アパートの歌姫
うたた寝
第1話
『ナイトルーティンってありますか?』と聞かれることがある。だから彼は答える。『ナイトルーティンって何ですか?』と。そしたら『夜必ずやることです』と言われたので、『歯磨きと睡眠ですかね』と答えたら『それはナイトルーティンではないです』と言われた。彼は思った。ナイトルーティンって何やねん、と。
『ナイトルーティン』という言葉の定義の理解さえ難しかった彼だが、そんな彼にも最近ナイトルーティンなるものができたのかもしれない。セットしてあるアラームが鳴ったので、彼は作業を中断。温かいコーヒーを淹れて窓を開け、窓辺を背もたれにして座る。
「~~♪」
すると窓の外から聞こえてくる、お隣さんの歌声。
この歌を聴くことが、彼のナイトルーティン、と言えるのかもしれない。まぁ、お隣さんの歌を聴くことです、とはあまり人に言えるナイトルーティンではないかもしれないが。
鼻歌とかではない。時間帯も考えてボリュームは多少抑えているようではあるが、ギターを奏でながら歌っているのでしっかりとした歌である。
隣の部屋で聞こえるわけだが、近所迷惑、というほどの音量ではない。窓を閉めてしまえばほとんど聞こえない。実際、今までこの時間に歌っている、ということに彼は気付かなかったくらいだ。言われて意識をしてみれば、窓を閉めていても若干聞こえはするが、何か自分で作業音でも出していれば気付かないだろう。それぐらいの謙虚な音量である。
初め彼がこの音に気付いたのは、就寝前に歯を磨いている時だった。最初は自分以外誰も居ないハズの部屋から音が聞こえてきたので、何かホラーな現象でも起こっているものかと恐怖したが、音源を辿るとどうも隣から聞こえてきているらしいと発覚して安心。それだけだと何の音なのかよく分からなかったので、興味本位で窓を開けてみたのがきっかけであった。
以来、この時間になると始まる彼女の歌を聞くのが彼の夜の習慣、いわゆる、ナイトルーティンになりつつある。最近では窓辺に直接寄り掛かると背中が痛いので、座椅子を買おうかと検討中である。彼女の歌を聴くために居心地の良い環境作りまで始めようとしていた。
ただ歌を聴きたいだけなら、聴く方法などいくらでもある。無料で配信しているものを聴いたっていいし、昔買ったCDを流したっていい。ライブチケットに当たらなかった観客でもあるまいし、わざわざ寒空の中、室内で上着を着てまで窓を開け、隣の部屋から洩れ聞こえてくる歌声を聞く必要などない。
だが、彼女の歌を聴こうと思うと、手段としてはこれくらいしかない。何せ、気を遣ってボリュームを彼女が落としているため、窓を閉めてしまうと歌っていることくらいは分かるが、何を歌っているのかサッパリ分からない。気なんか遣わなくていいので、窓を閉めなくても聞こえるよう音量を上げてもらいたいくらいだが、他の住人も居るのでそれも難しいだろう。となるとやはり最適解は、聴きたい人間が静かにして、少しでも外の音が拾えるようにすることだけである。
何でそうまでして彼女の歌が聴きたいのか、それには2つ理由がある。
一つは、彼女の歌声を聴きたい、という意味。
彼がここまでして聴こうとするくらいだから、さぞかし素晴らしい歌声なのだろう、と想像しているかもしれないが、ここまで言っておいて何だが、聞こえてくる歌声はそこまで特別上手いわけではない。いや、もちろん、上手いは上手い。間違いなく下手ではない。だが多分、想像しているほどは上手くない。実際彼も上手いから聴いているわけではない。
聴いていて癖になる、とでも言えばいいのか、彼女の歌声は聴いていてどこか心地がいい。声フェチ、というわけでもないのだが、声が好きなのかもしれない。まぁ、声が好きとか言っておいて、お隣さんとは直接話したことはないので、歌声でしかお隣さんの声を知らないのだが。普段どんな声をしているのか気になるところである。
最初はその心地のいい歌声を作業音にしようと思ったのだが、心地が良すぎて歌の方に意識が持っていかれ、ロクに作業ができないことが発覚した。言われてみれば彼は昔から音楽聴きながら勉強とかができないタイプの人間であった。
二つ目は、彼女の曲を聴きたい、という意味。
初めて彼女の歌を聴いた時、上手い・下手の前に、この歌は何の歌だろう、と彼は思った。それほど歌に明るいわけではないが、それでも歌番組程度は観たりする。流行りの曲とかであれば聞き覚えくらいありそうなものなのだが、彼女の歌う曲、歌う曲、彼の記憶にはヒットしなかった。
何の歌なのか気になって、聞こえてくる歌詞で検索してもヒットしなかったところを見るに、恐らくオリジナルの曲なのだろう。つまり、彼女の曲を聴くには、彼女が歌っているところを生で聴くしかない。
これが地味に不便である。いや、お隣さんが趣味として歌っているであろう歌を勝手に聞いておいて、不便とは何事か、という話ではあるのだが、お隣さんが歌う曲は日によって完全ランダム。あ、いい曲だな、と特に気に入った曲に次いつまた会えるのか分からない。何なら毎日再生して再生数伸ばすから、どこかにアーカイブとして挙げてほしいとさえ思う。か、費用負担するのでCD化してほしい。
もう一度聴きたい曲や新曲を聞き逃すわけにはいくまいと、彼は最近、ついにアラームまでセットして彼女の歌を待機している。それを聴きながら温かいコーヒーを飲むというのがセットだ。単純に窓を開けていて寒いから、というのもあるが、家の中に居ながら喫茶店気分を味わえる、というのもある。
今日もアラームが鳴ったので、作業を中断してコーヒーを淹れる。
さて準備万端、と、彼は窓を開けて歌の始まりを待っていたのだが、
窓を開けてしばらくしても、隣の部屋から歌が聞こえてくることは無かった。
あれ? 今日は歌わないのかな? と気になって彼が窓から顔を出してみると、同じように顔を出していた、歌が聞こえてくるのとは別の、もう片方のお隣さんとバッタリ遭遇。お隣さんもお隣さんで歌が聞こえないのを不思議に思って顔を出したらしい。片手にビール缶を持っているところを見るに、晩酌のお供として聞いているのかもしれない。目が合って無視もなんなので、どうもー、とだけお互いに会釈しておく。
本来顔を窓から出した用件である、歌を歌う方のお隣さんの方を見ると、部屋の電気が点いておらず真っ暗であった。平日なので仕事に行っているのだと思うが、まだ帰ってきていないらしい。
今日は無さそうだな、と思い窓から顔は引っ込めたものの、彼は窓を開けたまましばし待機。寒さに負けて窓を閉めた後もしばらく待機していると、お隣さんが帰ってきた気配がした。時計を見てみると、普段彼女が歌を歌っている時間よりも大分遅い時間だった。
そんなに壁が厚いわけでもないので、さほどうるさくしていなくても、静かにしていれば隣の部屋の生活音は何となく聞こえるわけだが、帰ってきた気配の後、静かになったので恐らく寝たのだろう。大分お疲れのご様子である。
仕事忙しいのかな、まぁそんな日もあるか、と、最初の一日目はさして気にもしなかったのだが、次の日、その次の日と、彼女が歌うことはなかった。
歌を辞めた、とかではなく、歌う余裕が無いのだろう。
繁忙期か何かなのか、最近、部屋に帰って来る時間が歌を歌わなかった日と同じ、あるいはそれより遅く帰って来る。そんな遅くに帰ってきているにも関わらず、朝出る時間も普段より早くなっている。部屋に帰ってきたらすぐに寝ているものだと思われ、ご飯食べてるのかな? と他人事ながら心配になるレベルである。
毎日セットしているので、今日もいつもの時間にアラームが鳴る。お隣さんはまだ帰ってこない。
今日も無さそうだな、とは思いつつ、習慣となっているためか、体が自然と定位置である窓辺の座椅子に座る。何となく作業を続ける気にも寝る気にもなれず、本でも読もうかと棚から引っ張り出していると、
カツカツカツ、と彼の部屋のドアの前を誰かが通り過ぎる気配がした。
おや? と思って開こうとした本を本棚へと戻すと、その気配通り、お隣さんが部屋に帰って来る音がした。ここ最近より帰宅が早いは早いが、それでも普段歌っていた時間と同じくらいに帰ってきているので、まだ仕事が忙しいのか、普段より遅い時間の帰宅である。
やるのかな? どうなんだろうな? と。隣の部屋の様子が気になって仕方がない彼ではあるのだが、隣の部屋から洩れ聞こえてくる音を聞いているのであればともかく、壁に耳とかを当てて直接隣の部屋の音を聞くのは流石にアウトだろ、と思っている彼は直接聞き耳は立てられず、しかし隣の部屋の様子が気になってワクワクソワソワしながらしばらく待っていたのだが、
ギターの弦が弾かれる音が隣から聞こえた。
あ、来る、と思った彼は窓を開ける。そしてその期待通り、開けた窓からは待ちかねた彼女の歌が聴こえてきた。
深い事情はもちろん彼は知らないわけだが、どうやら大分鬱憤が溜まっているらしい。いつもより激しい曲調である。最近聴いていなかったからそう思うのかもしれないが、音量も抑えてはいるが、普段より大きめな気がする。
繁忙期からの解放の歌なのか、まだまだ繫忙期が続くぞこんちくしょー、っていう歌なのかは分からないが、溜まりに溜まっていた鬱憤を一気に爆発させているような強い歌であった。その力に釣られたか、待望の彼女の歌ということでテンションが上がっていたのか、彼は部屋の中で曲調に合わせて拳を振り上げている。
久々の歌でしかも新曲。これでテンションが上がらないわけがない。しかもこの歌、恐らく出来ているものを歌っているのではなく、今歌いながら作っているような、溢れ出る気持ちをそのまま歌に乗せているような、そんな感じがした。だとすると、歌詞も楽譜も記憶されていないわけだから、恐らく二度聴けない激レアな歌である。
本人も慣れない曲調のせいか、後半疲れてきたらしく、時折指が覚束なかったり、声がかすれたりしていたが、気にせずそのまま走り続け、
ジャンッ! と曲終わりにギターが勢いよくかき鳴らされる。
ほとんどライブ感覚で拳を突き上げていたためか、彼は曲終わりに『いえ~い』と拍手する。テンション上がって彼は忘れているのかもしれないが、彼の部屋の窓は開いている。向こうの音が聞こえる、ということはもちろん、こちらの音も聞こえる。しかも曲終わりのこんなジャストのタイミングで拍手したら、何に対する拍手なのかなど一目瞭然。
あ、しまった。つい拍手してしまった、と彼は思ったのだが、
パチパチパチ、と彼の拍手に釣られるようにして、各部屋から拍手が聞こえてくる。どうやら夜の彼女のライブを楽しみにしていたのは彼だけではなかったようだ。というかこれ、下手すれば全ての部屋が拍手していないか? 拍手の振動でアパートが微かに震えているような気がするのは気のせいか?
突如始まり、しかも鳴り止まないこの拍手をお隣さんはどう受け止めているのか。驚き戸惑っているのかもしれないが、一度上がった観客の熱は冷めることを知らない。次第に拍手は変化して、一定のリズムでの手拍子が始まった。それはまるで、アンコールをねだるファンのようであった。彼もそれに便乗して手拍子を始める。
声には出さないアンコールがアパートの各部屋から響く。それに応えるように彼女の部屋からはギターの音色が響き始める。それを聞いて喜ぶように、手拍子は拍手へとまた変わったが、やはり彼女も動揺しているらしい。最初の一音が思いっ切り外れていた。
しかしそんなこと、歌手もファンも気にしない。ライブにミスは付き物だ。
世界中、ここでしか聴けない歌姫のステージが、今始まった。
アパートの歌姫 うたた寝 @utatanenap
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます