第6話 タイムキー
朝礼で、担任の浅木は皆にプリントを配った。
「履修届?」
佐々木が呟いた。
「来年は履修登録が必要でしょ?数学、身体科学、呪文分析学、人間学、占い学、医学、生物学……あとなんだっけ?」
先生は手元の履修届にちらりと目をやった。
「薬学、芸術、古代ルーン文字学の中から一つ選んで、そこに記入して提出ね。来年の専科を決めなきゃ」
「専科?」
「3年から履修する専門科目のこと。選択によっては将来の職業を左右するから慎重にね。それから前に話したけど来週は模擬授業ウィークだから忘れないどいてね」
「先生、聞いてないです!」
佐々木が手を上げて言った。
「あれ、言ってなかったっけ?履修登録で困る人が多発した結果、10年くらい前から実施されてる授業。まあ、ここだけの話あんまり意味ないんだけどね。私としては身体科学を取ってくれるとうれしいなぁ」
ボーイッシュな体育教師はショートヘアをさらりとなびかせた。
「あと説明会?この二つを考慮して再来週決定。あんまり悩んだって一緒だからパパッと決めちゃって。先輩にはこの授業は単位取りやすいとか、課題が面倒だとか、色々言う人もいると思う。でもやっぱり一番は自分の好きな科目を選ぶこと。あと将来なりたい職業を真剣に考えて。履修後、後悔している人何人も見てきているし、実際私もそうだったからね」
「先生は何取ったんですか?」と佐々木。
「私?呪文分析学。身体科学は卒業して一度就職した後、取り直したんだ」
「先生、分析学取ったんですか?」
クラスが急にざわざわし始めた。
「ほらほら、静かにしてー」
先生は両手でぱちぱちと叩いた。
「いや、私のころって分析学が一教科として始まったばかりだったから。難しいからこそ、単位が楽だとか聞いて履修したんだけど、大嘘でさあ。A4の紙2枚の解答用紙に問題一つだけ。それも、影分身術の構造式を明示し、分析学の意義を多角的に述べよ、とか言っちゃって……。影分身って陰陽道じゃない。確かに授業で習ったけどノーマークで、私、『分析学は呪文の解析に役立つ』の一文しか書けなかったもん。それ以降授業さえ出なかったしね。で、単位落とすでしょ。まあ一教科落としたくらいなら進学はできるけど、最終学年の時卒業できるか冷や冷やしたよ。私の友人には分析学にはまって、そのまま学者になった人もいるけど」
一瞬。ほんの一瞬、先生と目があった気がした。
「って話ずれてるじゃん!とにかく、将来を左右することもある大切な履修だから、何か相談があったらいつでも来てね」
皆が友人たちと履修の話をしながら授業の片付けをするのを横目に、夏帆はただじっと静かに用紙を見ていた。皆は親や先輩、友人と色んな相談方法があっていいな、と思った。私には何もそういうつてがない。せめてJ.M.Cに入れていれば、そんな考えがちらりと浮かんだ。
用紙をじっと見ながらクラスの人たちの会話が嫌でも入ってきた。
「来週午前で終了だってさ。ラッキーじゃん。終わった後、遊びにいこーぜ」と靑木。「ていうか浅木のやつ、職務怠慢じゃね?他の寮は全員と面談やってるらしいぞ」
「色々大事なこと忘れてるよね。せめて、どんな職業があるかとか教えてくれてもいいのに」佐々木が割り込んでいった。
「お前は何履修するつもり?」と靑木。
「人間学」と佐々木。
「人間学?お前が?」
「なんか就職に有利らしいよ。部活の先輩が言ってた」
「でも、先生最悪らしいぞ。贔屓するって」
その会話が正しいと、模擬授業で判明した。佐々木の言うとおり、人間学の授業は実に退屈で、どちらかというと哲学のようだった。朝一だったのもあるだろうが、開始早々に寝ている生徒もいた。
「人間学には大きく3つに分かれます。一つは、人間と魔法使いの違いについて。例えば、なぜ人間は電球を用いるのかについて論じます」
この時点で夏帆は人間学だけは取らないと思った。竹内先輩がなぜあそこまで人間学に終始するのかまったくもってわからなかった。
「それから一つは同じ点について。そして、最後の一つは人間界において魔法使いの意義について学びます。ここは専科で学ぶ、最も面白いと言えるところです。一貫しているのは人間と魔法使いは共生すべき同じホモサピエンスだということです。もちろん、魔法使いは人間に虐げられてきました。それに目をつぶれとはいいません。しかしながら、その過去を認め、受け入れ、未来に向かわねばならないのです。私たちはお互いを許し合わなければなりません。過去をいつまでも振り向かず、未来に突き進む必要があります」
同じことをこの先生は何度も言った。
第二次世界大戦の際に魔法使いは人間界の要請で多くの犠牲を出したと歴史で習った。しかしそれは虐げられていたわけではない。兵器や人員の援助を行うと最終決定したのは政府だ。その後日本は戦争に負け、人間界からの見返りが求められなかったのは、あくまで外交上の失策だ。
「では、ここで過去に卒業試験で出た問題を見てみましょう」
先生はプリントを配った。そこにあったのは人間界の新聞記事。12年前に起きた大地震だった。
「魔法使いとしてできる限りのことをするとなれば何があるか?人命救助の観点から原稿用紙5枚分に述べよ、というのが問題でした。国際条規第1条『魔法界は人間界にその存在を知られてはならない』にも触れなければなりません。この問題ですが、正答率は低かったと言われています。原因は、基本的な論理展開能力の欠如と、人間との共生について日本と欧米諸国での認識の違いが足りなかったということです。ここからわかるのは何だと思いますか?」
先生は教室をくるりと見渡した。
「魔法使いの存在意義が次第に問われつつあるということですね。我々は古来より、陰陽道というものを通し、魔力を人間のために役立てることによって共生を果たしていました。一方欧米は、魔女狩りで人間から虐げられてきた歴史があります。現在日本は鎖国をしていますが、いずれ開国をしなくてはならないでしょう。その際、我々はどう生きればいいか」
―そういうことか
夏帆は手をあげた。
「はい、高橋さん」
「1984年問題は」
「よく知っていますね」と先生は言った。「1984年に定められた国際魔法条規特項、魔法使いはマグルに政治利用されてはならない、という取り決めです。日本は、この取り決めに批准しなかったことが、鎖国の決定打となりました。そもそもこの条規は曖昧に定義されており、細かい取り決めがなされていないことが問題だというのが、日本政府の見解です。つまり人間学は魔法使いの存在意義に直結する問題なのです。来年は人間と魔法族の違いについて詳しく学びましょう」
私の存在意義がわからないというのに、魔法使いの存在意義などわかるはずがない。でも逆説的にとらえれば、魔法使いの存在意義さえわかれば、自分の生きる意味にもつながるのではないか、と夏帆は考えた。
模擬授業というのは案外楽しいものであった。生物学では霊獣朱雀とふれあった。占い学では、相手の心の開き方についての講義があった。身体科学は浅木の担当授業だったが、体育とは打って変わったものだった。どのようなトレーニングを行えば魔法を使った戦闘において華麗な身のこなしをすることができるか。どのような杖裁きをすれば相手に怪我させることなく、確実にダメージを与える魔法を繰り出せるか。などどれも夏帆には興味があるものだった。
数学は原子の変化速度や原子構造が変化した際の大きさのはかりかたを学び、変装の実習を行った。
医学では、写真から病を判断する方法について学んだ。
そして、古代ルーン文字学。一時間目はルーン文字で書かれた文章を読む作業に徹した。夏帆たちはただ解説を聞いていた。2時間目、このルーン文字によって発見された呪いがあることを知った。死の呪いだ。
「呪文はほとんどがラテン語から来ていますが、これだけは古代ルーン語から来た呪文です。人の死に関して、どれだけ古くから考えられてきたか、また、どれだけ罪深いことかがここから読み取ることができます。1年生の護身術で習った死の呪いのはね返し方は、唯一のこの呪いへの対抗手段です」と先生は述べた。
どれもこれも科目を履修してもらえるように先生たちは工夫をしている。
模擬授業ウィークも最終日。待ちに待った呪文分析学だった。夏帆はあらかじめ配られた資料に目を通し、わからないところは図書館で調べ、十分な予習をしてきたつもりだった。
「さあ、それでは、呪文分析学を始めますよ!」西園寺先生は想像とは違い陽気な人だった。メガネをかけ、パーマの髪に、中年太りをした体型からはまるで想像できなかった。
「なんか難しいとか噂流れているみたいで取る人少ないんだよね。みんなもそう思っているでしょ?今日、一気に覆すから!呪文の構造式について学び、分解する。そうすることで法則性を掴んで、いろんな呪文を解析したり、新しい呪文を作り出したりする。美しい学問だよ」
西園寺先生はところどころ抑揚をつけながらはきはきと話した。どこが重要なのかどうなのかわからないが、とても魅入られる。
「それじゃあ、今日は簡単な浮遊呪文を解析しよう。まず構造式を黒板に書くから写してね」
みなは顔を見合わせるばかりでまじめにとろうと思うものは少なかった。夏帆もその一人だ。なんせ複雑すぎる上に立体構造がうまくつかめない。解説もなしに写すのは至難の業だ。
「ここまでOK?まあ、色々あるんだよ。ここの構造の化合名称をテトラ化合っていうとか、この形を二量体っていうとか、でも今日は省くよ!ちょっと解説すれば簡単にわかるところだから!」
省くという言葉に、夏帆は衝撃を受けることしかできなかった。つまり基本を省くと言っているのだ。模擬授業だと言うのに。
「それじゃあ、この浮遊呪文について解析をしよう。この呪文皆知っているよね?呪文の前半を解析文字に置き換えるとkg7ekとなる。次に、後半は名詞だからg84js。この二つが合わさることによって重力付加の法則がかかり、これに重力加速度が下回るからストラッドフォード結合によってkg5wtとなる。これは簡単だね。それから……」
先生の解説はどんどん早くなっていった。
「ここまでOK?じゃあ、少し休憩しよう。2時間目にあと半分を解説するからね!」
夏帆の心はここで折れた。2時間目が終了した時、放心状態に陥っていた。
履修科目について真剣に考えることができるようになったのは、一日経ったのちのことだった。呪文分析学を本当に学びたいのか、この道で間違っているのではないか。安易に単位を取りやすいものを選ぶな、とはいうが、卒業できなければ元も子もない。頭の中は不安でいっぱいになった。
あの教師がダメだったのではない。呪文分析学そのものに興味を失ってしまったような虚しさ。毎日、ぼんやりと無駄な時間ばかりだけが過ぎてゆく。
ここは心を入れ替えようか、そう思い、夏帆は図書館へと向かった。
人間のことも学んだ方がいい、という竹内直人の言葉を素直に受け取っていた夏帆はいくつか人間界の作品を読んでいた。ファンタジーと呼ばれるそのどれもが、確かにまるで魔法界を知っているかのようでどきりとさせられるリアリティがあった。人間学もいいな、と思い、『タイムトラベルに対する人間の認識について』という本を、呪文分析学から逃げるように手に取った。
タイムトラベルに関して人間は主に2つの仮説を立てているようだった。1つは過去に戻ることで歴史を変えることができるというもの。もう1つは過去への干渉を含めた現在であるから、歴史を変えることはできないというもの。魔法使いであれば後者が正しいことを知っている。しかしそれを理論的に説明しろと言われるとできない。夏帆は図書館で本を探し続けたが、呪文分析学の権威、ギルド・ストラッドフォードの著書にも全く載っていなかった。
「タイムトラベルに興味があるの?」
聞き覚えのない声に嫌な予感がした。顔を上げると、目の前に立っていたのは男女2人だった。一人は竹内直人。そうしてもう一人は茶髪でショートのウェーブのかかった女性だった。マントの裏地は白色。白虎寮の学生だ。
図書館にいた夏帆は、机に本をおくと、急いで立ち上がると、拝礼をした。
「そういえば最近オーストラリアで面白い論文が出たの。タイムトラベルをしても歴史は変わらない、ということを人間の数学者が理論的に説明したそうよ。魔法使いが人間に先を越されるなんて、私たちの存在価値ってどこにあるのかしらね」と女性は早口で流暢に言った。目鼻立ちの整った、美しい女性だった。夏帆は混乱した。
「あら戸惑わせてごめんなさい。私、父親が仕事でオーストラリアにいるの」
鎖国中なのにオーストラリア?
「私、人間と亜人のハーフなのよ。そこから魔法使いが生まれるのだから遺伝子ってわからないわよね。あら、両親の話をしてしまってごめんなさい。ほら直人」と女性は言った。女性の話し方は底知れない気持ち悪さがあった。その気持ち悪さがどこから来ているか、夏帆にはわからなかった。
「勝手に連れてきたのは君だろ。だから僕は」と直人が言った。
「ああじゃあもういい。私から聞くわ。今年のマランドール戦でるの?出ないの?」と女性は鋭い口調で聞いた。
「失礼ですけど」夏帆はちらりと女性の顔を見た。「どちら様ですか?」
「……。」
夏帆は再び、ゆっくりと礼をした。
「これは失礼。J.M.C.会員の白虎寮5年渡辺花菜です」声色から怒っていることがわかった。
背後から笑い声が聞こえた。ちらりと振り向くと、花森美咲が稲生和真を従えて立っていた。
「いや、面白いことになりそうだからついて来てみたら」というと、美咲はクスクスと笑った。
「思ったより高橋さんって強いのね。あまり年下をいじめちゃだめよ、香菜」と美咲。
「でもね、私も気になるかも」美咲は夏帆の耳元でささやいた。
「マランドール戦は2年生から参加可能。でも、辞退も可能」と美咲は続けた。「どうするの?もう12月よ。申し込みは年が明ければ始まる。普通は辞退をしないけど、あなたはどうするの?」
「それは出ない方が良いということでしょうか」
「そんな意地悪なこと言ってないでしょ」と美咲。「別に次期6年に譲るべきなんて決まっていないもの。でもね、あなたがマランドールになれば、上下関係が面倒なことになるわね」
「それは私の知ったことではありません。結果が全てでしょう」と夏帆は美咲の目をはっきり見て言った。
「去年私や桃実さんに勝ったくらいで調子に乗ってんじゃねぇぞ」
美咲は突然表情を変えて言った。夏帆は笑った。
「ご心配なく。私、出ませんので。要件はそれだけでしょうか」
そこへとある男性が走ってやってきた。
「美咲さん!練習しましょうよ!」
「林、今じゃない」と和真が気まずそうに言った。
「え、この空気なに?」と林は言った。
「ああ」と美咲は言うと、夏帆をにらみつけながら林、和真とともに去って行った。行くよ、と香菜は直人の裾を引っ張った。
「みんな気が立っていて申し訳ない。君も君だけど」直人はそういうと、その場をあとにした。
寮に帰ると、夏帆はキッチンにおいてあったコーヒー豆をミルで力強くつぶすと、お湯を魔法でさっと作りだした。抽出したブラックコーヒーを一気に飲み干すと、コップをどんとおいた。
「どうした?」と青木。「それにその豆僕のだ」
「え、あ、ごめんなさい」と夏帆。「ねえ、花森先輩って最近何か良いことでもあったの?」と夏帆はイライラして聞いた。
「え、なんでそんなこと聞くんだ」青木のその声が明らかに動揺しているのがわかった。
「え、なんかごめん。悪気はない」
「いや、あーそういえば、J.M.C.の会長に美咲先輩を就かせようっていう運動が組織内で起きてはいるかな。人気者だからさ」
「あの人が?」
「なんかあった?」
「いいえなにも」と夏帆は怒って言った。
「順当にいけば、竹内家の直人さんが会長につきそうなんだよね。創始者の息子だから会長になるに決まっている。でも、そうはさせないっていう勢力があって」
「でも、会長って、一番決闘強い人なんでしょ?コネを使いたければマランドール戦で勝てばいいのよ。竹内先輩の方が強いんじゃないの?」
「それはそう。だから内部分裂になりかねない状態」と青木はどこか心あらずのまま言った。
「ならそれ嫉妬ね」と夏帆は言った。
「コーヒー飲む?」と青木。
「お願い。砂糖2個いれて」
翌日になって、冷静になった夏帆はまずいことをしたことに気がついた。今後のためにもと思い図書館に行くと、案の定、直人がいた。
「竹内先輩、昨日は申し訳ありませんでした」
「それを言うのは僕らのほうだよ」と直人は目を丸くして言った。
「少々組織内が荒れていて、角が立った言い方になってしまった。マランドール戦に出るも出ないも君次第。それをとがめることは誰にもできない。マランドール戦で決まった結果は誰にも文句を言えない。みんな僕が君に……いいやなんでもない」
「本当にマランドール戦には出ません。興味がありませんから」と夏帆は言った。
「マランドールになると良いこともあるよ」と直人は言った。「もちろん、その全貌はなったものにしかわからないけれど、なってよかった、というマランドール様は多い。君が何に興味があるかによらずね。やれることが増えるし、選択肢を広げることができる。学生という立場でしかできないことだって、たくさんある。何より毎日が多忙で充実して、何のために生きているのかはっきりと自覚することができる。素敵なことだ。ただ、1つ気がかりなことがあるといえば、君はJ.M.C.ではない。君がマランドールになったら、僕らは君と対立せざるを得ない」
「どういうことですか」
「学校トップは僕らじゃないといけないんだよ。そうあり続けなくてはならない。それが僕ら、J.M.C.の使命だ。だから、マランドールを僕ら以外の者がなれば、僕らは全力でその権力を奪いにいかなくてはならない。君としたかった学術的討論をできなくなるのは残念だ。あ、これは別に、だからマランドール戦には出るなって意味じゃない。メリットとデメリット、どちらも提示しないのはずるいだろ」
「もしかして昨日、あなたは私とタイムトラベルに関して学術的討論がしたかったんですか?」と夏帆は控えめに笑った。
「タイムキーの開発者を知っているか?」と直人。
「タイムキー?」
「時の部屋にあるタイムキーだよ。過去に行くことができる装置だ」
夏帆は首を横に振った。
「ギルド伯爵」と竹内は静かに言った。
「ギルド・ストラッドフォード」と夏帆は返した。
「彼がまだイギリス政府特任研究員時代だった時に開発したものだ。記憶と意志を合成することに成功した。彼の純粋な、過去へと行きたいという気持ちが、時と空間という相反するものを融合させたんだよ」
「なんだか難しいですね」と夏帆は言った。
「理解したいという気持ちが大切だ。魔法とはそういうものだ。高橋効果だよ」
思わず夏帆は直人の目を見た。直人はまっすぐに夏帆を見つめていた。その目はとても冷たかった。
「聞いたことがありません」と言った。「似たものでギルド効果なら知っています」
「魔力の強化には意志が必要」直人は淡々と言った。「ギルド効果、またの名を高橋効果。君のご両親だよ」
「……。」
「君のご両親は呪文分析学の学者だ」
「私も知り得なかったことです」
「君が知ろうとしなかったからだ。ギルド伯爵は、高橋効果が発表された後、意志の構造式化をなしえた人物。一般的にも理解しやすい本を書き、世界的に有名な学者となった。そういう意味では、君のご両親よりも一枚上手だったんだ」
「高橋効果などどこにも見たことがありません」
「つまり、君は、僕の話を信じないということかな」
次の瞬間、無意識に夏帆は杖を取り出すと後ろを振り向いた。しかし、気が付くと杖はその手から離れ、真二つに折れると、地面にころりと転がった。夏帆は動揺した。
「すまない、手が滑った」
直人はニヤリと笑って夏帆の折れた杖を直した。直人の隣には美咲がいた。
「高橋さんって、魔力を感じ取れるのか」と直人は関心して言った。「高橋さんは美咲がいることに気がついた。しかし、美咲、高橋さんを後ろから狙うのは卑怯だ」
「私は直人を止めたのよ、まだ高橋さんに真実を伝えるのは早いって」と美咲は高橋さんに言った。「だって、いずれたどり着く真実よ。自力で調べ上げたかったでしょ」
「たどりつきそうにもなかったけどな。高橋さん自身が知りたいと思っていないのだから」
「どこまで知っているか教えてほしい?」と美咲はにやりと笑って言った。「情報を仕入れるだけのコネだけは、誰よりも持っているのよ」
夏帆は放心状態だった。
「ライバルは徹底的に調べ上げる。基本中の基本でしょ」と美咲は恐ろしいくらいににこりと笑って言った。
夏帆はなにも考えることができず、ただ廊下を歩くことしかできなかった。もはや何に衝撃を受けているのかさえわからなかった。ふと、右手の壁側に違和感があった。魔力だ。魔法が壁にかけられている。
夏帆はおそるおそる手を入れると、壁をすり抜けることができた。この関心というものが学者としての素質なのだとしたら、両親が学者というのも本当なのかもしれない。
壁をすり抜けると、外の世界の音がすべて閉ざされ、しんと静まりかえった。真っ暗だった。歩いた時のコツコツという音からは、コンクリート床であることを想起させた。広さも特定できない暗闇だというにも関わらず、夏帆はどこに向かえばいいかわかってるかのように歩いた。怖いとは全く思わなかった。
しばらく歩いて行くと、金色に輝く、大きな砂時計があった。夏帆の2倍も3倍もする砂時計。太陽のように、それ自身が輝きを作り出している。丸い外枠の中に、砂の入った器から、下の器へと、ゆっくりと、砂が落ちていく。透明な器はガラスのようにも見える。
その大きな砂時計に手を伸ばしたその時、「やっぱりね」との声で我に返った。
「浅木先生……」
「あなたここに来ることはわかっていた」と浅木。「あなたのご両親はね、晩年イギリスに住んでいたのよ。ある日、突然連絡が取れなくなった。それから5年後、突然、私はイギリスに呼び出された。鎖国は既にされていたけど、海外に行くことはできた。一度領域の外に出て、飛行機に乗れば良い。私たちはコッツウォルズのカフェで再会した。その時、あなたのお母さんはね、あなたに会ったと言っていた。『私たち夫婦にもしものことがあったら、夏帆を施設に預けてほしい』とおっしゃったわ。それから数ヶ月経ち、忘れもしないあの日、致命傷を負ったあなたのご両親は人間の世界の病院へと運ばれた。私が病院へ到着した頃には、ご両親は血まみれで、既にこの世の人ではなかった。あなたは泣くばかり。あなたもご両親も身元特定ができず、人間は途方に暮れていた。私はあなたを引き取って、お母さまの遺言通りに舞浜へと向かった」
「それは、孤児院がどういうところか知ってのことですよね?」やっとのことで絞り出した声で、尋ねた質問はそれだけだった。頭が働かないのか、夏帆の思考が止まっていた。逆に浅木先生は、まるで人が変わったかのように冷静沈着で、淡々と話した。
「孤児院にさえ入れない子がこの世にどれだけいることか。あなたもはじめは断られたのよ。あの院長に、ことの子細を話して、両親が誰でどう殺されたのかを話して、やっと受け入れてくれた」
「両親が死んだとき、桜が舞っていた。イギリスではない」
「そうね、ご両親は日本に戻っていた」
「あなたは何か嘘をついている」
「そう思いたいだけよ。話せることと話せないことがある。だから辻褄が合わない。それだけのこと。なんで話さないかですって。あなたのためによ」
まるで底なし沼に落とされたかのような絶望だった。あなたのため、という時、大抵は自分のためだ。全体が見えなくても、これ以上はなにも教えてくれない、それが容易に想像できる言葉だ。
「私の使命はただ1つ。あなたを過去に送り届けることよ。あなたをご両親に会わせる手助けをするの」
浅木は何か小瓶を投げた。まるで宇宙にいるかのように、小瓶はゆっくりと夏帆の元へと向かった。夏帆は腕を伸ばしてつかんだ。瓶には、エンジェルオイルと書かれている。
「だから昔、あえて時の部屋の話を」
夏帆は手元のタイムキーをじっと見つめた。口惜しさか、絶望か、それとも怖さか……。自然と涙が零れ落ちてきた。
「賢いあなたにならどうすべきか、どうするのか、わかると思うわ。でもね、過去にはいけても未来へは帰れない。それでもあなたが行きたいと望んだからこの部屋が現れた」
夏帆はタイムキーを見つめた。タイムキーはやはり輝きを放っている。まるで私に来てほしいとでも言うかのようだ。夏帆は浅木をにらむと、エンジェルオイルを飲み干した。夏帆は吸い寄せられるように、タイムキーへと手を伸ばし、中へと歩みを進めた。砂時計がぐるぐると回り始めた。それはまるで悪魔の笑い声が聞こえるかのようだった。砂時計の回転が速くなっていくと、浅木はだんだんと見えなくなり、そしてついには姿を消した。
―行かなくてはならない
死が上から見ていて高笑いをしているかのようだ。これは悪夢か正夢か。それでも、私は行く。夏帆はタイムキーの中へと飛び込んだ。
―いざ、両親の元へ
周りの風景が変わっていく。これは、私の意志なのだ。竹内先輩が言っていたように、過去に行きたいという私の意志が、周りの風景を逆再生しているのだ。
まばゆいほどの光の中へと溶け込むかのようだった。夏帆の周りに光るカードが現れた。カードは夏帆を取り囲み、そして一枚が選ばれるとパンっとはじけて光に変わった。その光は、夏帆の周りを取り囲んだ。上からは天使と鷲をかたどった光が、下からは牛とライオンをかたどった光が、夏帆へと近寄ってきた。その瞬間、夏帆の周りを取り囲む光から赤く真っ赤に燃えた精霊のようなものが取り囲んだ。精霊は手をつなぎ、夏帆の周りをくるくると踊り回る。それを夏帆は宙に浮いたまま、じっと見ていた。精霊は手をたたき、足を踏みならし、高笑いするように踊り狂った。そして次の瞬間、夏帆はくるくると周りだし、勢いをあげて、急降下していった。
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