宝石の灰

***





お風呂から上がってすぐに目がいったのは

蓋の閉められていない瓶と、

その中に大量に

詰め込まれていた錠剤だった。


花奏は多分睡眠薬だと言い、

また瞼を閉じてしまった。


次に、1時間もしないうちに

うんうんと唸り始めた。

しんどそうで、声をかけてみる。

けれど、当たり前かもしれないけれど

私の声を聞いたって

何かが良くなることもなかった。

弱々しく閉じた手を

少し無理矢理に広げて手を握る。

すると、しばらくした後に

唸り声を上げるのをやめ、

眉間に皺を寄せたまま

また寝息を立て始めた。


タイミングを見計らい、

彼女の手の力が緩んだ時に

そっと手を離す。

しわの間に存在していた

陽のような暖かな欠片が

ちりちりと去ってゆく。


入院していた時のように

声を上げているわけでもない。

かと言って、苦しみがないわけではない。

無理して抑えているのか、

それとも叫ぶほどではないのだろうか。


全てが憶測でしかないけれど、

もしかしたらまだ11月から

抜け出せていないのかもしれない。


歩「…日記…書いとこう。」


事故のあった日以来、

日記に触れることが

それとなく億劫になりながらも、

結局毎日書き連ねていた。

事故直後なんて、とてもじゃないが

読めるものではない。


確か、ルーフしていると

わかって以降の日記では、

自分も苦しいけれど

花奏の方がもっとしんどい思いを

したに違いないなんて書いた気がする。

12月までは花奏の身体状況について

記していることが多かった。

読み返せばきっといつから

点滴を打つようになっていたかまで

書いてありそうだ。


それからことが落ち着き

1月へと踏み込んでからは

内容はほぼ受験一色。

この大学に受かることができるかわからない。

不安で仕方がない。

プレッシャーで押しつぶされてしまいそう。

そんな弱音を淡々と書き出した。

書けば、幾分かは感情が落ち着く。

いつしか日記というよりは

ただの感情の吐き溜め場に

なっていたと言っても

過言ではないだろう。


歩「…ループ…ね。」


日記のノートの並べられた棚の端には、

ループした時の紙束が、

日記が、あの日のまま残されていた。

読み返すことはもうないけれど、

捨てるわけにもいかずそのままにしてある。


もしもいつかこの家から

引っ越すことになった時、

全てを読み返したり、

はたまた全部を捨てたりするのだろうか。


歩「…どうだか。」


ふと、花奏の様子を確認すると、

まだ苦い顔をしながら縮こまっていた。

遠慮なしにベッドへと

潜り込んでいるなと初めは思ったけれど、

それでも、随分端の方へと寄っている。

このまま私が横で眠ったとしても

きっと問題はない。


歩「…いや、もう少ししてからにしよ。」


気恥ずかしさもあり、

近くに転がっていたスマホを取り出しては

さっきまで再生していた動画を

再度続きから視聴する。

見ていたのは、美容師の方々が

髪をカットしている動画だった。


花奏も覚えていると信じたいが、

退院した後に皆で集まる直前、

こう言っていたのだ。





°°°°°





花奏「…髪、切ろうと思ってるんよね。」


歩「へー、どれくらい?」


花奏「4月の頃の歩くらい。」


歩「え?」



---



歩「そしたらポニテ出来なくなるけど…いいの?」


花奏「もうええんよ。縛られたくない。」


歩「…そっか。花奏が考えて決めたことだし良いと思う。」





°°°°°




もしタイミングがあるとすれば

今日に違いないと思っていた。

受験を挟んだせいで、

ウィッグにすらほとんど触れてない。

けど、花奏がいつ起きるかも

わからない状況の中

練習するのも何となく気が引けた。

それこそ、その音で起こしてしまっても

嫌だと思ってしまう。


睡眠薬を飲むほど近々

眠れていなかったということだろうから、

少しでもいい、寝かせてあげたい。

ふと、同じく年末に皆で集まる前に、

電車の中で眠っていたのを思いだす。

たった2駅間だというのに、

疲れていたのか目を閉じていた。


歩「…2、3か月、まともに眠れてない…?」


嫌な予想が脳裏をよぎる。

あり得ない話ではない。

何回も繰り返して、

あんなに深い傷が1ヶ月程度で

完全に治ることの方がレアケースだろう。


私みたいなショートスリーパーで

あるならまだしも、

花奏はそうではない。

どれだけ生活に支障が出ているのか

考えたくもなかった。


花奏「………ぇぅ…。」


歩「…。」


花奏「…。」


辛そうな声が耳に届く。

けれど、動画の音量を上げて

誤魔化そうなんてことは

できるはずもなかった。


今起こっている嶋原の件でも

十分頭を悩ませている人は多いだろう。

私は、正直その並行世界に行ったのが

嶋原でよかったなんて思ってしまった。

花奏じゃなくてよかったと

安心してしまう自分がいた。

流石にそれは薄情にも程があると思い

口にはしなかった。


けれど、時々思うことがある。

その並行世界が不可解な出来事が

なかった世界線だと聞いた。

もしもこれらのことがなければ、

花奏はどれだけ笑って過ごせたのだろう。

身近な人をよく亡くしたはずだ。

母親や伊勢谷真帆路、そして私。

母親は不可解以前に

病気で亡くなったと聞いていたが、

後者2つは明らかに不可解な出来事と

関係しているのだ。

伊勢谷真帆路は戻ってきたから

少しはいいものの、

その当時の悲しみは

無かったことにはできない。

…それは、私の時も然り。


花奏「ゔぁ…ぅー……ぅゔー…。」


歩「…っ。」


花奏「………ぅあっ…ぅ…。」


歩「…休めますように。」


花奏が少しだけでもいいから

ゆっくり眠れる時間がありますように。

その願いは当たり前のように届かず、

がば、と掛け布団を薙ぎ払い、

唐突に起き出しては

よたよたとトイレへ駆け込む

花奏の姿を目の当たりにした。


あ、これ。

見たことがある、と思った。


あの時と一緒だ。

私の知る周期と。

花奏でいう、最後の周期の時と一緒だ。


歩「…っ。」


慌てて駆け寄ると、

やはり扉を閉めることなく、

床に座っている彼女を見た。

便器に手を添えてはいるけれど

顔を近づけずに俯いている。

明らかに吐こうとしているのがわかる。

ベッドで吐くわけにはいかないと思い

ここまで来たのだろう。


歩「しんどいよね。」


花奏「うー…ゔぅー…。」


歩「気持ち悪いならいっそ吐いちゃいな。」


花奏「ぇゔー…ん゛ー…ぅ。」


歩「水持ってくるから。」


背中を数回だけさすってから

すぐ近くのキッチンで水を注ぐ。

コップを持ってきて手渡すけれど、

一向に水を口に含もうとするどころか

受け取ってすらくれなかった。


あの時は、受け取ってくれたのに。

あの時とは、いったい何が違うのだろう。


歩「…気持ち悪いんだよね?」


花奏「ぅー………ぅー…。」


歩「水、あるよ。」


花奏「ゔー…。」


すると、花奏は力なく

首を横に振っていた。

これは、いらないということなのだろう。

全く違う。

あの時と、全く。

どうして。


どれだけ水を勧めても、

花奏は唸り声を上げながら

しんどそうに首を振るだけだった。

しばらく背に手を当てて

声をかけることもなく近くにいたのだが、

汗が頬を伝い、顎からぽとりと

こぼれ落ちたのが見えた。


花奏「ぅー…ぇうー…ぅぅ…。」


歩「…っ…。」


これ以上は、見ている方も辛かった。

かれこれ20、30分くらいは

ここで唸り続けている。

ずっと押さえつけてもなお

治らないのであれば、

吐いてしまった方が絶対に楽だ。

何をそんなに耐えているの。

我慢しなくたってもういいのに。


コップの中の水を取りかえて、

また花奏の元へと戻る。

便器を掴む手にも力が入っていて、

限界が来ているようにも見えた。


歩「何で吐きたくないの。」


コップを手に、まだ近づけないまま

そう聞いてみる。

けれど、花奏は唸るばかりで

答えられそうになかった。


歩「…。」


吐きたくない理由。

間違いなくあるはずなのだ。

だって、あの時は。

…。


歩「私の家だから?」


花奏「ゔー………ぅー…。」


首を、弱々しく横に振った。

それでまた顎から汗が滴っていた。


汚したくないからではないなら

いったい何だろう。

自分の歯が溶けるからだとか、

きっとそんな自分が害を受けるという

理由ではないと思う。

私に何か害が及ぶから。

だから吐かないに違いない。


けれど、あの日は吐いていたのだから、

感染症云々を危惧しているわけではなさそう。

それなら、胃の中のものが

外に出るのを防いでー


歩「…!」


その時、気づいてしまった気がした。

花奏だったら、

こんなことを考えるだろうなと思うもの。


歩「…私が作ったご飯だから、吐きたくないの…?」


それを耳にした瞬間、

俯き髪で隠れかかった花奏の目は

僅かに開いた気がした。

それから少し唸って、

唸って、首を小さく縦に振った。


歩「…花奏。吐こう。」


花奏「ぅー…ゃ………い、ぅ……ゃ………っ。」


歩「ねえ花奏、聞いてね。」


コップを手にするも、

何だか私まで震えてきそうな気がした。

片手を背に添えたまま、

さらに少しだけ彼女に近づく。


歩「私は今日明日で死なない。」


花奏「……ぅー…ゃ…や、ゃっ…。」


歩「だから、さっきのご飯で手料理が最後なんてことにはならない。」


花奏「うぇ、ぅ、ぅぅー…。」


歩「明日も作る。だから、吐いて大丈夫。」


花奏「………ぅぅっ……ぅ…」


歩「今吐くのを止めてるそれが、最後じゃないから大丈夫だよ。」


コップを近づける。

無理矢理にでもここで吐かせなきゃ

駄目だと思った。


花奏の口元にそれを添えると、

観念したのか、震える手でコップを手にした。

手にしてはいた。

少しの間、髪の隙間から覗く瞳を

じっと見つめていると、

不意にあることに気づいてしまった。

できるのであれば、

気づきたくなかったかもしれない。


歩「……っ!」


花奏は、大粒の涙を

ぼろぼろと流しながら最後の抵抗をしていた。


これまで汗だと思っていたものも、

もしかしたら涙だったのかもしれない。

ずっと泣きながら

迫り上がるそれを押さえつけて、

必死に抵抗していたのかもしれない。

そう思うと、胸がきゅうと

搾られたように痛んだ。


僅かに唸った後、腹を決めたようで、

思いっきり水を飲み込んだ。

こくこくと喉がなってほんの数秒で、

花奏は咄嗟に前のめりになりながら

便器に顔を近づけていた。


花奏「ぁぅっ……ぇっ、え゛ぅっ…。」


歩「…大丈夫。偉いよ。」


花奏「はっ、はぁっ…はっ……ぁゔっ…ぅ…。」


ある程度吐ききったのを確認して、

再度コップに水を注ごうとした時だった。


花奏「…っ…うああぁっ………うあぁあ…。」


歩「…っ…。」


花奏「…ああぁあぅ…あぁぁぁぁっ…っ…。」


悲痛な、ひどく悲痛な泣き声が

小さく響いていた。

そんなに大したものを作ったわけじゃない。

明日だって、明後日だって

いつでもご飯なら作るのに。

花奏はこの世が欠けてしまったかのように

涙を流し続けていた。


これを見てようやく

花奏がまだどのくらいあの日々に

足を引っ張られているのかを

思い知った気がした。





***





その後はまるで吐くまで

唸り続けていたのが嘘のように

眠り続けていた。

数時間寝息を立てているのを確認して、

安心して私もこっそり

隣へと位置づける。

起こしてしまわないか心配だったが、

思っている以上に深く眠れているようで

起きるそぶりを見せなかった。

あれだけ戦ったのだからさぞ疲れただろう。

ぐっすり眠るのも納得がいく。


次にお互い目覚めてからは

昨晩のことについて何も言及しなかった。

する意味もなかっただろうし、

しなくたっていいと思ったのだ。


一緒に簡単に作った朝ご飯を食べる。

けれど、花奏は昨日のこともあったからか

ほんの少しだけ口に入れると

もう手を合わせていた。

「残してごめん」と言っていたが、

相当昨日のことが傷になっているらしい。

吐いて粗末にするよりも、

少しだけで留めておくことを

選んだように見えた。


時計を確認してもまだ午前中なもので、

まだまだ今日は終わりそうにない。

花奏も何時に帰るか

決めていなかったらしく、

「何時に帰ろうかな」と

かれこれ30分は口にしていた。


昨日の夜に動画を見ていたことを

その時に急に思い出しては、

そそくさと簡易椅子を取り出した。

そして、浴室に運んでは中心に置く。

花奏も何が行われているのかわからず

そわそわとしていたので、

ビニール袋など必要なものの準備を

手伝ってもらった。

彼女自身、何かしている方が

気が紛れているように見えた。


歩「ねえ。」


花奏「うん?」


歩「ちょっとさ、ここに座って。」


花奏「え?うん。」


椅子に座ってもらってからは、

大きなサイズのビニール袋に

1箇所穴を開けただけのものを被せる。

それを確認してから、

ずっと愛用してきたハサミなどが

入った箱を持っては浴室に運んだ。


歩「前さ、髪を切って欲しいって言ってくれたの、覚えてる?」


花奏「…それはちゃんと覚えてるで。」


歩「今日切ってもいい?」


花奏「ここまでしておいてもらって、断る気にもなれんで。」


歩「嫌だったら言って。」


花奏「…歩に切ってもらえるんやったら、いつだって嬉しいよ。」


その言葉を聞いて、

安心したのか心配になったのかは

あまり重要ではないような気がして、

そっと自分の感情を無視した。


それから1時間ほどかけて

花奏の髪の毛をカットした。

まずは肩の僅かに上ぐらいで

大幅にカットする。

切り落とした長い長い髪の毛は

流石に流すわけにもいかず

別のゴミ袋に丁寧に入れた。


それだけで軽い軽いと言って

花奏は喜んでいたけれど、

一旦動かないでもらって

そこから切り揃えていった。

花奏は身長もあってすらっとしているから

軽いボブの方が似合うかも

しれないなんて考えながら、

さくさくとハサミを入れていく。

何年もマネキンを相手に

こうしていただけあってか、

思っている以上にうまくいった。


1時間を経て、被ってもらっていた

大きなビニール袋を取り外す。

それでも、花奏は浴室にある鏡を

目の前にしてしばらく動かなかった。


花奏「上手すぎひん?」


歩「そう?」


花奏「…すごい…こんなに短い。」


歩「すっきりしたでしょ。」


花奏「めちゃくちゃすっきりした!絶対髪を乾かすのも早いやん。」


歩「3分の1くらいになるんじゃない?」


花奏「歩、ありがとう。」


そう言ってくれた花奏は

鏡越しではあったけれど、

嬉しそうに笑いながら

毛先に触れているのが見えた。

少し俯いていることもあり、

まるで照れて恥ずかしがって

いるようにも見える。


昨日と今日の中で初めて

心の底からの笑顔を見たのかもしれない。


後片付けを手伝ってもらった後は、

長居しても良くないだろうなんて言って

すぐに私の家を後にした。

きっと、感情が溢れそうで

仕方なかったのかななんて思う。

家を出る直前、「また明日」と伝えたら

今にも泣き出しそうな目で

「また明日」と返してくれた。

翌日、実際に登校日だったので

こう言えてよかったと心底思った。


また明日って、当たり前じゃないことを

他の誰でもない花奏から

教えてもらっていた。





°°°°°





歩「…そろそろ寝なきゃ。」


もう2時を回っているにも関わらず、

未だに日記を開いては

ぼうっとしていたのだった。


日付は変わり、既に3月1日。

この日を見られるのも

紛れもなく花奏のおかげなのだ。


歩「…。」


少しくらい笑おうと思ったが、

口角が微々ながら震えるだけで

うまく笑うことはできなかった。


今日は、高校生活最後の日。

卒業式の日だった。






また明日を何度でも 終

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