第8話 ご令嬢

 ざあざあと雨の降る東京駅で夏帆は呆然としていた。大勢の人間たちが傘を差して歩いていた。誰もがスーツにビジネスカジュアルにと着飾っていた。女性は丁寧な化粧をしているし、男性は靴までピカピカに輝いている。雨音に、上品な服装には似つかわず、びちゃびちゃという五月蝿い足音だけが混ざる。

 夏帆は大雨に濡れながらあたりをきょろきょろと見渡した。泣きたくても泣けなかった。びしょ濡れの夏帆を誰も呼び止めようとはしない。そこはただ広いだけ、誰もが孤独な大都会東京。

 ふとガラスに映る自分を見ると、明らかに2年前とは顔つきの違う自分がいた。2年も立って、17歳のはずの夏帆は19歳の顔つきになっていたのだ。

「まずい」

 呟いたつもりが、思ったより大きな声となって空間に響いて溶け込んだ。周囲を見渡したが、誰も夏帆に目もくれようとしない。再び大丸の大きなガラスへと目をやった。

 突然、目の前のガラスが変形した。夏帆は目を見張ると、周りの人々に目をやった。人間はまるでガラスの変形に気がついていない。そう言えば類が昔言っていた。人間は実際には本質など見ていないと。まばたきをしてみたが、やはり目の前でガラスは変形を続けており、やがて、やわらかくなったガラスがぐるぐる回るようにねじれはじめた。

 夏帆は首をかしげた。

 はて、これは、私に、ガラスの中に入れと言っているのか?

 なぜかそんな気がしたのだ。理由はない。私はこの不思議なガラスの中へと入らなくてはならない。エンジェルオイルの効果は2年前に切れている。でもわかるのだ。

 夏帆はそのガラスの中にできた混沌とした世界にぬめりと入っていった。

「本日はどうされましたか?」

 目の前にまるでモデルのようにすらりとした白いナース服を着た女性がほほえんで立っていた。そこは綺麗な白で統一された病院のような空間だった。

「ここは、なんですか……」

「初めてですね」と受付の女性は怖いくらい作られた笑顔を向けた。両親と話した時と同じように、まるで会話が噛み合わなかった。

 部屋の奥から、ゴスロリの格好をした女性が出てきた。どれだけ芸能に疎い夏帆でも知っている有名なアイドル歌手ミミだった。

「高月様、お茶をご用意……」

「いらない」とミミは不機嫌そうに言うと、カードで支払い、入り口から出て行った。

「こちらは美容クリニックです。希望のある方の前にしか現れない作りとなっており、秘匿性が担保されています」

 笑顔を向けつつ、淡々と話しを進めた。

「顔を」と夏帆。

「顔を2年前に戻したい。今すぐご案内できますよ」

 心が受付の女性に読まれている、と夏帆は思った。

「お願いします」と夏帆は言った。

 裏から出てきた白服のナースが夏帆を個室へと案内した。個室もやはり白が基調。中にはベッドが1つあるだけだ。夏帆はそのベッドの上に仰向けに寝かされた。

 そこへ、先生、と呼ばれる、細い黒髪を一つ縛りにした、白衣の女医がやってきた。髪の毛から見るに40代くらい。しかし肌はまるで20代かのように艶を保っている。

「皮膚、荒れているところないですか?」と女医は聞いた。

「あ、はい」

「あとはよろしく」

 そういうと女医は個室を出ていった。

「こちらの機材は最新のもので……」ナースは何やら説明をし始めた。話の内容は何も入ってこない。説明の途中で、夏帆はうとうとしだした。

「終わりましたよ」

 そのひとことで夏帆は目覚めた。

「ご不満な点などはございませんか?」

 ナースは夏帆に手鏡を渡した。夏帆の顔は確かに2年前、タイムキーを使う頃に戻っていた。最新技術の高さに夏帆は関心した。

 受付に戻ると、ナースが紙コップに温かいお茶を入れ、夏帆に差し出した。麦茶を薄めたような味がする。夏帆は一気に飲み干した。

 どの従業員も気持ち悪いくらい綺麗だった。高身長、長くて細い足、真っ白な肌に口紅を塗った化粧をされた顔。夏帆が目指そうとも思わない人種だ。

 受付の女性が明細書を持ってきた。

「お支払いはカードにいたしますか?」

 カード?

 夏帆はカードを持っていなかった。存在はもちろん知っていたが、学生の持ち合わせるものという認識はまるでなかった。

 明細書を見ると、そこには確かに100万2千円とかかれていた。

―嘘だろ

 0の数を間違えたのかもしれない。夏帆はもう一度数えた。やはり100万とある。全身が冷や汗で服がぐっしょりと濡れるのがわかった。孤児院時代のお小遣いの貯金も、10万あるかないかの夏帆にとって、とてもではないが払える金額ではない。奨学金も学費と寮費、そして月々1万の生活費しかない。この1万円も教科書代等学校に必要な経費でほぼ飛んでいく。

「あの、これ」夏帆が必死に考えた末にやっとの思いで吐き出した言葉はそれだけだった。

「カードにいたしますか?」と受付女性はやはり恐ろしいほど作られた笑顔で言った。

 夏帆にこんな大金を支払えるわけがない。そして心を読めるのだから、私が払えなくて困っていることを察しているはずだ。そうだというのに、受付の女性はまるで助けようともしてくれない。

 もし払えなかったら、奥から怖い人が現れるのだろうか。それとも、J.M.C.かヤクザかなんかによって殺されるのか。監禁され、強制労働をさせられるのか。

「いいえ、弊社に請求していただけるかしら」

 その声に驚いて夏帆は振り返った。そこには黒髪パーマの女性が立っていた。

「承知いたしました」

「いくわよ」

 黒髪の女性は夏帆に向けて言うと、強引に腕を引っ張り入り口の扉を開けて夏帆を無理矢理連れ出した。扉の先は東京駅ではなく、アーカート通りのカフェコッツウォルズの目の前だった。何がどういう作りになっているのか夏帆にはすぐに理解できなかった。

 さっきまであったはずの病院と扉は何もなかったかのように消えていた。

 女性は夏帆をそのままカフェコッツウォルズの中へと連れて行った。

 女性がイングリッシュブレスファストを2つ頼むと、奥の席に座った。夏帆にとって、気まずい時間が流れた。

 女性は名刺を差し出した。ありがとうございます、と言って受け取ると、夏帆はそれをさっと鞄へとしまった。

「ああ、だめよ、名刺というのはね、机に出しておくものよ」と女性は言った。急いで取り出そうとする夏帆を女性は制止した。

「どんな事情があったかは知らないけど、あなたのような子供が簡単に行くことのできる病院ではないわよ」

「ありがとうございました。借りた分は何年かけてでも……」

「払えるの?払える見込みはあるの?私が明日返せって言ったらどうするの?私があなたを銃で脅すかもしれないのよ。私が、あなたの大切な人や物を人質にとってもおかしくないし、このカフェの人たちに危害を加えるかもしれない」

「……」

「世の中っていうのはね、無知で孤独な若い女性に優しくできていないの」と女性は言った。「知らないところに好奇心で入らない。疑問が生じたら質問をする、そこで少しでもおかしいと感じたらどんな手段を使ってでも逃げる、そして、金額は事前にきちんと確認する。基本中の基本。お金のかからないサービスなんてこの世にはないの」

「はい」夏帆は女性の言うことがあまりに的を射ていて恐ろしかった。

「今回はたまたま私がいて命拾いしたわね。それにあの店は別に悪徳商法をしているお店というわけでもない。今回はラッキーよ。でも今後、もしかしたらたまたま悪い店に入って、悪い人たちに捕まって、監禁されてもおかしくない。お金を持っていたら資産を全て奪われるかもしれない。騙してきたり、利用してきたり、金蔓にしたり、そう言う人たちなんてごまんといるの。正常性バイアスっていうのがあってね。自分だけは引っかからない、って人は無意識に思っている。とても危険なことよ」

「はい」

 女性の迫力に圧倒され、夏帆は何も言うことができなかった。

「これまでも、変な投資に騙されたり、紹介ビジネスにのめり込んだり、そうやって人生を壊してきた人をたくさん見てきたの。勉強もいいけど、もっと社会を知って、何にどんなお金がかかるのか学んで、どんな脅威があるかを理解して、判断力がつけていく。お金のかかるサービスを受けるのはそれからよ。それに、これは危険な人間関係を作らない基本でもある。わかった?」

「はい」

「お金は返さなくて結構よ。これはあなたへの投資だから。それにね、お金は、あげたつもりで貸すのが鉄則よ。一応教えておいてあげる」

「いえ返します」

「なら取引をしましょう。お金はあげた。代わりに、私に何かあった時、力を必ず貸すこと」

 そういうと女性は席を立った。

「これであなたの弱みを2つ握ったことになるわね、高橋さん」

 そういうと女性は去って行った。風のような人だ、と夏帆は不謹慎にも考えていた。イギリスでの濃い日常がすべて飛ばされていくかのようだ。彼女が誰だったのか、そしてなぜ自分の名前を知っているのか、そんなことを考える余裕を与えないほど、衝撃的だった。

 夏帆はまるで何事もなかったかのように学校へと戻り、元の生活へと戻っていった。


 ある日、夏帆は教室で突然声をかけられた。

「こんにちは」

 見上げると、黒色パーマの女性が立っており、思わず目を見張った。あのとき、美容クリニックでお金を出してくれた女性だ。学生だったのだ。

 夏帆が急いで立ち上がり、拝礼をすると「ああ楽にして」と彼女は言った。

「白虎寮長6年、J.M.C.幹部長の城ケ崎です」

 夏帆は再び丁寧に一礼した。内心は心臓が飛び出そうなこと、動揺をしていた。城ケ崎はにこりと笑った。

「あなたにお伺いしたことがあってきたのよ。もうすぐマランドール戦予選登録。私はJ.M.C.の幹部として、所属の子たちを勝たせないといけない。そのために、アメリカから輸入した最新機器を用いて分析を行っている」

「分析?」

「そう。例えば、瞬間移動をする際、無意識に移動方角に正面が向いていると言われている。誰がどこでいつどの方角を向いて瞬間移動をしたかを統計にかければ、様々な情報を得ることができる。それでね、一つ気になることがあったの」

 夏帆は腕を巻き込み、下を向いたまま何も言えなかった。私に力を貸すこと、という城ヶ崎に言われた言葉が頭の中でガンガンと鳴り響いた。

「授業でのあなたの杖の動きを解析させてもらったわ。動きが前と変わっているの。無駄な力や動きが減って、身のこなしが各段によくなっている。上から下への動きが多かったのが、左右の動きが増えたり、相手の空きをつく動きが増えたり、つまりね、何かしたとしか思えないの」

「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」と近くにいた青木君が言った。

「何をしたの?」と城ヶ崎。

「教えるわけないですよ」と佐々木。夏帆は佐々木が味方についてくれたことに驚いた。

「あなたたちも高橋をよく思っていなかったのに、今更ながら仲間づらしだすとか、朱雀寮がうらやましく思うわ。さて、高橋さん?それとも言えないのかしら」

「言えます。手の内を明かすのが私のやり方ですから」と夏帆は城ケ崎の目をしっかりと見つめた。改めてみると、城ヶ崎は輝くようにまるで嘘を積み重ねたように美しかった。細い体に、透き通る肌。きっとあの病院で施術を受けている効果だろう。

「フェンシングです」と夏帆。

「えっ?」と城ヶ崎は言った。

「フェンシングを始めたんです。私たちは、剣道といった武道が、必須科目ですよね。あれは、日本人の体形に合わせて、杖の動きを動きやすくするためのもの。それならヨーロッパの武道を取り入れてもいいと思ったんです」

「なるほど、でもそれにしては急にうまくなったわね。一か月前から突然動きが良くなった。フェンシングってそんなにすぐに効果が出るものなのかしら?」

 夏帆は何も言わなかった。城ケ崎はにこりと笑うと、その場を立ち去ろうとして言った。

「一か月前何をしていたの?時の部屋で」

「えっ」

「では、ごきげんよう」

 そういうと城ケ崎は去っていった。

 夏帆は急いで寮に帰るとこの間もらった名刺を確認した。城ヶ崎コーポレーション専務、城ヶ崎わかばと書かれていた。城ヶ崎コーポレーションってあの日本魔法界最大の財閥?そう思うと夏帆は戦慄した。

 夏帆は、教室へ急いで戻ると、青木、直美、佐々木の3人組に声をかけた。

「城ヶ崎さんねぇ、あの人とは仲良くしておいて損ないよ」と佐々木が夏帆に言った。

「ご令嬢どころか跡継ぎだよ。もう魔法界のことはすべて勉強してしまったとか言って、卒業後は、アメリカでMBA取得を目指すらしい。人間界と魔法界をつなぐビジネスがしたいってやっきだよ」と青木。

「タイムキー使って、授業受けたり、勉強時間確保してるって本当?白虎寮の先生、名前なんだっけ、ああ西園寺先生の許可もらってるって聞いたことある」と稲生直美。

「直接使ってるって聞いたことはないけど、否定しているところも聞いたことないな。でも本当に使っていたら今頃何歳だよ。それにしては見た目若くね?」と青木。

「いいな、肌きれいなの羨ましい」と佐々木が言った。

「本当の年齢は何歳くらいなんだろ。うちのお兄ちゃんも勉強時間確保のためにタイムキー使ったことあるらしいけど、1週間増やして、3教科分だったって言ってたなぁ」と直美が言った。

「和真くんと城ヶ崎さんじゃ、脳の作りが全然違うでしょ」佐々木は笑った。

「え、何言ってんの。朱雀4年の首席だけど」直美の声のトーンが急に冷たくなった。

「まぁまぁ、和真さん、優秀だよ〜。J.M.C.内でも大活躍中だよ〜」青木がその場を取り繕うと笑いながら直美を宥めた。

 教室の外が騒がしいことに気が付いた。

「珍しいな、会長じゃん」と青木。

 廊下からはJ.M.C.の会長が誰かと話す声が聞こえた。

「ですから、何度も申し上げている通り、部外者の立ち入りはお断りしております」おっとりとした会長は易しい口調で言った。

「珍しく、マランドールとしての仕事してるじゃん」と青木はその様子を見て言った。

「どういうこと?」と稲生。

「マランドールの本職って、学校を守ることだろ」

「知らなかった……」

 次の瞬間、腹の底から湧いて出たような怒声が聞こえてきた。

 わてのことかいかぶってあんま敵に回さんほうがええで。今すぐ引き取った方が自分のみぃのためや、というドスの聞いた声が突然聞こえてきた。

 夏帆は衝撃を受けた。会長だ。会長は優しそうな顔をしているが、怒らせたら怖い男であることが一発でわかった。

「そうは言われても、僕も会いたい人がいるんだよ」

 相変わらず無神経なセリフに、聞き覚えのある声。夏帆は動揺した。

「類……」

 夏帆は教室を出て言った。

「なっちゃん!会いに来たよ!」

 類は手を振った。夏帆は顔をしかめた。

「高橋さんのお知り合いですか」と会長は夏帆にいつにもない鋭い目つきで睨んだ。夏帆は会長に拝礼をした。

「では、外部者を来客室へとご案内しましょう」

 会長は、類と夏帆をじろりと見ると、案内するように先導した。歩き方から怒っていることがわかった。廊下の学生がジロジロとコチラを見ている。類は居心地悪そうに言った。

「機嫌悪そうだなあ、僕を怒らせても知らないよ。僕は……」

「腰につけているのは、ニューヨークのJohn Jovinoで買った最新式の拳銃、ブローニングハイパワーだとおっしゃりたいのですか」と会長は表情一つ変えずに言った。

「さすがマランドールおみごと……」と類。

「こちらへ」

 会長は来客室を指差した。

「高橋さん、お話があります」

 類だけ来客室へと入れ、夏帆は廊下で待たされた。

「来客がある場合は、いかなる場合でも、必ず、許可を取るように。たとえ相手がアポなしだとしても今後はあなたの責任です」

「申し訳ありませんでした」夏帆は礼をした。

 会長がいなくなったあと、なんで自分が謝らないといけないのかと憤った。

 

 来客室の中はいたってシンプルで、窓もなく、木造の机と椅子だけというまるで刑務所のような構造だった。

「久しぶりなっちゃん!」と類は笑顔で言った。

「いやあ、一度来てみたかったんだよね、この学校!それで来ちゃった」

「おかげで私は怒られたけどね」と夏帆はふてくされて言った。

「紅茶でも飲む?」

 そういうと、夏帆は杖を振り、目の前に紅茶を出した。

「なんか、なっちゃん、大人びたね」と類は言った。

「要件は?」

「ないよ、本当に、ここに来てみたかっただけなんだ」類は紅茶を一気に飲み干した。

 夏帆はため息をついた。

「学校はどう?友達できた?」と類。

「楽しいよ」と夏帆は言葉を絞り出して言った。

「それはよかった」

「あなたは?」

「僕は変わりないよ」

「ジャーナリスト?」

「ああ」

「類、こんなに優秀なんだから、魔術院とかに通って、もっといい職を目指すのはどう?」

 類は表情一つ変えずにふっと笑った。「なっちゃん、間違えてもらっちゃ困るけど、僕は今とても幸せだ」

「今の仕事って、院長先生に言われて始めた仕事でしょ」

「その院長先生なんだけど」

「死んだの知ってる」

「いつ知ったの?」類は表情ひとつ変えずに言った。

「亡くなる直前」

「君は病院に来なくて正解だった。君が見舞いに来るんじゃないかってヒヤヒヤしていた」と類は言った。

 夏帆は何も答えなかった。

「罠だったんだ」と類は続けた。

 そう罠だった、という声が聞こえて夏帆は振り向いた。そこには竹内夏海が立っていた。類は銃を構えた。

「私をどうするつもり?」と夏海はにやりと笑っていった。

「今日はお前を殺しに来たんだ。竹内家の無能な恥さらしをな。誰の指示もないところでよく働いてくれている、と直人の父親が言っているのを聞いたことがある」

「類……」夏帆は立ち上がり、杖を構えた。

「私を殺しても意味ないわよ、秋山さん。父はあなたに別の死角を送り付けるだけ。のこのこと、そちらから私の元にやってくるなんて、なんて都合がいいこと」

 夏帆には状況が読めなかった。助けを呼ぼうと、扉に手をかけると、鍵が閉まっていて開かない。

 夏海は夏帆に杖を向けた。「二人同時になんてなんて楽なのかしら」

「なっちゃん、こいつ、竹内夏海はね、院長が死ぬという情報を君に吹き込んで、君を病院に来させようとした。でもそれは罠で、病院は領域外と通じていた。一度許可なく領域を出たものは、再び中に入るための審査が厳しい。そして特定の人物を領域の中に入れないようにする権限を、竹内家は持っている」

「領域なんて得体が知れないもの、どうやって。というより、なんのために。私を消すため?」夏帆が聞いた。

「ああそうさ」と類。

「なんのためか知らないけど、私を消すために、そんな回りくどいやり方をする必要が……」と夏帆は混乱した。

「あるんだよ、なっちゃん、夏海は、そこまでの権威を持っていない。言っただろ、あくまで独断という体なんだ。それに回りくどければくどいほど、周囲にも本人にもばれづらい。なっちゃん、君はよくやっている、夏海も手焼いた。その結果が今だ」

「私何もしてない」と夏帆。

「だって、なかなか領域を出ようとしないんですもの、高橋さん。てっきり孤児院のご友人でもいると思っていたのに。卒業したら、高橋さん、外交パスポートを手に入れるでしょう。それからでは、領域外に追い出すことができなるもの。だから、ちょっと焦っちゃったな」

 夏帆は夏海に杖を向けた。

「にしても秋山類さん、よくぞここまでお元気でいらっしゃったこと」と夏海は笑った。

「日本魔法魔術学校に落ちてから、ずいぶんやさぐれていたと伺っていたけれど」

「類が、ここを受験した?」夏帆は類を見た。類は観念したような表情をした。

「院長は僕を塾に通わせてくれたんだ。当時の僕は直人より賢かった。それで竹内家に目をつけられたんだ。僕の元には偽物の受験票が届いた。表記のあった受験日も一日ずれていた。あの忘れもしない雨の日、唖然とする僕らの前に夏海が現れ、全部私がやったの、と高笑いした」

「わざわざ私がやったと名乗るなんて馬鹿じゃない?」と夏帆は言った。

「レコードも私がやったのよ」と夏海は言った。

「院長の持っていたレコードは私が贈ったの。不思議に思わなかった?なぜいつも24のカプリースが流れているのか。あの曲が流れている時は……」

「やはり盗聴できる仕組みだったか。なっちゃんの一言からね、なんだか怪しいと思って調べて、すぐに処分したが……」

「流石な高橋さん。バイオリンがラッパの音に聞こえたでしょう。魔法に敏感な人だと、魔力を介した音は、違う音に聞こえるの。音楽って不思議よね」

「そんなことする必要が?」

「あるのよ。あなたは院長がどんな人かを知らない」

「知っている。院長は、綾野文の天敵だった」

「いいえ違う。院長の父親が、綾野文の父親の仕事上での天敵だった」

「綾野家は、竹内家の子分みたいなものだからな。綾野文は晩年そのしがらみから離れたがっていた。だから、あんなことに」と類は言った。

「詳しいわね」と夏海。

「ジャーナリスト舐めるなよ、君らに忖度して記事を出していないだけだよ。まだ殺されたくないからね」

「なら、もう一つ良いこと教えてあげる。院長一家を領域から追い出した当の本人は、この学校内にいるわよ」

「院長は確か父親が死んだから領域を出たはず。犯人がこの学校にいるって、つまりJ.M.C.が院長の父親を殺したってこと?」

 なぜそれを知っているの、と夏海の冷たい声が響いた。

「あなたたち本当に運がいいわね」

 突然夏海はそういうと、蛇のようにするっと消えていった。その瞬間、扉がガンっと蹴って開く音がした。

「何してんの!」

 入ってきたのは、会長と城ケ崎だった。同時に入ってきた警察に拘束され、類は連れていかれた。大勢の見物人がいる。会長は各所に指示を出していた。なかなかの大事になっていることが一目で分かった。

「大丈夫?」と城ケ崎は優しい声で夏帆に尋ねた。夏帆はわっと泣き出した。城ケ崎は落ち着くまで、背中をさすってくれた。

「なんで、え、なんで」夏帆がやっと出した声だった。

「ごめんね、私学校中を監視しているのよ。そうしたら、この部屋で大変なことになっていたから警察呼んだの」と城ヶ崎。

「なんで助けてくれたんですか……」

「当たり前でしょ」

「私のこと殺したいんじゃ……」

 夏帆の言葉に、城ケ崎は笑った。

「マランドール戦で竹内直人を勝たせるため?そんな子供のお遊びに本気で付き合っているほど私暇じゃないの」

 

 寮までの帰り道、城ケ崎がずっとついてきてくれた。音楽室の前を通ると、誰かがピアノを弾いていた。竹内直人だ。曲は、ラフマニノフピアノ協奏曲第2番。城ヶ崎は夏帆の感情の揺れに気が付いたかのように、足を止めて、演奏を聴いた。

 まるで何かに取りつかれたかのように、夏帆は歩き出した。そして、もう一台あるピアノの前に座ると、第2ピアノのパートを弾きだした。自然と指が動いた。おそらく、図書館やギルド伯爵の家でこの曲を聴き込むうちに体が覚えたのだ。魔法使いは指遣いだけはすぐに覚えられる、前に本で読んだ通りだ。それに、この曲の楽譜が両親の家にも置いてあったことを夏帆は忘れてはいなかった。直人も昔、母親が好きで弾けるようになったと美咲と話していた。良縁か悪縁か、よく出会う一曲だ。

 第2ピアノの音に気がつき、直人は一瞬夏帆の方を見た。しかし、それ以上は特に何も言わず、演奏に集中していた。二人の演奏は驚くほど相性が合った。初めてだというのに、示し合わせたかのように、タイミングと表現がぴったしと合う。

 まるで、昔を思い出す時のように、脳裏がガンガンと鳴った。丘から見下ろす風に揺れる草原。何かに揺られる大きく無機質な音。そして、桜の花びらがさらりと舞う。

 弾き終わると、音楽室に多くの人が集まっていることに気が付いた。みな、演奏を聞いていたのだ。

「始めたなら最後までやれ」と直人は夏帆に向かっていった。その意味が夏帆にはわかった。マランドール戦に出ろという意味だ。

「私は何も始めていない」

「いいや、入学した時点で始まっていた。僕が君に図書館で声をかけたその時からだ。そういう運命なんだよ。僕は決勝戦で君と当たることを希望している。君を倒さなくては、真の意味でマランドールになったとは言えないからな」

 まるでギルド伯爵みたいだ、と夏帆は思った。

「あなたがそういうのなら、私はそれに答えはまで」と夏帆は言った。

 

 夏帆がふと廊下を見やると、遠目に夏海がいることがわかった。夏海は夏帆と目が合うと、気まずそうに去っていった。一方の城ケ崎は、夏帆と目が合うと、にこりと笑った。

「これで当分、夏海さんもあなたに手を出してこないでしょう。彼女は大のお兄様好きですから。兄の敵を消すってやっきになっているけど、その兄本人がそういうのなら従わざるを得ないでしょうからね」と城ケ崎は夏帆に言った。

「夏海さんが裏で何をしているか、気づいていたんですか」

「当たり前よ、何年生きていると思っているの。こどもはこどもなりに小さな社会があって、大変ね」と城ケ崎は笑った。

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