第17話 雲の上の世界

 どれだけ眠っていたかわからない。目が覚めると、夏帆は荒廃した土地がだけが延々と続く場所にいた。固く痩せた地面の割に、ふわふわとした感触は、まるで雲の中のようだ。

 夏帆以外誰もいない。街も森も何もない。砂のなくなった砂漠のような、地平線が永遠と伸びる世界。ここがどこなのか全くわからなかった。

 夏帆は直前までの記憶を必死に思い出そうとした。確か、美咲とカフェに行き、歩き、そして銃で撃たれ……。

 夏帆は左胸を触ったが、服こそ破れていたものの、その胸には銃弾が貫通してはいなかった。夏帆はどうすればいいかわからずとりあえず歩くことしかできなかった。

 しばらく歩くと、地面に何か文字が書かれていることに気がついた。それは、日本語のようにも英語のようにも、数式のようにも見えた。


 I am a girl.

私は高橋夏帆

 1+1=2

 I can speak English.

 綺麗な丘 電車の音 日本に移動

 桜は怖い 血のにおいがする

 院長は嫌い

 私はとっても優秀

 4月3日


 そういった文字が延々と、そしてぎっしりと続いている。夏帆は食い入るように読んだ。

 しばらくすると、水たまりのようなものを見つけた。水たまりは底深く続いている。足を滑らせれば、深淵へと引きづりこまれるようだった。

 水たまりには、浅木先生と死んだはずの院長先生がうつっていた。浅木先生は小さな赤子を抱いていた。夏帆は水たまりの中を見つめた。


 舞浜の海沿いににつかわない白い洋館。その門の前に、黒いローブにピンクの羽織を着た院長と、緑色のローブを着た浅木遙先生が対峙していた。

「お願いします。どうかこの子を預かっていただけませんか」と浅木は頭を下げた。

「何度も申し上げているとおり、うちにはもう予算がありません」と院長。

「一人くらいなんとかなりませんか」

「この子を特別に預かって、次から次へと依頼が来たら困りますの。もう枠はありません。他をおあたりください」

「そこをなんとか」

「ですから奏さん、もうお引き取りいただきたいのです」

 浅木は驚いた顔をした。

「バカなふりをしても意味ありませんよ。あなたのことはよく覚えております。桜の木の下で私の父が殺された時、とどめを刺したのはあなたでした」

「どうかしていたのです」

「組織の命令でしょう?」と院長は言った。「私たち家族がそれからどれだけ大変だったか、よくご存じでしょう。あなたは身を隠すために名を変え顔を変えバカなふりをして、まるで妹の遙であるかのように過ごしているみたいですけれど、あなたが姉の浅木奏でJ.M.C.であることはよく知っております。妹はどこへ行ったのかしら」

「この子には関係のない話です」と浅木先生は言って頭を下げた。

「そうはおっしゃってもね」

「この子は、あの高橋夫妻のお子さんです」

「あの高橋夫妻って、あの?」

 院長先生の声色が変わった。

「お二人のことはよくご存じでしょう。この子は領域の中では育てられません。ここしかないのです。子は親とは関係がありません。お願いです。松岡さん」

 院長先生はしばらく考えてから言った。「何か証拠となるものは?」

 夏帆はスカートのポケットから3人の家族写真を取りだした。気がついた時には、水たまりの中へと写真を落としていた。とっさの判断だった。

 写真は水溜りの中をゆっくりと落ちていくと、毛布に包まれた赤子の胸へとまっすぐに向かった。

「証拠……」浅木は赤子の身包みの中にある写真に気がついた。「あ、これです。家族写真」

 院長先生はその写真をじっと見つめた。

「わかりました。引き取りましょう」


 夏帆は動悸がするのがわかった。立ち上がり、気を落ち着けるために歩き出した。あまりにも多くのことを思考したせいで、逆に何も考えられなくなっていた。

 次の水たまりを覗くと、5歳くらいの夏帆と、孤児院の友人たちがいた。皆で鬼ごっこをしている。5歳の夏帆は、今からは信じられないくらい楽しそうに、笑顔で走り回っていた。しばらくすると勉強を終えた8歳の類がお菓子を持ってやってきた。皆は類のもとにいくと、みんなでお菓子を食べた。夏帆も楽しそうに類と話している。

 夏帆は他の水たまりを覗いてみた。そこに写っていたのは、夏帆とリサと靑木君が中庭にいる姿だ。影分身の術を教えてもらっている。昨日のことだ。水たまりの周りには、2017年4月1日と書かれていた。

 水たまりは自分自身の記憶なのではないか、と夏帆は結論づけた。そうしたら、ここはどこなのか。

 夏帆は両親の死の場面がないか、必死に探して、次から次へと水たまりを覗いていった。よく見ると、水たまりの周りに日付が入力されているものとされていないものがある。その違いはわからない。中には、水たまりの跡だけで、水のないものもあった。

 しばらく歩くと、大きく太い文字が書かれていた。


 死にたくない


どきっとして立ち上がった。近くに、小さな、腰丈くらいの背の、4歳くらいの女の子がいた。肩まで伸びた髪に、白い花柄のワンピース。女の子は地面に何かを書き込んでおり、その表情まではうかがえなかった。

「あなたは誰?」夏帆は問いかけても女の子の返答はなかった。

「What are you doing?」

 やはり返答がない。

 女の子の書く文字を見た。彼女は狂ったように、どうする、どうする、どうする、どうすると書き込んでいた。夏帆はぞっとした。

 夏帆はしゃがみ込んだ。おそらく、ここに書き込むことは本当のことになる。そう結論づけた夏帆は、地面を指でなぞろうとした。

「何するの?」

 見上げると、女の子が夏帆を見下ろしていた。女の子には顔がなかった。

 まずいと思った夏帆はすぐに立ち上がり、走って逃げ出した。しかしどこまで逃げても女の子は追いかけてくる。追い詰められた夏帆は目の前にあった水たまりの中に飛び込んだ。


 ぶくぶくと水の音が聞こえた。息が苦しくなり、次第に圧力が高まっていった。苦しい、そう思った瞬間、夏帆はどんと下まで急速に落ちていた。


 気がつくと、夏帆はマランドールの館の寝室のベッドの上で寝ていた。そこには雲も、不思議な地面も、女の子もいなかった。起き上がると、目の前を夏帆自身が歩き、寝室の外へと出ようとしているところを確認できた。その手には桜の封筒が握りしめられている。あれは私の分身だ、と夏帆は直感で思った。

 夏帆はしばらく、ベッドの上でぼおっと座っていた。お昼を回ったくらいで思い出してきた。

 

 銃に撃たれたあの日、夏帆は朝起きると、マランドールの館の窓から満開の桜を見た。風がふくと、雪のように光り輝く待っていく。美しかった。

 桜を綺麗だ、と思う自分自身に違和感を覚えた。何か、巨大な魔力がかけられている。それも、夏帆の桜への恐れじたいも消してしまうほどの。

 嫌な予感をした夏帆は、昨日の靑木の焦り具合を思い出した。あれはどう考えても異様だった。

 影分身を作れ、あれは青木からのメッセージ。今ここで、作らなければならない事情がある。夏帆が影分身を試してみると、昨夜できなかったのが嘘のように、簡単に分身を作ることができた。

 夏帆の分身は、ベッドで寝ている本体を見つめた。分身は夏帆本体と同じように作業机に着くと、日課の新聞を読んだ。ふと、机に上に目をやると、桜の封筒が置いてあった。その封筒を見た瞬間、分身は封筒を握り締め、まるで何かに取り憑かれたように、部屋を出て行った。


 おそらく靑木君は、分身を夏帆に教えにきた時、既に知っていたのだ。次は夏帆がターゲットだと。だから回避方法を教えてくれたのだ。

 もっとうがった味方をすれば、影分身を教えろ、と青木に誰かが指示しているとしたら。


 夏帆はJ.M.C.会長の部屋へと向かった。誰もいない、談話室。廊下を通り、会長室のドアを乱暴にと開けた。

 窓から外を眺めていた直人が振り返った。

「良かった」と直人は言った。「君なら、きっと……」

「ええ、もちろんでしょ」と夏帆は言った。

 夏帆はそれからしばらく、会長室のソファへと座っていた。

「何か話してよ」と夏帆がいった。直人はしばらく考え込んだ。

「君は川の土手まで行った?」

「たぶん。記憶が曖昧だけど。銃で打たれた」

「あの土手は、我々のミッション遂行の場所なんだ」と直人が言った。「どんな感じがした?どんな魔法がかけられていると思った」

「土手に入った瞬間、領域を抜けた気がした。そしてさらに、あの土手には、人間からは我々魔法使いが見えないように魔法がかけられていた」

「正解だよ。人間界で実行すればバレないし、バレても警察は検挙できない。あの封筒はわかったかな?」

「あの封筒は強い魔力を感じた。複雑すぎて、解く時間はなかったけど」

「あの封筒をもらうと、催眠術をかけられたように、我々の作戦にいざなわれてしまうんだ」

「あの封筒を見た時に、外に出た方がいい気がしたし、美咲にたまたま会ったし……」

「そうだ。エンジェルオイルを香水にして、あの封筒に細かく染み込ませてある。我々に都合よく行くようにできている。さらに、そのオイルの効力が続くよう、保護魔法をかけてある。誰がそんなこと思いつき、そして実行できたんだろうな」

 直人は言った。「僕はもう限界だよ。父さんに会ったんだって?君をベタ褒めしていたよ。参謀として置きたいって」と直人。

「ええ、会った。そんなこと言ってもらえるなんて光栄ね。あなたのお父さん、人を殺したことある。実際に会って確信した」と夏帆は言った。

「言ったとおりだろう」と直人は言った。

「魂が傷ついている顔をしている。とても苦しそうだった。突然、学校に来たのは、私を殺す前に一度会っておくため?」

「そうかもね」と直人。

「やっぱりね。あの人、だって学校のことまるで興味ないでしょ」

「前にも話したけど、父親は、日本魔法魔術学校に入ったけど、授業が退屈ですぐにやめた。卒業資格試験を受けた後に魔術院で政治学を学んで、祖父の秘書を担った後、政治家になった。父親の暴走はどこからか始まった。祖父ではない、父親だ。僕の妄想だけど、僕の母親を殺したのは、おそらく父親だろう」

「……。なんでそう思うの?」

「子供ながら覚えている。父親は母を女性として大切にする人ではなかった。それに、母は祖父ともうまくいっていなかった。母は高知出身だったからだ。」

「いざなぎ流」

「そうだ。竹内家とは相容れない。ある日、家系図から母親の名が消えたんだ。それから母とは一度も会っていない。その翌年、夏海が我が家にやってきた。夏海は父親からの信頼が厚かったらしい。よく父の部屋を訪れていた」

「それは、夏海さんと父親がうまくいっていた直接的証拠にはなり得ない」

「夏海は今度、J.M.C.に入ることになったんだ。夏海がお願いしたんだろう。なんにせよ父親は許可した。僕は夏海が入ることを一切知らされず、林省吾から聞いたんだ。この会長の僕に、知らせないなんて。父親から、来年は夏海を会長にしろという内容証明が届いている。握りつぶしてやろうか」直人の声は震えていた。

「敵に回すべき相手じゃない。夏海さんは手強い」と夏帆は言った。

「そんなこと知っているよ。どれだけ僕のプライドが傷ついたことか」

 その時、バンッとドアが開いたと思うと、美咲が会長室へと入ってきた。

「美咲……」

「良かった!」美咲は夏帆の元へと駆け寄ると、ぎゅっと抱きしめた。

「影分身がうまくいったのね。銃で撃った瞬間、あなたが消えた」

「影分身?」と直人。

「裕也に教えさせたのよ。青木裕也」

「美咲だったんだ」と夏帆は言った。

「今だ。美咲、夏帆、今からプランBを実行する」

 二人は力強くうなずいた。

 直人はソファとは反対側の壁際に立つと、何やら呪文を唱えた。すると、壁がすっと消えていき、目の前に闇が現われた。

「この道が、僕の家につながっている」

 今にも吸い込まれそうな暗闇だった。直人と美咲の後に続いて、夏帆は進んでいった。3人は無言のまま歩いた。コツコツという足音だけが闇に響いた。とてつもなく、長い時間に思えた。

「ずっと気になっていたけど、どうして夏帆は、今回の計画に賛同し、参加したの」と美咲は堰を切らして言った。

「わからない。けど、私の中の何かが、参加しなくてはならない、と言っているの。私の人生を狂わせるかもしれない。それはわかっている。私は竹内義人と何の関係もない。でも、理由のない何かが私を動かすの。まるで私の生きる意味みたいに」

「生きる意味」と美咲はつぶやきかえした。

「今回の計画がうまくいかなかったら記憶を消すまでだ。それに君が反対しても、記憶を消すまでだ」と直人が言った。「夏帆が反対どころか意気揚々で良かったよ。他に協力を仰ぐなら夏帆しかいない、そう言ったのは美咲だった」

「美咲が?」と夏帆。美咲は黙ったままだった。

「ねぇ、二人はどういう関係なの」と夏帆は聞いた。

「ただの幼なじみ」

 二人は声をそろえていった。

「二人にしかない世界があるみたい」と夏帆は言った。それに関して二人は何も答えなかった。

「よく影分身の術を覚えたね」と美咲は話題を変えるように言った。

「当日初めての成功」と夏帆は言った。

「はじめは、靑木裕也からの直談判だったんだよ」と直人。「夏帆を殺せないって、靑木に言われた。なら方法を考えろって言い返したんだ」

「青木はチームの長の私に、次は相談に来た」と美咲。

「影分身って普通は2ヶ月くらい習得にかかる。まずは神楽を覚えなくてはならないし、式神を出すだけで大変だ」と直人が言った。

「神楽?式神?何それ」と夏帆。

「神楽使わずに使いこなしたの?」と美咲。

「最近靑木は西洋魔術と陰陽道の合成にやっきだったからな」と直人は言った。「わざわざ愛知の動物園まで行って、式神の力に関して質問しに言っていたくらいだよ」

「ああ、あの有名なところ?」と美咲。

「ああそうだ。熱田動物学研究所」と直人。

「また式神でえらいことしょうとしているね」と美咲は言った。

「式神って?」と夏帆。

「式神は身代わりの守護神のことだよ。式神に力を託すと、その影響力を増大できるんだ。死の呪いの時に、動物が現われるだろう。あれも式神の一種だよ」

「夏帆の式神は?」と美咲。

「さぁ」

「でも、死の呪い成功したんでしょ。見てないの?」と美咲。

「授業の時にね……。待って、なぜそれを」

「私の情報網をなめないで」

 暗い道を明かりもつけずに進んでいった。これから何が起きるのか、まるで何も考えていないかのようにさえ思える足取りだった。夏帆は特に怖いとも思わなかった。むしろ自信さえあった。

 突然、直人は立ち止まった。

「いいか、この扉を開けたら、そこは父さんの居室だ。作戦はこうだ。まず、父さんは驚くだろう。時間稼ぎをして、その間に僕が領域の入り口を作る。そうしたら、作戦通り、美咲が入り口へと誘導する。以上だ。夏帆は、父さんが逃げだそうとしたら、押さえるんだ」

「わかった」と夏帆は言った。

 直人はゆっくりと、しかし確実に、ドアノブを回した。

 ドアの先は洋室だった。絨毯に、シャンデリア、お客様用の机とソファ。そして、一番奥に作業机。J.M.C.の会長室そっくりだ。

 作業机に座っていた竹内義人は一瞬驚いた顔をしていたが、すぐに冷静さを取り繕った。

「どうしたんだ。それになぜ、この二人がいるのかな。秘密通路を使って良いのは竹内家の人間だけだと説明したはずだ」

 向かって左から、直人、美咲、夏帆の順に、義人の前に並んだ。

「それに、なぜここに、君は、あの時のマランドールということは高橋夏帆……」

 義人はじっと調べるように夏帆を見つめた。右手がうずき出しそうな違和感があった。

「今日は……」と義人。

「お話したいことがあってきました」と美咲。「あなたは間違っている。あなたは、@という立場を使って、我々を利用している。これまで何人の血が流れたことか」

「それで」

「何も知らず、J.M.C.への憧れで、半ばだまされたように入り、説明会で人を殺すことを説明される。入会しなければ殺される。人を殺さなくても殺される。退部したら殺される。でも、あなたに忠誠を誓えば、その後は安泰。そうやって、洗脳されて、いつしかみんな悪事に手を染める。私はずっと、これはしなくてはならないことだと言い聞かしてここまできた。でもそれが違うと、去年わかった。わかった時、私がどれだけ辛い思いをしたことか。あなたの身の保身のためだけに、あなたの政敵を殺し続けているのだと気づいた時の衝撃と言ったら!私はあなたのエゴのために私の一番大切な人を失った」

「それは違うね」と義人は淡々と言った。「君のしたミスを、僕の責任にすり替えてもらっちゃぁ困るよ」

「ならあなたが、あなた自身の手でなぜ殺さない!」

 美咲の声が震えていた。間が持たない、助けて、と美咲が言っていることがわかった。

 夏帆は不思議に思った。これだけ警戒心の強い義人がなぜ、この部屋に保護の魔法一つかけられていないのだろう。

「君はいつから知っていたのかな?」と義人は夏帆に話しかけた。

「いつから?何を?」

「今花森美咲が話したことだよ」

「はじめから」

「誰が教えたのかな」

「教えられたわけじゃない。綾野文があなたに殺されるところを見た。それからずっと推測していた」と夏帆。

「なるほど、そうかやはり見ていたか。あの時廊下にいたのは君だったわけだ。君はやはり私の見立て通り、好奇心が旺盛だな。秘密を知りたいと思い、そして知った」とゆっくりつぶやいた。「つまり君はやはり死に値する人物だということだ」

「私はあの時の記憶を全て思い出した。綾野の父親は、私の院長の父親暗殺に間接的ながらに協力してしまったことに苦悩し自殺した。それで綾野は、あろうことか、あなたを恨んだ。J.M.C.をやめたいという綾野を、あなたは殺した」

「少しだけ違うが、まぁいい。どちらにせよ君を殺すことは正しいことだ。でもなぜ死んでない」と義人と言った。義人が左手で、机の引き出しを押さえているのが目に入った。

「私は凄腕の魔女だからですよ」と夏帆はうずく右腕を押さえていった。「でもなぜ今頃?」

「そうだな、私の失敗だ。今になったのは、私の慈悲だよ」

「慈悲?」

「そうだ、慈悲だ。君を殺す準備など、とうの昔からできていたんだよ!」

 義人は怒鳴った。「なんならもっと早くから殺しておけばよかったね!君の入学を許可したことから間違っていたんだよ!」

 夏帆は杖を義人に向けた。

「やめて危険!」と美咲が言った。

「大丈夫よ美咲、この人、反撃できやしないんだから」と夏帆。

「この人、亜人よ」と夏帆は杖をまっすぐ向けていった。

 義人は笑いだした。

「君は優秀な魔女だ。どこで知った」と義人。

「学校にあなたが来た時」

「君は亜人という言葉は嫌いだ、と言っていたはずだ」

「告白錠を私に飲ませたでしょ。私は無効化する薬を飲んでいた。あのときの言葉は私の意志ではない」

 義人は顔を大きくゆがめた。心臓の鼓動がこちらにまで聞こえてきそうだった。

「そんな、無効化薬なるものがこの世にあるものか!」

 義人は机をバンとたたいた。

「私は知識だけは豊富だ。魔法が使えないなら知識で勝つしかないと思ったからだ。だから言おう、そんなものはない。私をバカにするな!」

「世に出ていない技術もある。世に知られない科学者がいるように」

 義人の顔は青ざめていた。

「それにもうすでに論文が出ている。学会員しか読めないからあなたには無理でしょうけどね。もっと民の暮らしを守るために、民間の技術に目を向けておくべきだった」

 義人は目の前の花瓶を手に取ると、窓に向かって投げた。パリン、という音と共に、花瓶は落ちていった。花瓶が地面に落ちてくだける音は聞こえなかった。それほど高い場所に部屋があるというのか。

「意味がない。魔法をかけてある」

「意味がないわけではないよ、私は魔法は使えなくても、頭が回ることは自負している。直人、お前は今そこで何をしている。領域で私を囲ってここに幽閉するつもりか」

 花瓶には魔法がかけられており、保護魔法も、領域も切断できる代物なのだろう。義人は勝った気でいるが、目的は直人の作る領域まで義人をおびき寄せ、その中へと引き摺り落とすこと。残念だが、勝機はこちら側にある。

「亜人が魔法使いに勝とうだなんて1000年も早い」

「本性がでたな、高橋」

「自分が関われる世界ではないからよくわからないけど、あなたにも事情はあるんでしょ。私だって何が正しいのかわからない。どうすべきなのかなんてもっとわからない。だからこそ、あなたを一方的な悪者にしたくなかった」

 義人は夏帆の目をじっと、驚いたように見つめた。それと同時に、まるで怒る力を失ったように、頬の筋肉が落ちていった。

「親友と言ってほしかっただけなんだよ」つぶやくように義人は言った。

「何を言っているの?」夏帆の質問にかまわず義人は続けた。

「友人じゃなくて」

 夏帆は目を疑った。義人の首元に、太くて黒い蛇が巻き付いていた。舌なめずりをし、鋭くとがった眼光はこちらを見透かしたかのように、あざ笑ってるようだ。

 蛇は、ゆっくりと義人の首元から胸元の方へと移動し、次第に体へと巻き付いていった。直人と美咲もそれに気がついているのか、蛇を凝視して硬直していた。

「なんだ?」

 義人はそう言って3人の目線を追い、自身の体に巻き付く蛇を気がついた。視認した瞬間、蛇は黒いもやへと変わった。義人の顔がひきつって固まり、その場にバタリと倒れ込んだ。

 状況の理解ができなかった。夏帆はただ呆然としてしばらく体が動かなかった。

「死んだのよ」

 夏帆が驚いて振り向くと、後ろに夏海が義人に杖を向け、机の上に降り立った。杖からは黒いもやが出ていた。夏海はそれを振り払った。夏海が使用したのは、死の呪いであると、夏帆にははっきり理解することができた。

「領域の入り口を閉じて直人」と夏海はつぶやいた。直人はゆっくりと、作り上げた入り口を閉めていった。

 夏海は机の上に何かを見つけ、顔がこわばった。義人が倒れた拍子に、写真立てが倒れたのだ。その写真には、直人と、直人の母親と思われる人と、生まれたばかりの幼い直人の3人が写っていた。

 夏海は義人のそばに移動すると、机の引き出しを開けようとした。しかし、そこには鍵がかかっていた。夏海は、義人の体を調べ、首からかけていた鍵を引きちぎると、引き出しへと差し込んだ。

「本か」

 夏帆も駆け寄った。引き出しの中には、分厚い本が置かれていた。

「父は、私がこの部屋にくると、決まってこの引き出しを押さえた。まるで私に取られないよう守っているかのようだった。もしもの時の際の兵器でも隠してあるのかと思ったら。なんだ本か」

「父さん」直人がやっとのことで絞り出した声だった。「なんで、こんなことに……」

「あなた、最初は殺そうとしていたじゃない。何を言っているの?」

「何が起きたんだ」直人は混乱したように言った。

「雲の上の世界にいったって言わせたいの?バカなこと言わないで、そんな極楽浄土にいける人ではないでしょ」と夏海は淡々と言った。

「竹内義人は呪いに触れ自ら死を選んだ。そういうことにして早く葬儀の準備をしましょう。ことがバレないうちに。早くしないといけない。大変なことになるのは私たちだけではない。J.M.C.の存在が危ぶまれる。葬儀は近親者で。お別れの会も開かない。父は自ら死を選んだの、いいね」

 夏海の動きは早かった。もしかしたら、あらかじめシミュレーションをしていたのかもしれない。

 夏帆はただその作業を見ていることしかできず、義人の持つ本を開けてみた。Ⅰページには、義人の魔術師資格の証明書が貼られていた。次のページには「竹内家の歴史」と書かれ、その次のページには「ここに、魔法界の創成と領域の作り方を記す」と書かれていた。

「直人の作った領域は簡易的なもの。最終的に領域に進化させるのは父の仕事。父は亜人だったけど、陰陽道は使えた。領域を支配できたらそりゃ権力持てるよね」と夏海はつぶやいた。

「だから、直人の作戦だと失敗していた。それが真実。わかったら、部外者は帰ってちょうだい」

 美咲と夏帆は目を合わせ、来た道を戻った。


 帰りの廊下、で二人はひたすら無言だった。「強かったんだ、夏海さん」という美咲の声が響いたくらいだった。

 それは、まるで夢でも見ているかのような、そんな時間だった。

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