと持ち上がった顔は痛々しいほど悲壮感に染まっていた。思わず誅の刀が揺らぐが、かやはその隙を見ても動かない。
「返して……返しておくれ……」
「さっきがら何返すってよ」
「あのひとを、返して…そこな人の子が持って行ったあのひとを……」
「あのひと……?」
ただただ返せと繰り返すかやに誅もあかがねも首を傾げる。そしてかやが指した人の子である弥太郎をみるとガタガタと震えながらあかがねの服を握っていた。
「弥太郎、お前何かしたのか?」
「し、しらない!!」
「嘘……うそ……ウソ……山が崩れた後の日……人の子はあのひとを持って行った……だから余はこの子に力を借りたのに……」
「知らない!!ヘビはかやから出てけよォ!!」
ほろほろと涙をこぼし始めたかやと取り乱す弥太郎に誅もあかがねもどうしたものかとオロオロし始めてしまう。かやに入っているモノを退治しに来たのに、こうなる事など誰が予想できただろうか。抵抗はされども、切願されるなど予想外の事だ。
「ヘビ…ヘビ…そう、余はヘビだった…ヘビの性も残っている…でも、もうヘビではない」
「ウソだ!!ヘビだって!!ヘビだって言ってた!!」
泣きそうになりながら叫んだ弥太郎の肩をあかがねが思わず掴むと、その勢いに弥太郎はビクリと固まってしまう。
「弥太郎、ヘビだって誰から聞いた?」
「あ……う……」
「誰から聞いたんだ?!」
肩を揺するあかがねの勢いに弥太郎の目から涙が零れ始め、それを見た誅が止めようと少し動いた所でその動きは止まってしまう。正確には背後から誰かに止められた。
バシャリと音を立ててかけられたのはあかがねが手に入れて来た酒だ。分かっているならば問題ないが、いきなり浴びせられるとその強い酒精に狂わされてしまう。思わず刀を落として膝を着いた誅が背後を見ると、みつが思いつめたような表情で立っていた。
「みつ……」
「誅にいちゃんもあかがねもすぐにかやちゃんを助けてくれるって言ったのに!家に帰れるって言ったのに!何でまだヘビと話してるの?!」
「おめこそなして来た」
「だって……っいいもん!!二人がすぐに助けてくれないなら、みつがかやちゃんを助ける!!」
止める間もなく、みつは誅が落とした刀を拾い上げてかやに迫る。ぎょっとした誅が止めようと手を伸ばしたが、みつは驚くほど素早かった。持ち上げる時だけは重そうに引きずられていた誅の刀をだが、尋常ではない力でもって刀を担ぎ上げたみつはかやめがけて刃を横薙ぎに払う。少し走った勢いと刀の遠心力は振られた刀をより鋭くするだろう。
「ああ……口惜しい……」
かやが涙を流しながらそっと目を閉じる。きっともう目を開く事はないだろう、そう思っていたのに何か大きいものがかやの腹に当たってその体を突き飛ばす。迫っていた刀は何も斬る事は無く、払われた勢いのままみつの手を逃げて近くにあった木に突き刺さっている。
急な衝撃に驚いたのはかやだけではない。かやに突っ込んだものを見た誅もあかがねも、そして弥太郎やみつも固まっていた。かやは思わず、己の腹にのしかかる熱を見るとそれは荒い息を吐きながら気の抜けたように笑った。
「間に合ったぁ……」
人間とは異なる姿になったかやを恐れる事無く笑いかけた子供は小さく震えている。その笑顔は普段と何も変わらないが、いつもよりはっきりとした意思が浮かんだ目が固まっている四人を見た。
「いと……」
思わずあかがねが名前を呼ぶと息を整えたいとがかやの上からどいて、両手を広げてかやを背後に隠す。そして首を横に振った。
「ミノヌカヅキ様は斬っちゃだめ」
「みのぬかづち……?」
いとの呼んだ名前に誅とあかがねは首を傾げるしかできないが、弥太郎とみつは緊張するように体を固くする。そして目の前の小さな背を見るしかできないかやだったが、いとの言葉を聞いて息を飲んだ後に思わず嗚咽を零してしまう。するといとの着物の裾から小さなヘビが落ちてきて、小さな体でかやに静かに寄り添ったのだった。
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