第20話 海外留学は突然に
次の日の朝、普段であれば、小鳥の囀りのように聞こえるベルの音が、今日だけは頭の中にずしんとくるように重々しく響いた。夏帆は一瞬、この電話を取るべきか否か悩んだ。もちろん、取らなくてはならない。しかし、取ってはならないと、心の中のもう一人の自分が言っている。受話器に重ねた右手が重たかった。
「はい、高橋です」
「マランドール、浅木です」
夏帆は電話口で眉間に皺を寄せた。
「校長がお呼びです。今すぐ校長室前まできて」
「校長先生が?」
「ええ、急いで」
夏帆は受話器を置くと、制服に着替え、マランドールのマントを羽織り、校舎へと急いだ。
校長室は、校舎の2階にあった。そこにあるということを夏帆は知ってはいたが、行ったことはなかった。浅木の指示通り、校長室と言われる場所に行くと、ただの壁が続いているだけだった。そこには扉もなく、魔法薬を作っている壁画が彫られている。壁の前で浅木が待っていた。
「ああ、マランドール」
浅木は安心した顔をすると、息をふっと吐き、壁を軽くノックした。壁画の魔法使いは鍋を煮込むように動いた。暫くすると、黒く鶴形紋様の両開き戸となった。
「すごい」
「まだ国交があったころ、イギリスから取り入れたセキュリティなのよ」と浅木が説明した。
「浅木です。マランドールをお連れしました」
ドアノブが顔型となり、けたたましくしゃべりだした。
「ご苦労。マランドール、中へ。浅木は下がりなさい」
深くしゃがれた男性の声だった。
「失礼します」
そういうと夏帆は重たいドアを開き、中へと入った。一番窓側にやわらかそうな椅子と机があり、その手前に来客用スペースがある。床には赤い絨毯が敷かれ、部屋全体は気の温もりを感じる茶色で統一されていた。
ソファーの上座には、染色された黒髪を七三に分け、ピシッとした黒のスーツを着た初老の男性がいかにも不機嫌そうに座っていた。手前側では白髪交じりの校長がやはり困った顔をしている。
夏帆は深々と頭を下げた。こういったことは苦手だったが、学校の顔をとして、一通りの所作は必要だった。
「座りなさい」
「ありがとうございます」
夏帆は校長の手前のソファーに腰かけた。
「こちらにいらっしゃるのは、魔法省外務局局長の高月正成様。普段は国際魔法使い連盟および在英日本大使館で大使を務められているお方である」
「局長様!」
夏帆は驚いて、一礼をした。しかし、高月局長はこちらを一切向こうとせずに、タバコを懐から出した。校長はさっとライターの灰皿を差し出した。
「しかし、なぜ、局長様が?」
「まずはこれを」
校長は懐から赤い封筒を取り出した。
―赤紙
日本は戦争をするつもりなのか?校長は杖を一振りすると、封筒から白い便箋が出てきた。便箋は1人でに開くと宙にふわふわと浮いていた。
「英語は読めるね?」と校長。
「はい」
「優秀な学生なことだ」
局長はたばこをふかしながら言った。
高橋夏帆殿
私はエジンバラ魔法魔術学校校長、アーサー・ロウエルです。大変優秀だと高名な高橋殿にはぜひともわが校で魔術を学んでいただきたく、今回筆を取ることとなりました。現在4年である高橋殿、および日本魔法魔術学校には大変、ご迷惑をおかけすることとなりますが、ぜひともこの年寄のわがままを聞いていただきたく、よろしくご検討くださいますよう、お願い申し上げる次第です。
夏帆は一度では理解しきれず、何度も手紙を読んだ。
「留学?」と夏帆。
「そういうことだ」と高月は言った。
「私が?イギリスに?国交ないですよね」
「国交なくとも、相手が良いと言っているのだから良いのだよ」と高月は言った。
この人は、学生の安全面を考えないのか、と夏帆は憤り、こぶしをぎゅっと握りしめた。
「それにしてもなんで、私のことをまるで知っているかのような口ぶり」
「何で君の噂を聞きつけたのかわからないけどね、優秀だから来てほしい、だなんていうのは体の良い嘘といったところだろう」と高月は言った。「本音は我が国の動向を探りたいのだ。ロウエル氏は各界への影響力が大きく、校長とはいえ、様々な決定権を持つと言っても過言ではない。ダメ元で要請したのだろうが、我々がわかりやすい手にのるわけがない。逆に言えば、これは何か別の意図をはらんでいる」
局長は煙草を灰皿に押し付けた。局長は眉間に皺をよせ、威圧的に言い放った。
「我が国では外国への外交、スポーツ目的以外での渡航を認めてはいなくてね。今回は例外を認めようと思う」
「えっ?」
「相手から餌を出してきたなら釣られるまで。君には、早期卒業制度を利用してもらう。7月に行われる卒業試験を6年生と一緒に受けるのだ。それが終われば社会人。これがどういうことか、奨学制度を使う君にはわかるだろう?」
高月はニヤリと笑った。
「外交官として私を派遣するということですか」
「外交官?もっと適切な言い方をしたまえ」と言って高月は笑った。
「私が留学を断ったら?」
「君にそれができるというのか?」
局長は身を乗り出した。
「向こうに貸しを作るまたとない機会。それを拒んだ埋め合わせは君にしてもらうことになる。君は、国民の血税で今ここにいさせてもらっているんだ。その恩に報いる時が少し早まったというだけだ。君がこの誘いを断るのは、日本国民が許さないだろう」
「急なことですので、少し考えさせてはもらえませんか?」
「いいや、今ここで返答願う」
「そんな……」
私にメリットは何一つないではないか。しかし同時に、留学に行きたいと思う自分がいる。あの場所に、イギリスに、もう一度戻らなくてはならないと思う自分が。
「今日本は国際魔法使い連盟のC5入りを目指している。障壁となっているのがイギリスだ。アーサー・ロウエルに取り入れば、念願が果たせるかもしれない。日本では無名でも、イギリスでは知らない者はいない大魔法使いだ。さあ、どうする?日本国のために留学するか、逃げるか」
「逃げる?」
「君は、逃げているんだよ。失敗を恐れ、周囲から非難されることが恐ろしくて」
「そんなこと思っていません!」
「じゃあ、同意できるね?」
夏帆は口をつぐんだ。校長に救いを求めたが、彼は目をそらした。
高月局長が杖を一振りすると留学同意書とペンが夏帆の目の前に現れた。大切な時に魔法を使う局長に、夏帆は嫌悪感さえ覚えた。魔法使いとしての誇りを持っているはずなのに、最近は魔法が嫌になっている。
夏帆はペンを取ると、署名をした。
「どうも」
局長はそれだけ言うと、瞬間移動をして帰っていった。
夏帆は校長室を出ると、J.M.C.の居室へと向かった。
「どうしたの、夏帆?そんなに急いで」
美咲はミディアムパーマヘアに髪型を変えていたが、そんなことに気にしている暇はなかった。
「直人に用がある。美咲も来て!」
夏帆は急いで会長室へと駆け込み、今あったこと一通りを話した。
「留学!」
直人と美咲は声をそろえた。
「でも、そんなやり方卑怯よ」と美咲。
「いいや、イギリス側から留学を提案したということ自体嘘かもしれない」と直人。
「どういうこと?」と夏帆。
「日本政府がロウエルに手紙を書かせたのだとしたら?夏帆をスパイとして送る口実を作るために」
「大魔法使いと言われる人物が、そんな罠に乗る?」と美咲。美咲のいうことはもっともだった。二人とも話題にこそ出さないが、昨日のこと、J.M.C.と自分たちの未来への不安でまだ頭でいっぱいなことは明白だった。何か別の話題を探しているかのようにみえた。
「直人の言うことが本当かも」と夏帆は言った。「だって、ロウエル氏に何のメリットもない話じゃない。一見ありえないけど、そう考えるのが一番正しい気がしてくる」
「これは仮説なんだけど」と直人は言った。「打倒ロビン・ウッドのために夏帆を必要としているとか」
「ロビン・ウッドって死んだって噂じゃない?」と美咲は言った。「ずいぶん昔の人でしょう。そろそろ死ぬんじゃない」
「重病っていう噂も、不死身という噂もある。とにかく実態が不明で何もわかっていない。でも最近、ロビン・ウッド一派が活動を再開させている」と直人。
「でも打倒ウッドだったとして、私である必要性は?向こうに手札はないの?」夏帆は言った。
「ロビンと戦って勝ったと伝説の残る少年ならいるよ」と直人は言った。「なんていう名前だったかな」
「ピーター・エバンズ」美咲がつぶやいた。
「そうだ。ピーター・エバンズ。でもまだ子供だろ。17歳だろ」
「同い年なんですけど」と夏帆は言った。
「とにかく」直人が言った。「こちらで一通り調べてみるよ」
「ありがたいけど、そんなことできるの?」夏帆が言った。
「竹内家を舐めないでくれ。局長だなんて序の口さ。こちらは総裁だ」
死んだけど。それに今は火中の栗だけど。
夏帆は目線を落とした。ふと、直人の足元の靴に目がいった。ライオンのマークの革靴。どこかで見たことがあった。
頭が急にクラクラとし始めた。そこは、一年の時に訪れたあの場所だった。J.M.C.に居室入る扉の前だ。
入口の扉は少しだけ開いていた。中にいたのは年老いた男性と美しい銀色の髪をした初老の女性。ソファーに座って何かを話し込んでいる。あの時はそれが誰だかわからなかった。確認をする前に扉は閉められてしまったのだ。
でも、今ならわかる。そこにいたのは竹内義人と彩野文。
「これ以上J.M.C.に協力はできないわ」
「組織を抜けるというのかね?」
そして、あの時、ドアがピタリと閉まると同時に部屋から銃声が聞こえてきた。彩野文は確か夏帆が一年のころ、心不全で亡くなっている。副校長の死で学校は大騒ぎになったのだ。
あの時のようにドアはやはり少しだけ開いている。もうすぐ夏帆の後ろに誰かが来て、扉をピタリと閉め、銃口を夏帆の後頭部に向けるだろう。『振り向くな。命が惜しければ、今すぐここから立ち去れ』と言った人物は誰だったのだろう?あの時は、恐ろしさのあまり逃げ去ったが、今度こそは……。
夏帆は恐る恐る振り返った。
「夏帆……?どうかした?」
夏帆は会長室にいた。直人が夏帆の様子を心配して声をかけた。
一体さっきのは何だったのだろう?まるでタイムキーを使ったかのように、記憶の旅をしてきたかのようだった。
「ちょっと休憩しようか」と美咲は言うと、夏帆を連れて会長室を出た。
美咲はカウンターからカップを二つ受け取ると、夏帆をソファーへと促した。
「やっぱカプチーノでしょ」
美咲は笑った。
「カフェあるの、やっぱり何度見てもすごい」
「昔、J.M.C.は弱い奴ほど群れる集団って言われてたんだ。けど、人間界の政治家のご令嬢が入ったことによって変わった。J.M.C.の評判を上げるために奔走したの。始まったことの一つが、引き回し」
「先輩、お披露目です」林が訂正に割り込むと、失礼しました、と言って二階へと上がっていった。
「ようは、毎回秋のはじめに、幹部会が校内を練り歩くでしょ。あれを考え出したの。威圧感が高まるんじゃないかって。それで、その子が作ったものの一つが、このカフェ。当時はいちごラテが絶品だったみたい」
美咲はニコリと笑った。
「ところで、あなた本当に留学したいの?」
「どういうこと?」
夏帆は探るように尋ねた。
「留学の話、今ならなかったことにできると思うけど?」
「無理しなくていいよ」と夏帆は言った。
「うちら舐めるなよ。警察なんてこやしない、そのうち話は静まる。きっとそうだ」
談話室には新聞紙がおかれていた。城ケ崎コーポレーションの取引先が様々な理由をつけて次々と撤退してることを告げるニュースが一面に載っている。皆怖いのは噂状態の時なのだ。真実が確定していない時、人は判断を急ぐ。
「留学は自分で決めたこと」夏帆は言った。
暫くすると直人が資料片手にやってきた。「留学の件、一通り調べてみたが日本政府側からの交渉は一切見受けられなかった」
「どうやってこの短期間で調べ上げたの」
夏帆がいぶかしがった。
「だからいっただろ、竹内家の情報網はまだ機能している。日本政府がエジンバラ校に留学を頼んだのではなく、向こうから来てくれるようにとの要請があったということだ」
「なるほどね」美咲は顔をしかめた。
「日本は技術でイギリスに勝っているし、人材と情報の流出を避ける意味でも留学はなるべく避けるはずだろ」と直人。「ロビン・ウッドの件で、イギリスの発言力が弱まっている。日本政府としてはC5入りを目指して今を狙いたい。そんな時、思わぬ形でイギリスに貸しを作らせた。だからついでに夏帆をスパイとして送り込む。失敗してもロウエルの見る目がなかったって話だし、何より夏帆の責任にできる」
「にしても、あのプライドの塊みたいな国が向こうから来るなんて異例中の異例。それだけイギリスは焦っているの?散々馬鹿にして、戦争を吹っかけようとして、C5入りを認めさえしなかった日本に頭を下げてくるなんて」美咲はふっと力なく笑った。
「それに、これにはもう一つある」と直人は夏帆を見て言った。
「日本政府は今回の留学について、人物選考を行っていない。君が優等生だから選ばれたんじゃないかとも思ったが、それは全く違う。つまり、イギリス側がわざわざ君を指名したんだよ」
「手紙にもそう書いてあった。私指名だった」
「他の誰でもない、君に来てほしかった」と直人。
夏帆は顔をしかめた。
「どうしてそんなこと……。世界中には何百カ国もの国があって、何万人もの魔法使いがいるのに、どうして日本?どうして私?」
直人は首を横に振った。
「わからない。心当たりは何かないのか?例えば、イギリスに縁があるとか」
夏帆は体をピクリと震わせた。
「何も……」
会長室の電話が鳴っていた。直人は電話を取りに、部屋へと戻っていった。
「美咲、またそのうち利用されるよ」
夏帆は直人が会長室に入ったことを確認してから、美咲の目をまっすぐ見て言った。
「利用される?」
「わからないの?過去の殺人がばれた時、直人は決して助けてはくれない」
美咲はクスッと笑って温かいカプチーノを一口飲んだ。
「使えない者は殺される」夏帆が忠告した。
「だろうな」
「だろうなって」
「心配してくれてありがと。あなたの言う通り、私たちはまた利用される。でも、そんなこと皆わかっていること。J.M.C.から永遠に離脱する選択もできたのに、私は一度ここを離れ、また戻ってきた。なぜなら……」
美咲は頬に笑みを浮かべた。
「好きだから。ここのメンバーが好きだから。J.M.C.という組織が好きだから。何があっても、この組織に残って、皆を守る。それ以外、私の気持ちに説明はつかない。私も正直なところわからない。でも、私はここに残りたい」
「狂ってる」
夏帆がそういうと、美咲は笑った。非日常が日常となった今、そうする他選択肢がないのだろう。
「じゃあ、あんたはどうしてイギリスに行くの?日本政府に利用されることぐらいわかっているんのでしょう? J.M.C.が一言政府に言えば、この話をなかったことにすることもできるのに」
「私に利用されているっていう感覚はないけどね……最後は私が決めたことだし」と夏帆は言った。それに犯罪と並べてほしくない。
美咲の探るような目と不気味に上がった口角は夏帆の脳内をえぐるように駆け回った。
―確かに私はなぜ行こうと思ったのだろう
「いくらでも利用されてやるわよ」美咲はそう吐き捨てた。「私はそう思っている。結果はどうなるかわからないけど、自分の意思で選択している。だから私は誰になんと言われようとここを離れたりはしない。その結末が逮捕ならそれでもいい。きっとあなたが留学するのも、そんな理由なんじゃない?はっきりしなくて当たり前。一種の勘のようなもの。結局なるようにしかならないのよ」
「なるようになる、か」と夏帆は腕を伸ばした。
夏帆はマランドールの館へ戻ると、温室へと向かった。
「あれ……海斗いないの?」
「やめさせました」
後ろに中谷が立っていた。
「なぜ」
「あの子のご両親が死刑囚とわかったのです」
「え?」
「父親が母親を殺した。それで身寄りがなく、孤児院に住んでいたそうです。見た目や名前を変え、職を転々としていたようで」
夏帆はなんと言えばいいかわからなかった。
「次の行き場所は押さえています。領域の外に出るようです。それにしても、域外にでるからって、生活一時金までもらって……」
「なんで」
「なんで?当たり前でしょう。ここは教育機関です。居場所を追っておかないと、生徒に危害が及ぶ」
「そうじゃなくて、なんで追い出したんです。海斗は犯罪者じゃないのでしょう。子供にまで責任を負わせる必要が?」
「それだけではないのですよ」
そういうと、中谷は、3つの試薬を宙に浮かせた。その中には倉庫で見つけたと言っていたあれもあった。
「これ、盗んでいたのです。私にはこれだけ見て何をしようとしていたかはわかりません。しかしながら、盗みは盗みです。警察に突き出さなかっただけありがたいと思ってもらわないと」
その試薬から、明らかに毒薬を作ろうとしているのだけは確かだと、夏帆にはすぐわかった。誰を殺そうとしていたのだろうか。
「それなら仕方ないですね」と夏帆は力無げに言った。
「それにしても、犯罪者の子供が、そうやすやすと生きていけるだなんて」
中谷さんはそのような愚痴をずっと言い続けていた。中谷さんが文句を言うことも仕方ないことだとわかる。誰もが生きることに必死なのだ。ただ、犯罪者の子供が生きてはいけない理由などないし、誰もが犯罪者になってしまう可能性がある。それに、一時金も、その名の通り一時的に生活を成り立たせるためのもの。身よりも戸籍もない域外で生きていくことは至難の業だ。むしろ一時金が出るなど生活の保障がされている日本政府には感謝すべきだ。これも、人間界の政府から、第二次世界大戦による損害金を受け取ったからこそ。そのおかげでインフラを立て直し、産業を育て、安定的に成長できる国になった。だからこそ、社会保障がそろっているのだ。
しかし、この損害金の受け取りがあったからこそ、日本は戦争に加担したことを認めたと国際的に非難され、現在の鎖国にいたる。もしC5入りしたら、何か日本に良いことがおきるのだろうか。これから自分がやろうとしている仕事はとてつもなく複雑だ。そう思うと、夏帆はため息しかでなかった。
夏帆は手続きに忙しかった。何枚もの書類を書き、署名捺印をした。次期マランドールに竹内夏海を指名し、引き継ぎの儀式を行った。英会話の特別講師がついたが、夏帆はほぼ完璧で講師を驚かせた。
忙しい毎日を過ごし、夏帆は竹内直人の姿を見かけないことに気がついていなかった。あれから公安からも連絡が特に来ていないことも、ある程度時間が経ってから気がついた。
「やっと気づいたの」と夏海は笑った。「兄は学校にずいぶん来ていない。このままじゃ卒業できないわね。そっとしといてあげて。今誰にも会おうとしないのよ。あ、生きているわよ」
「何があったの」
「それ聞く?」
「ごめん」
「魔術院からの入学辞退要請が出たのよ。それで辞退したの。兄は外交に興味を持っていたから、その道を絶たれてショックを受けたみたい」夏海は笑った。人は本当に恐怖を感じているとき、笑うらしい。
「やっぱりJ.M.C.のことが?」
「尾を引いてるかって、そうでしょうね。渡辺さんはかろうじて内定取り消しをまぬがれたみたいよ。企業はそのあたりしっかりしているわよね。疑わしきは罰せずというか」
「美咲は?」
「花森さんは医者だからね。特に問題なし。そのまま花森病院への勤務が決まった。しばらくは医者資格取得のための国家試験で忙しそう。学校にいても、後ろ指を刺されるだけだし、家で缶詰になっているみたい。たぶん、今は何も話せないと思う。」
「よろしく伝えておいて」
「わかった」
夏海はため息をついた。
「ようやくあなたを消せた」
幾分悲しみと優しさを含んだ声で言った。
「そうだ。高橋さん、魔法薬好きでしょ」
そういうと、夏海はトランクを夏帆に手渡した。
「これは?」
「魔法薬キットA。全ての魔法薬と魔法薬材料、レシピ、器具が入っている」
「ポーションプリンスに売っているやつ……。こんな高価なもの」
夏帆は夏海に返そうとしたが、夏海は受け取らなかった。
「今までのお詫びも含めてだから」
夏海はにこりと笑った。
「あなたに初めてあった時、なんで孤児院のことがわかったのか不思議に思ったでしょ。あれは私のやり方。敵が生まれたら、まずその人の心の中に入る。そして、その核に迫る。そうやって弱点を見つけ出し、さらに傷をつける。あなたの弱点は孤児院の院長先生。だから、あなたの過去に入り、過去を変えた。あなたの目に、あなたの両親の画像をほんの一瞬見せた。そうするとフラッシュバックを起こす。あなたは院長室に行くたびに、過去の経験を思い出す。タイムキーと同じ要領よ。ただ身体はそこへは行っていない。精神だけの世界」
「そんなこと……」
「できることにあなたはもう気が付いているでしょう?イギリスに行った時の護身術として覚えておいて。大変なこと絶対あるから」
「これ以上大変なことないよ」
「そうかしら?私からすれば、あなたはかなり成長している。成長すればするだけ、また新たな壁にぶつかる。勉強という意味ではなく、人としてね」
「あなたに言われたくない」
そういうと二人は笑った。
「あなたは私のことが嫌いで、それはこれからも変わらないでしょうね。どんな過去があるにせよ、あなたに対してしてきたことは間違っていた。でも、もし私が力になれるなら、手を貸す。同じ夏が付く者どうし」
『助け合って』
二人は同時に言うと、再び笑った。
「連絡することはないかもしれない」と夏帆は言った。
「それでいい。私はこうすることで、私の罪が赦されたような気がする。それでいい」
留学前日、夏帆は校庭を歩いていた。こうしていると思い出すのだ。夏海と戦い、リサと笑った日々を。こうしていると気がつくのだ。J.M.C.が通ると、皆が避けていることを。
「靑木君」と夏帆は言った。
「せっかくJ.M.C.入ったのになあ」と靑木はつぶやいた。
「結構大変なの?」
「寮や食堂きてないとわからないだろ。避けられたら噂されたり、無視されたり、散々だよ。一斉に取引を中断されて親の会社が潰れたって子もいるし、林さんのお父様は政治家なんだけど、最近政務官を外された。城ヶ崎さんも留学を辞めて帰ってきて、会社の立て直しに奔走しているらしい。君は入会しなくて正解だったよ」
人の死、特に義人という権力者の死の与える影響力の大きさを夏帆は初めて実感した。
「あーあ、俺のこと知らない人間界に就職するしかないかねぇ」
「何になりたかったの?」
「え、俺?お金持ち。あと、歴史に名を残すこと」
夏帆は苦笑いした。
「俺、気づいたんだよね。竹内春人が東京を魔法界の拠点にした理由。きっと、人間界で陰陽師を再興させることじゃないか。だから京都じゃなくて東京。その竹内家も没落したけどな」
青木君は悲哀の目をしていた。
「諸行無常だよ」夏帆は呟いた。
「俺の言ったこと覚えていたんだ」
「わたし、最近ようやく青木君の言っていたことがわかった。陰陽道は最強の魔術だと思う」
「だから、魔術じゃないって。最強の術、いや道なんだよ。茶道と一緒。道なんだ」と靑木。
「天地人。この世をつかさどるものに意識を向ける。自然信仰。決しておごらない。この姿勢を忘れなければ、きっと……」
「きっと、イギリスでもやっていける?違うよ。イギリスが君を必要としている。同時に君もイギリスを必要としている。人じゃない。土地だよ」
夏帆は何も答えなかった。
「陰陽道は大地を味方につけるんだ。そこに必要なのは想像力だ。世界を感じる想像力。だから、あらゆる魔術、つまり人為的に発生した力は、陰陽道の力を凌ぐことができない。気配さえも消す。君のセンサーも感知できない」
「陰陽道の防衛力を破るのは陰陽道のみ」
夏帆は竹内家を思った。青木君は様々な思念を巡らせているようだった。夏帆が何かのヒントを与えたのではないか、と青木君は考えているようだった。
「じゃあ、一つ防衛呪文を教えるよ。お金ないから、俺からの餞別ってことで。こうやって、二本の人差し指と中指を立てて、刀に見立てるんだ。後は、この刀を縦や横に動かしながら呪文を唱える。刀で空を切るというのをイメージして。僕のを見てて」
そういうと、青木君はふっと息を吐いた。次の瞬間どっと風が吹いた。
「臨兵闘者皆陣列在前」
青木君は何やら光に包まれ、空気の層ができていた。しばらくするとそれはすうっと消えた。
「どういう意味?」
「ああ、呪文?臨む兵、闘う者、皆陣列べて前を行く。つまり、戦に臨む兵隊や戦闘をする者、全員が陣体を作って敵に対峙するって意味だよ。この呪文、僕もまだ練習中なんだ。竹内夏海先輩とかはもっとすごいよ。自分だけじゃなくて、自分の周りの建物までも包囲したんだ。それがなかったら、僕は死んでた」
「えっ?」
「1年の時、いざなぎ流に襲撃に巻き込まれたことがあったんだ。竹内家の関係者だったらしい」
夏帆は何も言うことができなかった。いや、なんと言えばいいかわからなかった。聞きたいことは色々あったが、話が長くなりそうだったし、何から聞けばいいかもわからなかった。
「あの時、夏海先輩の何かが変わったんだ。精神的な何か。外に現れるようなものじゃないよ。そこで僕は気づいた。先輩は演じているんだって。本当は、誇り高く義理堅い、賢い人なんだってことに。ちょうど、小道先輩みたいな」
「気が付いてくれる人がいるだなんて、夏海さんは運のいい人」
「もしかして気が付いていたのか?」
夏帆は頷いた。
「僕にも君に勝てる部分があったと思ったのだけど。塔底及ばないみたいだ」
夏帆は笑った。
「でも、西洋式の守護霊の呪文も好きだ。陰陽道の式神と同じだったりする。面白いだろう。心を表すものって大抵似たり寄ったりなんだよね」
「心?」
「ああ。好きな人ができたら、その人と同じ守護霊になったりね。君の守護霊は?」
「さぁ」夏帆はやってみたことがなかった。
「わかったら教えてよ」と靑木は言った。
夏帆の周りに青色の蝶が飛んでいた。
「やってみた。蝶だね」本だけで読んだことがある術を初めて使った。
「でも守護霊ってどんな時に使うの?」
「うーん、伝言とか?あと、ヒト以外への対応とか?」と靑木は言った。
「ふーん、蝶か。確かに、その通り、あっちこっちふらふらしているからね」と夏帆。
「占い学で蝶が意味するのは幸運。しなやかで強い。そして何よりも美しい。素敵な守護霊だ。君はきっと成功するよ」
「何に?」
夏帆は空を見上げた。青い空に白い雲、そこには一匹のカラスが西の方角へと飛んでいった。
早朝、夏帆は荷物を持って門の外へと出た。見送られたくなかったからではない。見送りに誰も来なかったとき、つらくなるだけだからだ。
夏帆は政府が用意した黒塗りの自動車に乗り込み、護衛とともに、空港へとつながる領域の入り口へと向かった。護衛の中には立川大志がいた。
夏帆は立川と一言も会話をしなかった。
入り口はいかにも政府御用達といった、黒い門でできていた。立川が守衛に何かを話すと、門が開いた。門の向こうは、白いもやがかかっていて、様子をうかがい知れない。
行きましょう、という護衛の声と共に、夏帆は恐る恐る足を踏み出した。
門を抜けた先は、成田空港の国際線ターミナルだった。
空港で手続きを終わらせると、護衛と夏帆は5階にある企業用会議室へと向かった。
何か買ってきますね、と護衛は言うと、部屋を出て行った。夏帆は部屋で夏帆と二人きりになった。
立川はポケットからお菓子を取り出した。
「食べる?」と立川は聞いた。夏帆は首を横に振った。
「また立川さんに会えるとは」
「僕も驚いているよ」
「山瀬さん起訴されたらしいですね」
「捜査のことは話せないんだ」
「1つ伺いたいことがあります」夏帆は立川の目をじっと見た。
「立川さん、甘党ですよね。コーヒーに2個砂糖を入れる。日によっては5個も」
ほんの一瞬、立川は眉間にしわを寄せた。しかしやはりそこはやり手ではっきりと表情に出すことはなかった。
内通者は立川だ
立川はおそらくスパイだ
どこか日本ではない違う国の
在学時、立川はJ.M.C.のスパイだったが、彼にとってそんなことは子供のお遊びでしかなかったのだろう。なぜ夏帆が、気がついたか。ほとんど勘だ。ただ山瀬を立件し、山瀬以外を立件できないのは立川以外考えつかない。
もっと派手にやれただろうになぜしなかったのか。それは目的がJ.M.C.、そして竹内家を壊すことではなかったからだ。
立川はずっと怪しいと思っていた。渡辺香菜が心を読めないと言っていたこと。そして、立川はいつも紅茶にミルクを入れる。砂糖は入れない。ストレートもレモンティーも飲まない。ミルクのみ。でもコーヒーにはたっぷりのミルクとたっぷりの砂糖を入れる。飲み方がギルド伯爵と一緒なのだ。そして極め付けは、立川の名を、過去で聞いた。立川と呼ばれる男性が幼い弟と外国に行く覚悟を決めていた。もし立川に兄がいれば、辻褄は合う。
確信したのは今だ。立川が持っていたお菓子はファツジ。キャラメルだが、キャラメルじゃない。イギリスに行ったことある人にしか、このお菓子の存在に気づかないだろう。
でも逆に言えばその程度の根拠だ。確信はない。むしろ、馬鹿馬鹿しすぎる考察。でも、それでしか説明できない何かを夏帆は感じていた。
「砂糖ですか、シロップですか」
夏帆はつぶやくように言った。
「僕は温かい紅茶が好きだ」と立川は無表情のまま言った。しかしその目は夏帆をじっと見ていた。
質問の意図を立川は正確に理解している。英語で質問した夏帆に対し、温かい紅茶、 a cup of teaと確かに今立川は英語で言ったのだ。
立川はイギリスのスパイだ。
「お一人で飲まれるんですか?」と夏帆は聞いた。
他に仲間はいますか?
そういう意図で夏帆は聞いた。立川は質問の意図を理解したようだった。
「一人で飲むなんてつまらないだろう」
ああそうだ
「どこで飲むんです」
アジトはどこです?
立川は顔を近付けた。
「カフェ、だよ」
この答えの意図がわからない。夏帆のこの質問は、政府からもらったマニュアル通りだった。もし相手が怪しいと思ったらこう質問しろというマニュアル。このやりとりは、政府の中でも数人しか知らない。イギリスでスパイ活動をする上で教えてもらった知識だ。その限られた人しか知らない情報を自分は知っている、と立川は言いたいのだ。
他の護衛が帰ってきた。案外時間が残されていないのでもう行きましょう、と護衛は言った。夏帆は立ち上がった。
「高橋さん、君より優秀な人は五万といる」と立川は言った。
「そうでしょうね」と夏帆。
「君が探している人物は君が思いもしないところにいる」
「安心してください。私、誰も探していませんから」
飛行機の時間が差し迫る、とある昼下がりのことだった。
もしも日本に魔法学校があったら 〜孤高の魔術師 前日譚〜 夏目海 @alicenatsuho
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