花が咲くまで初見月。

錦魚葉椿

第1話

 彼の父の諱は「善王」である。


 その国の王には代々、生前の業績を称えた諱が贈られている。

 希望しない名をつけられぬよう、諱を指定していた者もいたが、最終的には正当な評価としての名に修正されていく。

「善き王」。その死から十年もたたないうちにしっくりと定着した呼び名。

 凶作続きの年には民草とともに粗食に耐え、ひたすらに民に祈り、私財をなげうって民を支えた。私腹を肥やす者を登用せず、悪人をその周りに近づけなかった。

 そして政権は弱くなり、国は荒れた。

 父王は慰問に訪れた先の流行り病であっさりと崩御した。




 ―――――そして、彼は何者でもない。

 彼を呼び表す肩書はなく、ただ「瑪瑙の君」と呼ばれている。

 朝、早くもなく遅くもなく起床し、身支度を行う。

 質素な朝餉を召した後は、何度も読んだ古典を再び精読し、暑くなった頃には昼寝をし、庭木を眺め、わずかな領地の管理資料に目を通して陽が落ちたころに休む。

 働き者の召使によって磨き上げられた床張りの母屋はがらんとしていて、開け放たれた真ん中にきちんと座って一枚一枚本の頁をめくる。

 特段、蟄居を命じられたわけでもないが出かけることはほとんどない。

 役に立つことは何もしないで暮らしている。


 トウは洗濯物を干していたところを呼び寄せられた。

 きざはしのところまで降りてきた彼に、ひとつも手を付けていない上等な菓子を下げ渡される。皆でおたべといって彼は微笑んでいる。確か、彼の姉君から届いたばかりの季節の贈り物のはずだ。

 彼にとって、トウとその家族は慈しむべき家臣だからだろう。

 トウはひとつだけとって口に含んだ。

 砂糖菓子は淡く美しい味がする。

 トウは垣根の向こうからのぞき込んでいる子供たちを呼び寄せて、ひとつずつ分け与えてやる。

 その様子を優しい顔で眺めていた彼は、再び部屋の真ん中に戻り、書物を読み始めた。

 彼だってきっととてもお腹がすいているはずなのに。

 その書物は腹を膨らませてくれない。

 十八の年まで宮中で暮らしていた王子様が、謀反の疑いをかけられることを恐れて、すべての戸を開け放って暮らしている。足や指はトウと変わらないほどひどいしもやけになっている。

 そんな状況で何もしないということは根っからの庶民たるトウには耐えられない。

 高貴な方の才能といえるのではないだろうか。



「―――――瑪瑙さまが、何者かになろうとするような方だったらすでに生きてはいらっしゃらないよ」

 トウの母が豆を炒りながら微笑んだ。

 子供の一人が、貰った菓子を家に持って帰ったようだ。子供の母親がお礼にと持ってきてくれた豆を粥と一緒に炊いてゆっくりと口にする。

 瑪瑙の君もあの広々とした空間で独り、同じものを召し上がっている。


 利発な弟王子は翡翠の君とよばれ、彼は瑪瑙の君と呼ばれていた。

 深緑の翡翠玉のごとく光輝く弟君に比べ、ぼんやりと濁った縞模様のような人だと。

 二人は歳の変わらない異母兄弟だった。他にも異母兄弟はたくさんいたが、母親の身分を鑑みれば、翡翠と瑪瑙のいずれかが王となるとは思われていた。

 父王が流行り病で急逝した直後、攻め込んできた隣国を弟王子は奇策を用いて即座に迎撃し、致命的な打撃を与え殲滅させた。

 民は歓喜して新しい王を迎えた。

 そのとき瑪瑙の君が何をしていたかと言うと、父王から病をうつされて離宮で臥せっていた。拗らせた病から回復し、瑪瑙の君がやっと起き上がれるようになったころには、弟王子が王と呼ばれていた。


 もし無事で王宮に残っていたなら、その血筋の正当性から兄である瑪瑙の君を推す勢力もあったかもしれない。その時流がまったくおきなかったことにより、彼は命を拾った。取るに足らなすぎて、いなかったことも気づかれないまま代が変わってしまった。

 父王が寿命を全うしていたとしても弟が王になった可能性が高かった。

 貴族たちも民草も、恐らく本人もそこは良くわかっている。



 瑪瑙の君は流行り病で隔離されたときに使われた離宮とは名ばかりの平屋の屋敷に住んだままだ。ありていに言えば王宮に戻る機会を逸してしまったからだ。

 別荘は彼の母が所有していたもので、王都城壁の中だが不便なところにあった。

 それも彼の運のいいところだ。

 彼の所有する領地など王都から離れていたら、どさくさまぎれに討たれていただろう。目の届く範囲でいつでも始末をつけられる場所だったから見逃された。

 弟王子は即位するにあたり、反逆勢力を根こそぎ粛清した。

 あまりに忙しくて、瑪瑙の君まで手が回らなかったのだ。

 庭師を本業にしてこの別荘を管理していた者が一応家司となっているだけに植栽だけは荒れたようには見えない。家司となった男は、身分は低いが大変わきまえた賢い男だったので、庭の塀を取り壊し、大の男なら跨げるほどの低い生垣を整えた。

 何処から見ても中が丸見えで、造反の意志も能力もないことが明らかとなり、言いがかりをつけることができないように。

 母屋に瑪瑙の君が住み、庭師兼家司の男と侍女役のその妻と娘が離れに住んで、翡翠王が寄越したウヌと言う名の家来が一人、通いで来る。家来ではない。所謂お目付け役と言うか間者だった。

 翡翠王即位十年。

 大勢の予想に反し、どんくさく凡庸な瑪瑙の君はまだ地上で呼吸をしていた。



 新しい書物を手に入れたり、勉学に励んだり、趣味の楽曲を楽しんだり、あるいは誰かと婚姻を結ぼうとしたり。友達が沢山いたり。

 もし瑪瑙の君がそんな人柄であったなら、難癖をつけて殺されていただろう。

 後ろ盾らしき親戚は既におらず、婚姻を結ぼうという有力貴族もおらず、家臣もいなかった。いつ殺されるかわからない人に仕えようというモノ好きはいない。

 翡翠王が寄越した唯一の「家来」はトウの目から見ても貴族の嫌なところを煮詰めたような怠惰で卑しい男だった。身分が高いから処罰はできないが、王宮で何かごまかしがたい大きめのしくじりだか横領だかを婦女暴行だかをしたとかで、王宮を処払いになったらしい。

 道を歩いていても、他の貴族のほうが道を替えて会わないよう心掛ける程度に嫌がられていた。そこから人脈が広がる可能性は全く生じない。



 翡翠王は富を持つ強い者を好んで重用し、軍資金を拠出させ、積極的に戦を行い、殺戮の末、隣国から攻められることを無くした。大臣は私腹を肥やし、彼らの土地には栄えた。

 人々は豊かになり、商業は栄える。

 大臣たちは己が領地に競って金を落とし、国は富んで強くなった。

 誰も善王の時代を懐かしむことはない。


 翡翠王は節約を嫌った。

 特に王が倹約することを嫌った。

 彼の浪費を諫める者に、翌年の春を生きて迎えた者はいない。

 王位継承権を持った者はあらゆる手段をもってこの世から排除されていった。

 国の中枢を担う重臣は経済的に翡翠王の政権なしに立ち行かぬものばかりとなり、それゆえに政権はより堅固な結束をもっていた。


 翡翠王には何人も子が産まれ、勢力争いはもはや次世代に移った。

 重臣たちはどの王子が次の世代を継ぐのか、翡翠王の寵愛の深い王子は誰かを重臣たちは戦々恐々と探っている。

「間違え」たら一族滅亡の危機だからだ。

 翡翠王はどれかの王子を特別に寵愛することはない。

 重臣同志を分断して、自分を討ちに来るような勢力ができないように。



 トウが野菜を買って帰ると、瑪瑙の君がウヌを激しく打擲しているところだった。トウは耳を塞いで自室にこもる。

 彼は年に何度かそういう癇癪を起すことがあった。

 瑪瑙の君は父王を完全な者とみなし、常にそのようにあろうとしている。だからいつもは本当に穏やかで慈愛深い主人だが、翡翠王とおなじ種類の殺戮に親しむ血がときおり噴き出すのかもしれなかった。

 ウヌが来るまでは、トウやトウの家族がその被害にあっていた。

 トウの母は瑪瑙の君の乳母であり、トウの兄が彼の乳兄弟だった。

 トウの兄は優秀な男だったから、自然と仕官の声がかかることも多かった。長じるほど嫉妬した瑪瑙の君に痛めつけられることが多くなった。命の心配をした両親が翡翠王に願い出て仕官させた。それにより一家は翡翠王の庇護に入ったので、瑪瑙の君の本当の意味の臣下はいなくなった。

 兄の代わりに差し出されたのがウヌだった。

 ウヌは市場の店を恐喝していくらか上前をはねていたことがばれたらしかった。

 自分の家臣がそのような振る舞いをしていることを許せない君が問い詰めたところ、おまえこそ全然働かずにピンハネしているだけじゃないか、と本当のことを言ってしまったらしい。

 領地の税の話だと瑪瑙の君は思っているだろうが、彼の微々たる領地の微々たる租税でトウの一家を養っているわけではなかった。トウの一家は文官として順調に出世しているトウの兄の俸禄で賄われており、下手するとトウの一家が瑪瑙の君を食べさせている年もあったりするので、主君なのか被扶養者なのか実は判断がつかない。

 さすがのウヌもそこまでは言わなかったようだが。

「王の子に対してその物言いはなんだ」

 それだけをうわごとのように繰り返しながらウヌを叩きまくる。

 そして泣きながら白目をむいて失神してしまうのだ。

 いつもの流れだった。

 だれがこんな人の家臣になりたいと思うだろう。

 ウヌは生家の者に「家の恥だから早く死んでくれ」と切望されているが、如何せんウヌは袋叩きに素晴らしい耐性があるので、望まれた仕事をやり遂げている。

 ウヌは鼻血を垂らしながら帰っていった。

 明日になったらしれっと出仕してくるだろう。



 意識を取り戻してもしばらくは寝込んでしまうのもいつものことだった。

 一応自己嫌悪ですぐには立ち直れないようだ。

 そういう時はトウの父がそれっぽい領地の資料などを枕元に捧げ持つ。裁可していただかないと仕事が進みません、というとご機嫌が回復するのだった。

 開け放たれた戸から蝋梅の香りがした。

「蝋梅が美しいですね。花見をいたしましょう」

 涙で潤んだ眼を上げる。

「贅沢は許されない」

「贅沢などいたしません。皆で昼飯を持ち寄って花の下で食べるだけでございます。蝋梅がとても美しいから、十分でございましょう」

 次の日、早春に相応しい暖かな日差しの日。

 屋敷の前で遊んでいる子供達や市場の者が昼飯を持ち込んで、ほんのささやかな花見を行った。瑪瑙の君は庭に降りてこなかった。

 それでも市井の者が瑪瑙さまにも、と捧げられた食べ物を喜びながらいくらか口にし、座敷の奥で微笑みながらその様子を見守っていたが、花見が解散となったころに気を失っているのを発見された。



 結論から言うと、瑪瑙の君は毒を盛られたわけではなかった。

 沢山の人に会ったことと慣れない食べ物を食べたことで、神経が高ぶったあまり失神してしまったようだと医師は苦笑しながら帰っていった。

 瑪瑙の君は醜態を恥じ入るあまりやっぱり布団を頭からかぶってふて寝していた。

 枕元に差し出された夕餉に口をつける気になれなかったようだ。腹はとっても減っていたが。すっかり夜が更け、冷え切った膳を下げながらトウは声をかけた。

「花はまた咲きます。瑪瑙さま」

 蝋梅は高貴な甘い香りを漂わせている。

 円く透き通った小さい花がたくさんついた枝はまるで宝石細工。

 朧月の光を反射して小さな星のようだ。

「春になれば桜が咲くでしょう。そのときにまた花見をいたしましょう。お気持ちを落とされませんように」

「トウや、私だって、自分をふがいないとはおもっているのだよ」

 競う機会すら与えられずに素通りしていった王位。

 その座につくことを夢想しなかった訳ではなかった。

 冷静な自分が不可能だと思っていて、臆病な自分が挑戦もしなかったことだが、父王が生きていて健康であったらそんな可能性がまったくなかったわけではないはずだと思っていた。


「瑪瑙さま、じゃあこのトウを理由になさっては」

 トウはにっこりと笑った。

「平民の賤女を寵愛しているから婚姻を結ばず、市井で生きるのだ、と吹聴したら美談になるのでは。王位を望んでいると疑われておいのちを狙われることも減りましょう。そうすれば気分もいくらか安らかにおなりでは」

 池に石を投げ込んだ時のように。

 瑪瑙の君の顔に嫌悪と怒りが浮かんだ。

 そして悲しみと自嘲の形に歪み、静かに凪いでいった。


 尊い生まれの男にとって、目の前の生き物は女ではあったが、そのように自分と同じ種類の生き物だとは根本的に考えていなかったし、今後も考えるつもりはなかった。慈しむべき別の生き物だった。

 同じもののように扱われ、彼はそれまでの何よりも深く傷ついた。

「―――――トウ。控えよ」

 瑪瑙の君の声には感情がなかった。

 声が震えるのを押し隠して。

「私はいやしくも王の血を継ぐ者だ。ふさわしくない振る舞いをするつもりはない」

 彼は体を起こし、いつものようにきちんと座って、古典の一節を諳んじる。施政者が徳と仁をもって振る舞えば、施政者は北極星のように世界の中心となり、国は泰らかに回るだろうという一節を繰り返し、繰り返し。

 彼がその古典をことのほか精読していたのは、それ以外の古典が理解できないものであったからに過ぎなかった。その古典のぼんやりとした観念的理想論的な何かを心のよりどころにしていた。




 トウは肩をすくめてその場を離れた。

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