第7話 イギリスの紳士

 頭を強く打ち付けたようだった。どれだけ眠っていたかわからないが、暫くして肌寒いことに気が付き、夏帆は起き上がった。

 ここで夏帆は気が付いた。制服のローブのまま来てしまったことに。そして、着替えもお金も身分証も何も持ってきていないことに。

 

 夏帆のいる場所は時の部屋であることには違いはなさそうだった。冷たい床の上に空になった小瓶が転がっている。

 部屋を出た先の学校の廊下はシンと静まりかえっていた。真っ暗な闇が続く様子は、現在が夜であることを示していた。しばらく廊下を歩いていると、見覚えのない掲示板が置かれていた。何かが剝がされたあとに、新しいポスターが貼られている。

『マランドール新設、説明会開催』

 日付は1999年と書いてある。夏帆が生まれてすぐのことだ。

 教室から息を荒げた男女数人の声が聞こえてきた。

「綾乃もう追ってきてないよな?」

「ああ、大丈夫だ。今日はもう帰ろう」

「次の集会は?」

「もう限界だろ」

「ここまできたのに諦めるの?」

「ここまできた?何も進んでいやしないよ。後ろ盾も失った。裏切者も出た。マランドールなんて見張り役まで置かれたらもうおしまいだ。卒業したら俺らは……」

「捕まるって言いたいの?」

「それなら良い方だ。きっと僕らは殺される」

「……」

「待てよお前、お前J.M.C.だろ。竹内家がなんとかしてくれるよな?そうだろ」

「その竹内家が俺らに兵を差し向けたんだ。J.M.C.をなんだと思ってる。J.M.C.は竹内家の政敵を殺す、ただの暗殺集団だよ」

 山瀬桃実がJ.M.C.を調べろ、と言っていたことを夏帆は思い出した。

「冗談、だよな」

「ほんとさ。もうあとはそうだな、海外に行くしか方法はない」

「海外って、立川おまえ年離れた弟いるだろ」

「つれていくしかないよ、両親説得して、一家で移住するしかない」

「現状海外にはいけやしない」

「領域の外に出て、飛行機を使えば」

「ここにきて人間を頼る?俺らは何のために戦ってきたんだ」

「お前らほんと笑わせてくれるけど、だいたい俺らはずっと人間のまねごとをしてきただけなんだよ。これを見てみろ」

 女性の発狂する声が聞こえた。

「黙れよ、バレたらどうする!方法はあるだろ。楕円十字のマークの隣にある領域との通路。劇場の隣だよ。あそこは外交官用の通路だが、夜中の2時から3時は、『サクラ咲いた』と言えば通してくれるんだ。外交官が特権でプライベート利用できるようにだよ」

 まるで夏帆のために言っているかのように聞こえた。これがエンジェルオイルの効果だ。学校を飛び出すと、街中を走った。オイルの効果は24時間。それまでに両親と会い、そして、帰ってこなくてはならない。

 お店のウィンドウの時間を見ると、午前2時30分。劇場までは徒歩30分。タイムワープの疲れで瞬間移動はできない。急ごうとしたその時、ウィンドウに飾られていた週刊誌発行のニュースが気になった。孤児院の時の院長が大々的に記事になっている。為替取引で大失敗、一家で領域外に移住、転落人生、と書かれている。

 記事を読んでいる時間はなく、夏帆はただ劇場まで走った。院長も色々あったのだ。許すことはないが。

 劇場の隣に、小道があった。その一番奥には灰色の扉がある。重い扉をゆっくり開くと、受付があった。女性の案内人が1人窓口の向こうに座っている。

「外交証をご提示ください」

「サクラ咲いた」

「どちらまで」

「イギリス、ディーンの森」

「準備が整いました。どうぞ」

 夏帆はさらに進んだ奥の扉をゆっくりと開き、中へと入った。


 イギリスはまだ日が出ており明るかった。目の前には小屋があった。振り返ると扉はなくなり、小道とその奥に森が続いていた。

 浅木は、両親は森に住んでいたと言っていた。夏帆は森の中へと足を踏み入れた。

 あてもなく歩き続けた。だんだんと森は光を失い、真っ黒に燃えるような木々がごうごうと夏帆に襲い掛かるようにそびえたっている。リスといった小動物ががさごそと音を立てる。そのたびに全身が震えた。

 しばらく歩くと煙が見えた。小屋の煙突から出ている。遠目から見てみると、明らかにアジア人が住んでいた。写真で見たことがある、両親だ。なぜかわからない。夏帆の目からは涙がこぼれた。

 

 父親と目があった。向こうは杖を構え、こちらを警戒して、小屋の外へと出ようとしている。夏帆も小屋へと近づいた。

「誰だ」

 鋭い目つきだった。

「高橋夏帆です。娘です」

 父親は全身をじろりと見つめると、低い声で「入れ」と言った。

 小屋の中は嫌なほど静かだった。机といすが一組、木でできたベッドが奥に一つ。それと衣装棚に使用していると思われる段ボール箱。その上には、英語で書かれた何かのチケットが2枚貼られた写真立てのみが飾られている。ゆりかごに赤ちゃんが寝ていた。

 両親は警戒するように夏帆を見た。

「浅木さんに、浅木遥さんに言われました。タイムキーを使って、両親に会いにいけと」

「か、遥が……」

 両親は顔を見渡すと、椅子に座るよう促した。夏帆が想像していた両親との面会とはあまりにも違いすぎた。気まずい時間が流れた。

「なぜ来たのかしら?」

「お伝えしたいことがありました。お願いです。逃げてください」

「とっくに逃げているよ」父は言った。

「あなたが今ここにいる。あなたは助かる。それで十分じゃない」と母。

「私にはあなたたちが必要です」

「君は何か間違っているんじゃないかな?」父は言った。

「君がタイムワープした結果が今の未来だ。未来に私たちが存在しないのであれば、私たちは殺される運命なのだよ」

「殺される?私、殺されるとは一言も言っていません」

「殺される気がする。だからここに逃げてきたんじゃないか。もう覚悟はできているよ」

「なぜ殺されると思って……」

「今の君が知らないのであれば、それは君が知るべきではないからだ」

「あのおしゃべりな遥でさえ言わなかったのよ。未来できっと、あなたにとって知らない方がいい事実なのよ」

「ヒントもくださらないのですか?」

「ヒントをもらいに君はここへ来たのかい?そうじゃないだろう」

「あなたは逃げてきたのよ。でも、どんなに苦しくてもあなたはあなた一人で生きていかなければならない」

「ああそうだ逃げてきた。これは逃げだ」

 たまらなくなり、夏帆は立ち上がった。

「なぜあなたがたは、娘の私にそんなに冷たいのですか?」

 ああ、わかった。私が生まれなければよかったのだ。私が生まれたからこそ、今のこの生活を強いられているのだ。守るべき存在ができてしまったがために、殺される覚悟もできず逃げてきた。そういうことか。

「今日という日が来る気がしていてね」

 そういうと父親は棚の引き出しをぎりぎりと引き出すと、一つの封筒を手渡した。

「これは、君が今だ、という時に開けなさい。君が苦しんだ時、その時に最も必要な情報を与えてくれる」

「つまりその情報があなたたちの秘密かもしれないし、あるいはそうではないのかもしれない」と夏帆。

 父親はこくりと頷いた。

「君はここにいるべきではない。さあ、元の世界に戻りなさい」

「私の話を聞いてください」

 夏帆は机上の封筒に手をつけようとも思わなかった。両親は顔を見合わせた。答えを待たず、夏帆は全てを話した。フラッシュバックのこと、殺された後どこの病院に運ばれたか、その後の夏帆の孤児院のこと、学校のこと。それをさも関心があるかのようにうんうんと頷いて二人は聞いていた。2人に関心など全くないことなど痛いほどわかった。夏帆は両親の態度にだんだんとイライラしてきた。

「だから、私のことに興味はないんですか!あなたがたの子供なのに!」

「そう言われても、私たちにはわからないのよ。あなたが本当に私たちの子供なのか。私にとって高橋夏帆はそこにいる赤ん坊。あなたはあくまで赤の他人に見えるのよ。なんなら少し怖いと思っているの」

「私が君に言えることは、君は君らしく、だなんて甘い言葉じゃないんだよ。批判的にならず、物事に柔軟になり、周りに合わせることを時にはしなさいということだ」

「あなたがやろうとしていることは全部批判的。そんな自分を認めてもらおうとしているのね。でも、今の私たちにはそんな甘いことは言えないのよ。もし、あなたが本当に私たちの子供だとしたら言えることはただ一つ。組織に従って生きなさい」

「きれいごとは言わないってことさ。なぜここに逃げてきた」

「逃げてきたわけじゃないです」

「でも君は確かに来た。今このタイミングで、この時期に行こうとした」

「時期を選んだのは、浅木先生にこの時期に行けと言われたから……」

「ねえ、なぜ遥はこの時期に行けと言ったのかしら?おそらく私がこのあと遥に言ったのよ。何日にあなたが来たって。それを今まで覚えていて、いざ過去に向かおうとしたあなたに、過去の事実として、何日に行けっていったということよ」

「この時期に来ることに意味があるってことさ」

 二人はまるで宗教じみているかのようだった。夏帆はそれが恐ろしかった。何を言っているんだ、会話が成り立っているようで全く成り立たない。

「とにかく、未来の私が生き延びろって言っているんです。逃げてほしい、そんな娘の話を、親は受け入れてくれないのですか。どれだけの思いで、私がここへ来たのか」

「困ったな」と父親が言った。

「君の言うことが本当だろうとなんだろうと、過去は変えられない」

「知っています!」

「いや、君は何もわかっていない」

 夏帆はため息をついた。

「わかりました。帰ります」

「そうすべきね」

 母親のその言葉を最後に夏帆は家を飛び出した。


 森を抜け、小道に出るとしばらく歩いた。夏帆は両親に関して気になることがあった。二人が全く自分に対して警戒心を解いていなかったことだ。出された紅茶には、薬が混ぜられていた。何の魔法かはわからなかったが、はっきりと魔力を感じたのだ。加えて二人はずっと英語で話していた。おそらく普段から二人は英語で話し、そして赤子の私にも英語で話しかけているのだろう。学校の試験で語学をパスできた所以はそこにある。

 ふいに夏帆は足が動かなくなった。その場にうずくまり、号泣した。

「どうしたかね?」

 ふと見上げると、初老の男性が驚いた様子で、のぞき込んでいた。

「英語がわかるのかな?」

 夏帆は小刻みにうなずいた。

「次期に日暮れだ。もう帰りなさい」

 夏帆は首を横に振った。

「帰りたくないのかな?」

「帰る場所がないんです!」

 今にも泣きそうな夏帆の訴えに、老人は戸惑った顔をした。

「事情はわからないが、うちに来なさい」

 小道の先にある館が男性の家だった。金属製の門を開けると芝生で覆われた敷地。敷地内には木造の小屋も併設されていた。

 館に入ると、綺麗なペルシャ絨毯が敷かれていた。そこで靴を脱ぐよう促され、スリッパを出してくれた。

 居間に案内され、椅子に座った。

「紅茶はいかがかな?」

「お願いします」

 勿忘草の絵が描かれた美しいティーカップにミルクティーを入れた。日本では飲んだことがないほど薫り高く、とてもおいしい。夏帆はやっとほっとすることができた。

「お名前は?」

「高橋夏帆です」

「ほぉ。年齢は?」

「17」

男性は驚いた顔をしていた。

「君はなぜあそこに一人でいたのかな。なぜ帰る場所がないのかな」

 紅茶を飲むふりをして考えた。

「ゆっくり言葉を紡ぎだせばいい」

 夏帆はその言葉に驚き、そしてほっとした。必死に考え、出てきたのは、昨夜学校の廊下で聞こえた謎の学生集団の言葉だった。

「両親は元からいません。命を狙われて、日本からつい飛び出してきてしまい」

 男性はなぜだかわからないが、その言葉だけで、事情を察知したかのようだった。

「私は、ギルド・ストラッドフォード。ここは小さな家だが……」

「ギルド伯爵!」夏帆は思わず叫んだ。「え、あの?呪文分析学の?」

「いかにも」とギルドも目を丸くしていった。

「私、ずっと呪文分析学の研究者になりたくて、あなたを尊敬していました」

「それはありがとう。とにかく、君にも行き場がないのだろう。君を受け入れよう。1年でも2年でも何年でもいればいいさ」

「えっ」

 ギルドはにっこりと笑った。

 ギルドさんは、ジョーという夏帆の膝ほど小さな妖精とともに暮らしていた。とんがった耳に、小さな尻尾がついた生物だ。ジョーはシャツにズボンという至ってヒトと同じ服装をしていた。ジョーは家事全般なんでもやった。ジョーは無口で何も話さないが、食事の時はそれはおいしそうにごはんを食べていた。

 ギルドは夏帆に一室を与えてくれた。部屋は10畳ほどの広い部屋だった。勉強机と、木造で、赤い毛布の古いベッド、そして衣装棚が置いてある。窓際には、なぜか小さな皿に牛乳が入れてあった。

 窓からは道と森が見えた。美しい景色だった。


 毎朝、新聞記事のディスカッションから始まった。

「今日の記事はつまらないね。妖精についてだ」

「妖精?」

「知らないのかね」

「古い童話で見たことがある程度です」

「ジョーがそうだよ」

「えっ」

「確かに、奴隷のような側面が強い。でも私は一人の人間のように一緒に暮らしたいと思った。だから給料を与えない代わりに、家族として一緒に暮らしている」

 

 ある日は、人間のおばあさんを助けた魔法使いが表彰されたという話だった。

「どう思う?」

「素敵だなと」

「なぜ?」

「なぜ……川に落ちたおばあさんを救った。人間じゃ助けられませんでしたが、魔法使いだからこそ助けられた」

「ほぉ。魔法使いだからこそ」

「日本の人間学では、人間にどう魔法使いであることを生かして、助けるか、を学ぶんです。日本と同じものを感じました」

「君はそう思った。でも僕はそうは思わない。おばあさんは、助けてほしくはなかったかもしれない」

 夏帆は黙った。

「あるいは君は魔法使いだからこそ、といった。人間にも助けられたかもしれない」

「なるほど」

 そういうとギルドは首を横に振った。

「君の意見を否定しているわけじゃない。これは私の意見だ。君は反論せねばならない。反論できないのであれば、それは、君の議論が弱いからだ」

 それにも夏帆は反論できなかった。

「一つ考えてみてほしい。君は、魔法使いは人間を助ける、といった。それが存在価値であるかのように私には聞こえた。でもそれが本当の意味で、魔法使いと人間の違いといえるだろうか。君は人間を無意識のうちにばかにしてないか」

 そうこうすると紅茶がやってくる。また、ある日は中国茶に近い、ラプサンスーチョンが出された。ジョーのお気に入りだ。それを飲み終わると、併設された小屋へと移り、研究を開始した。お昼を食べ、紅茶を飲むと、ギルドによる講義が始まった。ここで得た知識はその後の夏帆が呪文分析学に長ける大きな要因となる。

 時には湖畔に出向いたり、森に向かったりもした。特にディーンの森は空気が澄んで美しい場所だった。ギルド家にあるピアノで、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を練習する日もあった。ギルドは、日本人はみんなその曲が好きなのか、と笑っていた。

 毎朝のディスカッションをしていると、一つ気になったことがある。日に日に殺人事件が増えていることだ。新聞に死者数や、場所が載り始め、ついには名簿も載るようになった。ちょうど現在はイギリスの内戦が始まった頃。世界史で習った内容が目の前で起きていたのだ。

「君は、どちらにも誘われたら、どちら側に味方する?」とギルドは言った。

「どちら?」

「悪魔ロビン・ウッドか、国王親衛隊か」

「どちらもよく知らなくて」

「この内戦は、ロビン・ウッドとそれ以外の内戦だ。ロビン・ウッドは何をなしえたいともわからんが、殺人を繰り返している。それに対抗できるのは、エジンバラ魔法魔術学校の校長、アーサー・ロウエルのみだと言われている。アーサー王からとって、その取り巻きを親衛隊と呼んでいる」

「まるで、悪魔ロビンウッドの味方かのようですね」と夏帆は言った。

「そういうわけではないが、私はアーサーを好きではない。権力欲の塊で、虎視眈々と首相の座を狙っている。いずれ政治界に出るつもりだろう」

 夏帆はしばらく考えた。

「どちらにもつきません。興味ないですから。静かにしているのが一番です」

「選ばなければならなかったら?」

「先に呼ばれた方ですね」

「ロビン・ウッドは悪魔と契約をしている」

「えっ……悪魔というのは形容詞的な意味ではなかったのですか」

「それも知らなかったのかね、君は」

「いや、いえ、まことしやかな噂は本当だったんだと」

 ギルドは笑った。

「これは私が一本やられた。確かに事実と確認はできない。そういう意味ではロビンの姿を見たものは誰もいない。ロビン・ウッドとは、我々が勝手に作り出した存在なのかもしれない」

「どちらにせよ私は人道に外れたことはできません」

「ではその常識が変わったとしたら?」

「なってみないとわかりませんね。でも私は古い人間ですからやはり、人を殺すのはよくないと思うでしょう」

「質問を変えよう。ロビン・ウッドは亜人をなくし、人間と魔法使いの世界を完全に分離することを望んでいる」

 世界史で習ったものの、夏帆はその事実を忘れかけていた。

「もし、人間出身者がいない世界が正義な世の中になったとしたら?」

「もとから思っていましたが、その、魔法使いとか、亜人とか、その争いが私にはよくわからないんです。日本人にはない価値観。なので、そこの論争に正直興味がない」

「興味がない。その意見は興味深い。話を戻そう。君はどっちの味方に付くかと僕は聞いた。怖いとは思わないのかね、参加しなければ、殺されるかもしれないとは思わないのかな」

「だって、ロビン・ウッドにも、アーサー・ロウエルにも会ったことありませんから」

「なるほど、つまり会ったはないが、殺される、という危機感もない。つまり、もし襲われても勝てると思っている」

「戦ってみないとわかりません。そうですね、確かに、負けないかもしれない、とどこかで思っているかもしれない。いや、現実にあることと思えないのかも」

 それからギルドは質問を変えた。

「親衛隊にはどんな人がいると思う?」

「ロビン・ウッドの極端な思想が嫌いな人」

「ほかには?」

「人殺しが嫌いな人」

「ほかは?」

「アーサー・ロウエルに媚びを売りたい人」

 ほーとギルドは言った。

「あとは?」

「戦闘が好きな人?」

「ほかには?」

 夏帆は必至に考えた。

「その考える過程が大切だ」と言いながらギルドは答えを待った。

「君はここでたくさんの選択肢を出さねばならない」

「親衛隊に入ってみないとわからないですね」

「それは面白い答えだ。君はまだ未熟だ。だが、研究者の素質がある。ご両親の職業はなんだったのかな?君が研究に出会った経緯を知りたい」

「私の両親は、呪文分析学の研究者でした。高橋令治と高橋恒子です。ご存じですか?」

 ジョーがギルドを呼んだ。その答えを聞くことはできなかった。

 そうこうしているうちに2年の月日がたっていた。夏帆はすっかり自立して研究をおこなえるまでになっていた。また時折、ロンドンまで繰り出し、念願のフェンシングを習いだすことができた。そして何よりもイギリスという国に、これ以上のない居心地の良さを感じていた。

その年も例年同様誕生日パーティーを開いてくれるとのことだった。ギルドとジョーが準備をしている時、夏帆はギルドの居室の棚のうえにあった木製オルゴールが気になった。オルゴールの蓋を開けると不思議な旋律が流れ出した。物悲しいが、心に刺さる音楽だ。

「それはワンスアポンアなんとかというミュージカル曲だ」

 振り返るとそこにギルドが立っていた。

「ああ、止める必要はない。昔私の共同研究者がロンドン公演の土産にくれた。ウィリアム・ピアーズの三大悲劇、『合わせ鏡』をもとにしたミュージカルの中で出てくる一曲だ。三大悲劇は知っているね?」

「ええ、3種の秘宝がモチーフにされた」

「ああそうだ、呪いの指輪、勿忘草のカップ、そして合わせ鏡。どういった話かは知っているかな?」

「あまり詳しくは……」

「スコットランドの居酒屋の息子の少年のもとに、ある日大勢の兵士がつめかける。兵士はなぜか、少年を我らの王だ、と主張し、参戦させられる。イングランド王に捕まった少年は、ある寒い日、獄中で隣から聞こえてくる歌を耳にし、忘れていた記憶を取り戻す。自分は、悪魔と契約した暴君だったこと、戦争に負け姿を少年に変えて身を隠していたこと。この曲は記憶を取り戻した時に歌う曲だよ」


 むかし むかし

 森の奥で

 消えた 記憶

 すべて蘇る


 幸せだった それに甘え

 自らすべて 手にかけたと

 

 心の中の 私の悪魔が

 そっと囁く さあ、おやりと


 むかし むかし

 遠い記憶

 思い出しても ただ苦しいだけ

 

 この歌 この音

 12月の記憶


「改心しようとするがもう遅い。悪魔になりかけた少年は、合わせ鏡に封印される。悪魔を唯一倒せる方法は今でも、合わせ鏡への封印のみと言われている」

「それにしてもこの曲は、あまりにもつらいはずなのに、絶望感だけではないように感じます」

「記憶を取り戻すことは自分を取り戻すことでもある。獄中につながれていることも必然、なぜなら自分は罰せられるべき人間だからだ。一方で、暴君となったのは悪魔のせい、自分のせいではない。そこに救われる思いもあったのではないかな」

「伯爵は、悪魔の存在を信じますか?」

「信じるも何も見たことがある人がいるのだから、いるのだろう」

「見たことがある人がいる?」

「ああ、そういう人に会ったことがある。悪魔にあったと言っていた。ただ、悪魔は、一説では魂に傷がついた人の前にしか現れないという。」

「魂に傷?」

「例えば殺人をしたり、不正をしたり。それにしては私は見たことがないがね」

「あなたは悪い人ではないでしょう」

 ギルドはふっと笑い、それ以上何も答えなかった。

「あなたは魔法の世界に神はいないといった。でも悪魔を信じるのですね」

「悪魔は日本にはいるのかな?」

「聞いたことはありません。ですが、鬼とか、怨霊とか、それに似たようなものは」

「ああ、神は、君たち、日本人にとってはたくさんいる。だが、我々にとっては、神はたった一人だ。同じ神という存在なのに不思議だろう」

「ええ」

「僕が魔法界に神がいない、と言ったのはつまるところそういうことだ。」

「そういうこと?」

「神を神と思っていないのだよ。同時に、人間は、神でないものを神と思いたいのかもしれない。そこにあるのはただ一つ。でもそれも捉え方次第ということだ。君は神を信じてみたいかな?」

「さあ。でも、見たことのないものを見てみたい気持ちはあります」

「それならもっと、心の声をよく聞くことだ。そうすると自ずと真実に近づけるだろう。悪魔とは何で、神とは何か。君は賢いが、自分の心の声を聞くのが苦手なようだ。魔法使いにとっては致命傷だ。君は亜人ではない。魔法使いなのだよ」

「亜人という言い方は好きではありません。魔法が使えないだけであって、人間ではありますよね。まるで、人にも満たないような言い方」

「亜人が人間以下の扱いを受けていた時期はある。ああ話し込んでいたら、すっかり忘れていたが、これは、私からの誕生日プレゼントだ」

 杖で一振りすると、夏帆のもとに小さな包みが送られてきた。中身を空けてみると、小さな懐中時計が入っていた。

「時計」

「私の特注品だ。身に着けて、時間を元に戻せば、時を戻すことができる。国の施設で研究をしていた時代に私が開発した。小型タイムキーだ。この時計は特殊で、もう一つ機能を持つ。知っているのは私ともう一人だけ」

「もう一人?」

「そいつもそれを欲しがっている。君がそいつにあげたいのであればあげればいい。それはもう君のものだから好きに扱えばいい」

 ギルドが質問に答えないときは、『意図がわかっていないわけではない。答えたくない』、という意味であることを夏帆が十分承知していた。

「そのもう一つの機能とは、どんな機能ですか?」

「未来に戻ることができる」

 戻る?未来に、行くのではなく、戻る?

「今……」と夏帆はつぶやいた。

「未来に、戻ることができる」

「知っていたんですね。私が未来から来たことを」

「ああ」

「いつですか?」

「君が私の前に現れた時、私はまだ伯爵位をもってはいなかった。だが、君は私に、ギルド伯爵、といったのだ」

「私をきちんと未来に返すため、私を受け入れたということですか?」

「間違えてはならない」とギルドは言った。「私は君を受け入れるべきだと判断した。それが事実だ。その時ことは始まった。君は帰らなくてはならない。なぜなら私がその時計を君に渡したからだ」

「意味がわかりません」

「僕は君にこれを渡さなくてはならないと思った。だから渡した。それが事実だ。君に渡したということはすなわち、君はそれを使わなくてはならないからだ。それが運命というものだ。実に論理的な話だ」

 夏帆にはよくわからなかった。

「僕は君に昔聞いたね。魔法使いと人間の違いは何か。僕の答えを言おう。そこに神が存在するかいなかだ。人間界には神が存在する。実に非論理的な世界だ。しかし、魔法界に神はいない。つまり論理でできている。この世は哲学なのだ」

 夏帆は顔をさらにゆがめた。

「物語に銃が出てきたら、必ず発砲される。君はその時計を手にした。すなわち使わなくてはならない」

「でも私の生きている世は物語ではない」

「そうと言い切れるかな。誰かが書いているのかもしれない」

「私は帰りたくない!」

「帰りたくないならそれは今帰るべき時ではないからだ。どのみちその懐中時計は好きにすればいい。なぜなら、先にも言ったが、それはすでに君のものだからだ。君は帰るべき時に帰ることになる」

「帰るべき時?」

「それがいつ来るのか今の君にはわかならないだろう。しかしいずれやってくる。君のご両親が亡くなったのは残念だが、それもまたそうなるべきことだったのだ。それと同じように君はある日、帰ることになる」

 夏帆はぽかんとしていた。

「今私が考えていることは二つです。1つはもしこの世が物語でできていて、すべてが運命なのだとしたら、その運命はどう決まっているのか。あまりにも理不尽すぎないか、人によって差がありすぎないか、ということです。そしてもう1つは、なぜ私の両親が死んだことをあなたが知っているのか、です」

「なるほど前者は研究のしがいがある領域だ。そして後者は、君が教えたからだ」

「教えていません。私は、あなたに、両親が研究者、と言っただけです。それに日本では、病死扱いになっている」

「君の発言が、大きなヒントだった。そういうことだ」

「ヒント?」

「それ以上は君にいうつもりはない。なぜならいうべきでないと思っているからだ。君は、君が知るべき時に、知ることになる。それが哲学だ」

 とにかくその懐中時計を肌身離さず持ってなさい、とギルドは言った。

 その年の6月。それは、小屋で研究を行っている時だった。

「ついにできたな」とギルドは言った。

「はい」と夏帆は答えた。

「では、私が試しに食べてみよう」

「やめてくださいよ、動物実験も済んでないのですから」

 鍋の中に黄色くてまるい、マーブルチョコのような固形物ができていた。

 遡ること1年前、ギルドは唐突にこう尋ねた。

「君に夢はないのかい?」

「夢?ないですね」

 ほお、とギルドは言った。

「夢があった方がいいとは言わない。ただ私は不思議なんだ。夢がないのに、なぜ頑張れる」

「そんな、頑張ってませんよ、私」

「いいや君は頑張っている。英語もずいぶんうまくなった。呪文分析学も、研究者を目指すそこらのポスドクと十分やりあえる。実験技術に関しては素晴らしいね。あとは考え方さえ学べば、研究者として独り立ちできる」

 夏帆は首を横に降った。

「私が気になるのはそれが謙遜かいなかだ。とにかく、君は自分では自覚していないだけで十分努力を積んでいる。しいて言えば、天才ではない、ということだな」

「天才ではない?」

 今まで天才と呼ばれ続けてきた夏帆には不思議でたまらなかった。

「私の知り合いに天才がいた。それはもう、嫉妬するくらい文武に秀でた人間だった。ただ、そいつは誤りを犯した。今は自分で自分を抑えているがね。天才とは、自分がまるで選ばれし者であると錯覚し、おごり高ぶるもののことを言う」

「なるほど……では一つ、小さな夢ならあります」

「小さな夢?」

「告白錠の無効化薬を作りたいんです。理論的には無理ですが」

「科学者として、無理という言葉は嫌いでね、でも、難しいだろう。告白錠はまだコード化されていない。それをさらに無効化しなくてはならない。コードができても、それから薬の調合を行わなければならない。なぜ作りたい?強い気持ちがなければ途中で頓挫するだろう。研究において頓挫はやっかいだ。元の世界に戻れなくなる」

「告白錠がなければよかったのに、って思ったことがあったんです」

「君が気持ちをきちんと表現できるようになったことはいいことだ。これは、英語ができるようになったからではない。君自身の内面が変わったのさ。わかった、やってみよう」

「ありがとうございます!」

「やはり君の笑顔は素敵だ」

「えっ?いやそんな・・・・・」

「自分ではそうは主な位かもしれないが、やはり笑顔が似合う。君はずいぶん笑うようになった」

 夏帆も薄々気づいていた。この生活の居心地の良さに。ギルド伯爵の言葉には棘を感じない。夏帆をけして攻撃しようとせず、尊重してくれる。


 こういう経緯から、二人は無効化薬づくりにいそしんでいた。

「だいぶコードはできあがったのだが」

 二人は告白錠を作り、そこに様々な物質を加えながら、コードをひねりだしていった。

「このままでは、告白錠をコードにするだけで5年はかかる」

「あの、提案なんですけど」

「ん?」

「先に無効化薬作っちゃうっていうのはどうですか?」

「というと?」

「理論を考えずに、まずは作るんですよ。そしたら理論ができるかもしれない」

「正気か?私は理論がなければ……」

「そうですけど、私もそう思いますけど、お互い協力しながらやるのが一番かなって。一つ提案があるんですけど……」

 こうして薬は1年という短期間で、本日完成を迎えた。

「これ、ちなみにどんな味するんでしょうね」と夏帆は言った。

「劇薬ってまずいじゃないですか。真実薬飲まされる前に変な顔したらばれません?」

「そうだな、このコードを見る限り、味は変則的であるようだ。例えば紅茶と一緒に飲み込むとしよう」

 ギルドは何やら書き出した。コードの一部を変えるだけで正解のコードを抽出する。プログラム化にギルドは成功していた。けして論文にしようとはしなかったが、凄まじい技術だった。

「紅茶を飲むと、レモンティーとなるようだ。そういえば昔日本に行った時、カフェで紅茶を頼んだら、ミルクにしますか、レモンにしますか、と言われ、質問の意図がわからなかったものだ。まあ、レモンティーは受けいれられない味とまではいかないが、紅茶はミルクに限る」

 ギルドは常に紅茶にはミルクのみで飲むのに対し、コーヒーにはミルクと砂糖をたっぷり入れて飲んでいた。甘党なのか、そうでないのかいったいどちらだというのだろうか。昔そのことを聞いたら、たいていのイギリス人はこんなもんだよ、とギルドは答えた。

「日本に行ったことあったんですか?」

「あれ、言ったことなかったかな?」ギルドはまるですっとぼけたような表情をした。わかりやすい人だ。意図して話してなかったのだ。そして、今、意図して話したのだ、

「とりあえず夏帆君、これは完成第一号として君が持っていたまえ。理論的に消費期限はないが・・・・・・・」

「理論通り毎回行くとは限りませんよ。理論が間違っていることもある」

 そういいながら夏帆は無効化薬を手に取ると、懐中時計の中にしまった。

 突然、地響きがしたかと思うと、いかにもイギリス紳士といった燕尾服に帽子にステッキを持った男性が立っていた。二人は杖を向けた。

「誰?」と夏帆は言った。男性はにやりと笑った。

戦闘が始まった。男性はステッキから呪いを放った。反射的に夏帆は懐中時計を回していた。気が付くと目の前にはギルドも燕尾服の男性もいなかった。

 目の前には大勢の人間がいた。土砂降りの東京駅だった。ギルドは懐中時計を回した時、時間とともに空間も東京に移動するようしかけをしていたのだ。

 夏帆は全てを理解した。戻ってきたのだ。元の時代に。全てが夢で会ったかのように醒めてなくなった。現実は膜を張ったように非現実的に覆われていた。高橋夏帆はその場で泣き叫んだ。


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