第18話 熱海旅行

 昨夜の出来事が夢の中の出来事ではないと悟ったのは翌朝になってからのことだった。竹内義人の訃報が一面を占めている。

 しかしながら夏帆はゆっくりと記事を読んでいる暇などなかった。リサとの約束で、熱海に行くことになっていた。集合場所は東京駅。

 夏帆は久しぶりに、領域の外へと出た。日本橋にたどり着くと、そこから東京駅までは歩いた。

 JR線の改札の前にリサはいた。リサは黒いワンピースに、白いハットとサングラスをつけていた。まるでパリジュンヌのように美しかった。

「はい、熱海までのチケット」

 リサは渡した。

「ありがとう」

「それと、これはプレゼント」

「プレゼント?」

「うん誕生日プレゼント」

「私11月なんだけど」

「いいの、渡したい気分なの」

「ありがとう」

 夏帆は改札を通ると、リサの後に続き、10番線へと向かい、東海道線に乗り込んだ。日曜日のため人が多く、座ることができなかった。リサは驚くほど電車になれているかのようで、戸惑う様子も動じる様子も見られなかった。

 そういえば私はリサのことを何も知らない、と夏帆は思った。いつ日本に来たのか、休日は何をしているのか、何に興味があって、将来どうなりたいのか、そういった話を何もしたことがない。

 無言のまま、2人は電車で座ったいた。新聞を持ってこなかったことを後悔した。夏帆は延々と昨夜のことを思い返していた。リサはただじっと外の景色を眺めていた。

 2時間もすると、熱海駅へと到着した。時計の針は12時を回っていた。

「お昼食べない?」とリサは言った。

「うん」

 二人は近くにある食堂に入ると、夏帆は魚のひらき定食を、リサはマグロの刺身定食を頼んだ。

「おいしい」と夏帆。それしか言葉が出なかった。

「昨夜さ……」

「え?」

「あ、いや、昨夜ね、東京駅近くのホテルに泊まったんだ」とリサ。

「どう、だった」夏帆はやっとのことで思いついた質問だった。

「まぁ別に、普通かな」

 夏帆はさっと食べきると、リサが食べ終えるのをひたすら待った。あまりにも長い時間に思えた。

 夏帆は胸騒ぎがした。昨夜のこと、リサに見透かされているのではないか。旅行から帰り、領域に入ったタイミングで捕まるのではないだろうか。全てがバレていて、そこには全く違う世界が広がっているのではないだろうか。

考えても、もうどうしようもないことであることはわかっていても、夏帆の頭はそのことでいっぱいだった。

 もし知らなくても考えをリサに読まれるのでは、夏帆はそう心配にもなったが、能力者でない魔法使いが魔法で強制的に心を読むことは一応刑法で禁じられている。それに、J.M.C.はOBOGをあらゆる権威の内部に忍び込ませている。警察には山瀬桃実もいる。きっと大丈夫。

 それに私は殺したわけではない。その場にたまたま居合わせただけ。計画は立てたがそれは冗談。そう言えばいい。

 夏帆は頭を抱えた。

「大丈夫?」とリサが言った。

「う、うん」と夏帆は答えた。

 リサはまだ半分も食べていなかった。

 そもそもなぜ計画に参加しようと思ったのかを考えた。しかし、どうしても事件以前のことが思い出せなかった。面白そう、と思ったのかもしれない。協力してあげたい、と思ったのかもしれない。もう私の人生なんてどうにでもなれ、そう思ったのかもしれない。しかし、その明確な動機がどうしてもわからない。ただ一つ言えるのは、取返しのつかないことになってしまった、今確かにそう思っているということだ。

「右手、痛むの?」

 リサに言われて、夏帆は右腕を抑えていることに気が付いた。

「うん、昨日から」

「右腕か……」

「何か?」

「いや、私はその道の専門ではないし、かじったことがあるだけだから何か言える立場ではないけど」

「え、なに?」

「それに検査には時間がかかる」

「検査?私、病気なの?」

「そういえばそうだし、そうじゃないと言えばそうじゃない。もし、生活に支障が出だしたら、病院に行ってみるといいと思う」

「病院……」夏帆は戸惑った。

 リサが食べ終わると、代金を支払い、店を出た。リサは商店街の道をくだっていった。夏帆はそれについていった。

 日曜日の熱海には人が大勢いた。商店街の人たちはしきりに何かを売っている。温泉まんじゅうに、揚げ物。食べていきな、という店主の声が行きかい、熱気が空気に溶けこんでいく。

 リサはその中を無言で進んでいった。

 しばらくすると、プリン屋が目の前に見えた。人が多く並んでいる。リサはそこで、くるりと向きを変え、さらに坂道をくだっていった。地面のコンクリートから湯気が出ている。温泉が流れているのだ。

 目線の先には、海が見えた。夏帆は目を見張った。舞浜とも違う、ダイヤモンドのように輝く海。美しかった。何かが今日を境に変わる、そうはっきりと思えた。

 しばらく歩くと、大きなホテルが見えた。

「ここだよ」とリサは言った。

 受付でリサはチェックインをした。

「浴衣もっていっていいって」

 受付の近くには、色とりどりの浴衣が並んでいた。リサは緑色、夏帆はピンクの浴衣を選んだ。

 エレベーターに乗って3階で降りた。

 部屋は和室だった。古びておりカビのにおいのする狭い部屋だったが、夏帆にはそれでちょうどよかった。

 リサは白い小さなキャリーを取り出すと、それを開けた。中から青いクレンジングオイルを取り出すと、洗面台の方へ行った。そして丁寧に化粧を落として戻ってくると、押し入れから布団を出し、「少し寝るね」と言って寝てしまった。

 夏帆はその様子をじっと見ていた。自由な人だな、と思ったが、それがまた心地よかった。気が付くと夏帆も寝てしまっていた。

 夏帆はリサより早く起きた。すでに日は落ちようとしており、オレンジ色の空をしていた。

 ふと、リサからもらったプレゼントに目がいった。なぜ突然渡すつもりになったのか、夏帆にはさっぱりわからなかった。

 袋を開けると、薄い黄色の箱が出てきた。黒字で何やら文字が書いてある。どういう意味か、夏帆にはさっぱりわからなかった。

 箱を開けると、小さな瓶が出てきた。取り扱い説明書をよく読むと、perfumeと書かれている。香水だ。夏帆は香水というものを始めて手にした。

 夏帆は早速手に香水をつけてみた。金木製のようなさわやかな香りがふわっと漂う。リサからするいい香りは香水だったのだ、と夏帆は唐突に理解した。リサを見た。とても幸せそうな寝顔をしている。

 しばらくするとリサは大きく伸びをして起きた。

「お風呂入ろうか」とリサ。

 どこまでも自由な人だな、と思うのと同時に、それがまた夏帆を楽な気持ちにした。

 人前で服を脱ぐことには抵抗があった。リサはそんなこと気にもとめずさっと温泉へと入りにいった。

 リサは温泉に入るのもあっという間で、さっと出て行った。夏帆もそれに合わせてお湯を出た。温泉と湯船の何が違うのかいまいちわからなかった。


 夕食はホテル内のレストランで予約をしていた。魚の刺身、鍋、漬物とたくさんの料理が目の前に並んでいた。

「やっぱり最高だわ」

 リサは夕食を食べながら唐突にそういった。

「え、何が?」と夏帆。

「温泉に決まってるでしょ」とリサは笑顔で言った。


 部屋に帰ると駅で買った日本酒を開けて飲んだ。

「ねぇ、夏帆の将来の夢ってなんなの」とリサは言った。

「え?」

「将来の夢。だってあなた最強すぎて、夢なんてないんじゃないかなって最近思ってきたの。何を目指してそんなに頑張れるのかなぁって」

「特に夢はないかな」と夏帆は言った。しかしどちらかというと夢が持てない、と言った方が正しい。奨学金の規定で、卒業後はスパイにならないといけないと決まっているからだ。どの国に行き、どんな任務をこなすのか、何も決まっていない上、選べる権利もない。

「夢無くしてどう生きてくの」とリサ。

「じゃあリサは?」

「えっ?」

「リサの夢は?」

「世界征服」リサはドスの効いた声で言うと、にこりと笑った。

 夏帆は内心引いていた。作り笑いをするのが精一杯だった。

「なんてね」とリサは言った。

「最強の魔術師になることかな」とリサは言った。

「私倒したら最強?」と夏帆は冗談で言ってみた。

「そんなわけないでしょ」とリサは冷たい声で言った。まるで地雷を踏んだ瞬間かのような静かな怒りを感じた。

「強さってなんだろうね。最強の定義って曖昧」と夏帆は日本酒を一気に飲み干して言った。

「夏帆はなんだと思う?強さって」

「さぁ、住む世界によるんじゃない?学校なら戦闘が強い人、スパイなら人をだますのがうまい人、研究者ならたくさん論文書ける人、かな。でもその3つってどれも違う能力」

「あなたはそのどれも持ってる」とリサは言った。

「ありがとう。でも人をだますのは苦手だよ」

「確かにそう。それは忘れていた。でも、どれか1つでも持っている人って羨ましい」

「そうかな。例えば、100万人に一人の存在になりたいとする。それなら、10万人に一人の能力を3つ持てば、100万人に一人の存在になれる」

「10万人に一人ってどれくらいよ」とリサは言った。

「魔術師がそれくらいじゃない?」

「そんなにいるかな」

「いるよ。もっといるかも。あとは、英語を話せる日本人とかも、10万人に1人とかじゃないかな。だから、何かに秀でた魔術師になれば100万に1人の逸材になれる。リサならなれるよ」

「例えば、人間界を壊した魔術師、とか?」

「人間界を壊したら、ヒトが100万人も存在しなくなってしまうから、定義そのものが壊れるんじゃないかな。特別な存在でいたいなら、特別でない存在が必要」

「私たちは特別だから領域の中で暮らさなくてはならないの?」とリサは言った。

「選んでるんじゃない?領域の中での生活を敢えて。人間と魔法使いなんてそんな変わらないよ。ちょっとした個性の違い。むしろ最近はヒトという存在がわからない。普通動物はさ、生きるか死ぬか、食べるか食べられるかで生きている。でも、ヒトはそれだけじゃない。もっと違う悩みがある。それはたぶんヒトが最強であらゆる不安を排除してきたから。だから最強の魔術師には最強の魔術師なりの悩みがあると思う」

 宿の窓からは夜空に煌めく綺麗な月が見えた。

 夏帆はリサと語る時間が好きだった。この時間が永遠に続けばいい。そうとさえも思った。それは夏帆の無意識が、この時間が永遠に続くわけがないことに気がついていたからかもしれない。月はまるでその夏帆の本心を見透かしたかのように揺らめいていた。

 夏帆はリサが苦手だった。不幸なんてまるで知らない、圧倒的な幸福感。他人の孤独や苦悩にまるで気づかない強さ。

 夏帆はマランドールになって初めての入学式でスピーチをした。

 その途中で、リサは講堂へと入ってきた。遅れてきたのだろう。遅刻して許されるとでも思っているのだろうか。

「皆さんが今日ここにいられるのは、ここにいられるよう努力してこられたのは、周りの環境があったからこそのことです。」

 その瞬間、講堂の奥で立ち見していたリサがクスッと笑ったのを壇上の夏帆は見逃さなかった。

 夏帆はリサが好きだった。こんな自分を友人として受け入れてくれる懐の広さ。世の中を丁寧に観察し多くの人が幸せに生きられる未来を思い描ける圧倒的な優しさ。

 入学式で夏帆はスピーチした。

「数ある学校の中から我が校を選んでいただきありがとうございます。皆さんにまず知ってほしいことがあります。今回の試験の倍率は8倍。あなたが合格した代わりに、落ちた人がその8倍いるということです。まずはそのことに目を向け、忘れず、希望かなって入学できたことに感謝しましょう」

 この一文をリサは覚えていた。そしてある日このことを持ち出し夏帆を絶賛した。

「校長の挨拶なんて、我が校に入るものは選ばれし者です、とか言ってたじゃん。この学校もそんなもんかって思っていたけど、夏帆のスピーチ聞いて感動して、仲良くしたいって思ったんだよね」

 リサは夏帆に笑顔で語った。

 初めてできた友人。押し寄せる矛盾した感情。夏帆は戸惑った。

 熱海の月は綺麗だった。

「夏帆って人殺したことある?」と唐突にリサが聞いた。夏帆は動揺した。

「いや、ないと思うけど」

「思うって」とリサは笑った。「夏帆の魂が損傷されているから」

「魂が損傷されている?」

「傷ついているってことかな」とリサ。

「それくらいわかる」

「私わかるんだよね、そういうの感覚的に」

「玄武寮の人みたいだね」と夏帆は言った。

「玄武寮みたいってどういうこと?」とリサ。

「玄武寮って暴力的だけど、それって繊細だから。繊細な人じゃないと、人の魂なんて覗けない。私も、できない」

「できないの?」とリサ。

「完璧にはできないよ。誰もができる技術じゃない」

「そっか。じゃぁこれは私の10万人に一人の能力ってわけだ」とリサは笑った。

「私はその、昔色々ありすぎて、正直、何が原因で魂が傷ついているのかわからない。傷つくと何かいけないことはあるの?」

「魂が傷つく時ってどういう時が知ってる?」とリサは言った。

「知らない」

「自分の信条に反することをしたとき。逆に言うと、反することをしないといけないのにあらがうと、魂が元に戻ったり、補強されることもあると言われている。魂が傷つきすぎると、魔力を失うこともある。あと人としての機能が低下していく。例えば記憶障害とか」

「魂が補強されると魔力が強くなる?」

「そこはまだ研究段階だけど、そうじゃないかって言われている」

「例えば、殺人に意義を見いだしていれば、殺人をしても魂は傷つかない?」

「少し違う。意義じゃないかな。殺人を良しとしていれば、魂は傷つかない。でも、しなくてはならない、という状態だと傷つくかもね」

「なるほどね。私何も知らないみたいだね」

「おそらく医療知識だからだと思う。日本では医療知識は医者のみが知っている。情報の流出をおそれてのことでしょうね」とリサは言った。

「だから知らなかったんだ」

「うっかり漏らしたとしても、あなたから記憶を消したでしょうし」とリサは言った。「日本ではそれくらい秘匿事項」

「じゃあ私に話してしまったからには、この事実を私の記憶から消す?」と夏帆は聞いてみた。

「それはない。1つに私は医者じゃない。2つにこれはイギリスで知った知識。そして3つ目にあなたは私の親友だから」

 夏帆はいつの間にか眠りについていた。夏帆は夢を見た。珍しく、家族の夢だ。3人で仲良く何かを話している。一通り話したところで、夏帆の香水を褒めた。ああこれは、昨日リサにもらって、と夏帆が言うと、リサって誰だ?と父親は言った。だんだんと目の前に真っ暗になっていく。大雨が降り出した。

 傘を持ってなかった3人は、走ってどこか雨宿りができるところを探した。目の前を川が流れている。その向こうに、家が見えた。

 夏帆は川を渡っていった。渡りきると、急いで家へと向かおうとした。そこで気がついた。夏帆は二人をおいてきたことに。きっと後ろからついてくる。そう信じて家の中へと入った。

 その瞬間夏帆は起きた。窓からは光が差し込んでいた。夏帆はすぐに違和感に気がついた。


リサがいない


 あの性格だ、先に朝食を取りにいったのかもしれない、と夏帆は必死に言い訳した。しかし、そこにはリサの荷物1つさえなかった。それどこか、布団も日本酒も、グラスもない。

 押し入れ、冷蔵庫、金庫、手掛かりになりそうなものを夏帆は全てあけた。しかし、そこには何もなかった。何一つだ。朝食券を見ると、1名様、と書かれている。夏帆は混乱した。

 朝食のビュッフェを急いで食べると、部屋に戻って荷物をまとめ、受付へと行った。

「1名様分ですね。追加料金はございません。ご利用ありがとうございました」

 夏帆は何も言うことはできなかった。ホテルを出ると、目の前には綺麗に輝く海が見えた。

 坂をのぼりながら夏帆は考えた。昨日確かに、この坂をリサと下った。そしてとても幸せな気持ちになったのだ。全てきっとうまくいく、確かにそう思った。

 唐突に誕生日プレゼントを思い出して夏帆は鞄の中を見た。そこにはリサからもらった香水が確かにあった。


 学校に戻った夏帆は急いで白虎寮へと向かった。白虎寮の生徒はマランドールの来訪に驚き混乱していた。

「ああ、黒崎さんですね」と白虎寮の生徒の一人が言った。

 存在はしていたんだ、と夏帆はつぶやいた。

「今朝、寮から荷物が全て無くなっていることに気がついたんです。教師も知らなかったようで、ご両親のところへ向かったのですが、ご両親もあの子のことは放っておいてください、とばかりで。頼みの綱はあなただけだったのだけど、あなたが知らないのなら誰も知らないですね」


 礼を言って夏帆は白虎寮を出た。廊下を歩きながら、夏帆は2つのことに気がついた。1つはなぜ夏帆の記憶を消さなかったのかということだ。何かまずいことでもあったのなら、私の記憶を消せばいい。それくらい簡単にできる人だ。そしてもう一つは、夏帆自身がものすごく怒っているということだ。突然何も言わず、何も相談せず、私の前から去ったリサに形容しがたい怒りを感じている。

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