灰の宝石


日付を超え、今日は3月初めの日となった。

それなのにまだ寝付くこともできず、

若干の痛みに苦しみながら

布団の中で縮こまる。


花奏「…。」


3月になったということは、

歩や愛咲、羽澄は今日卒業式のはずだ。

私は1年生だから式には

出席しなくていいのだが、

2年生は出席が必須なのだそう。

コロナも治りつつあるので、

今年は2年生も集合しなければ

ならないらしい。

とはいえ、みんなのことを

お祝いしたい気持ちがあるので、

明日は成山ヶ丘高校へと向かうつもりだ。


花奏「うぅ…。」


寝返りをうとうとしても、

やはり左半身を上にしていなければ

より痛みが増すのではないかという

恐怖に駆られてしまい、

同じ体制で眠り続ける。

ふと、首あたりにまで短くなった

髪の毛にそっと触れる。


花奏「…。」


思い出すのは、思い出さざるを得ないのは

先週末でのお泊まり会のことだった。





°°°°°





妙に緊張している。

どくどくとさっきから

心臓が早鐘を打っているのがわかる。

手が震えそうになる。

ぎゅっ、と紙袋の紐を握ることで

分散させるしかなかった。


先程まで梨菜のことで

皆と集まって相談していた。

それが終わり準備を終え、午後。

私は歩の家に足を運んでいた。


と言うのも、この前歩が

登校日だった際に誘われたのだ。

「近々夜ご飯を一緒に食べないか」と。

その時の会話は今でもぼんやり覚えていた。

確か、麗香が教室へと

戻って以降のことだった。





°°°°°





歩「あのさ。」


花奏「なんや?」


歩「今度、また夜ご飯一緒に食べようよ。」


花奏「えっ?」


歩「それこそさ、泊まりでもいいし。」


花奏「…歩が誘うなんてどうしたん?珍しいこともあるもんやなー。」


歩「友達にくらいは会ったっていいでしょうが。」


花奏「…あはは、ありがとう。じゃあお言葉に甘えてお泊まりさせてもらおっかな。」


歩「いつがいい?別に明日でもいいし。」


花奏「明日は平日や…。」


歩「冗談。あれ、あんたテスト前だっけ?」


花奏「んーん。先週終わってん。」


歩「そっか。泊まりはほんと、いつでもいいよ。」


花奏「…なら、週末行こうかな。」


歩「ん。分かった。」


花奏「夜ご飯楽しみやなー。」


歩「何食べるかは会ってから決める感じでいい?」


花奏「もちろん!冷蔵庫事情もあるやろうからね。そうしようや。」





°°°°°





歩が誘うなんて意外にも程がある。

聞き間違いかとすら思った。

けれど、聞き間違いではなく

本当に誘ってくれていた。


手元の紙袋には気持ちばかりの

お菓子が入っている。

こうして彼女の家を訪れるのは

もちろん繰り返すうちの

とある周期以来だった。


花奏「…。」


恐る恐るインターホンを押すと、

少し間を空けてから

と、て、てと軽い足音が聞こえてきた。

そしてかちりと鍵が開き

扉がゆっくりと開かれた。


花奏「あ、おはよう。」


歩「おはよ。」


別に朝でもないのに

何となく挨拶をしていた。

緊張しすぎていたのか、

少しばかり微妙な空気が流れていた。

すぐに、歩は扉を開き切り、

どうぞと言わんばかりに

手を家の中へと向けた。

私も私で疑問に思うことなく

すいすいと彼女の家へと入る。

ものすごく久しぶりなものだから、

アルバムの中に入ったような変な感覚がした。


花奏「お邪魔します。」


歩「ん。」


花奏「あはは、久しぶりに家来たなぁ。」


歩「そうだね。」


花奏「荷物いつもんとこ置いてええ?」


歩「勿論。好きに使って。」


1歩部屋に入ると、

ぶわっと大波のように

歩の家の香りが押し寄せてくる。

それだけで嗚咽が漏れそうだった。


部屋の隅にリュックを置き、

思いっきり背伸びをする。

ローテーブルを挟んだ反対側には

私よりも背の小さい歩がいた。


歩「買い物先に行っとく?」


花奏「うーん。せやな。」


歩「ここ来るまでに一緒に済ませた方が良かったかもね。」


花奏「まあ、荷物重かったし丁度よかったで。」


歩「そ。」


るん、と飛び跳ねるように

その場でステップを踏んだ。

それから歩のベッドに置いてある

少し大きめの、抱き心地のいいクッションを

ぎゅうっと抱きしめた。


思いっきり息を吸う。

ああ、歩の家の匂いだ。


あの曙光が脳裏をよぎる。

2人で迎えた朝が。

その時、歩を支えるのに使ったっけ。


歩「何やってんの?」


花奏「匂い嗅いでる。」


歩「は?しょうもないことしてないでさっさと行くよ。」


花奏「あと1分、いや、1時間。」


歩「伸ばすな伸ばすな。」


花奏「はあい。」


仕方ない。

潔くぱっと手を離した。

すると、こもっていた香りは全て

部屋中に散布して行った。


リュックから出かける用の

小さい鞄を取り出して、

ふとお金が入っているか気になって

確認することにした。

刹那、かりんと何かが落ちた音がした。

何かと思えば小銭を落としてしまったらしく

続けざまにからんからん、と音がした。


歩「大丈夫?」


花奏「…。」


歩「…花奏…?」


からん。

不意にこちらへと

刃物が向けられているような気がした。


歩「花奏。」


花奏「あ…うん、大丈夫!」


歩「そっか。なら行こう。」


花奏「うん。」


かつん。

きっと次に聞こえたのは

歩がつま先を鳴らす音。


絶対、刃物ではなかった。





***





余っている食材を

使い切ってしまいたいらしく、

結局何でも混ぜたら美味しくなるであろう

カレーにしようという話になった。

肉系が残っているとか何とか。

よく聞いていなかったけれど、

とりあえず歩の隣をひょいひょいと進み

意見を聞かれたら適当に指差した。

けれど、最終決定権は歩にあるようで、

「えー、こっちの方がよくない?」

と言ってはより大ぶりなほうを

選んでいたっけ。


家に帰ってから早いうちに、

簡単に調理することにした。

何だか初めて歩の家に

来た日のことを思い出す。

私が無理やり押し入って

ハンバーグを食べたあの日のこと。

確かドレッシングを持って行ったんだっけ。


買い物袋からほいほいと

冷蔵庫に仕舞い込んだあと、

歩はスマホでメニューを検索していた。


歩「そう言えばあんた、刃物扱えるっけ。」


花奏「…え?」


歩「ほら、夏休み明けの時、苦手なこと教えてくれたじゃん。ごめん、あれ忘れちゃって。」


花奏「あー…。」


夏明け。

何話してたっけ。

…何故かあまり思い出せない。

ただ、歩に優しく抱きしめられながら

涙をぼろぼろと流していた記憶はある。


そんな前の記憶以前に、

塗り替えられた記憶があった。

刃物で…いや、今思い出すことでもない、

今思い出したってどうにもならない。

咄嗟に口を開いていた。


花奏「ごめん、無理かも。」


歩「そ。なら野菜洗ったり、混ぜたりはお願い。」


花奏「はーい。」


こういう時に、

「何もしなくてもいいから休んでて」と

言わないあたりが歩らしい。

けどいざとなれば休めとも言ってくれる。

その時にも、きっと私は

歩らしいなんて思ってしまうのだろう。





***





歩「そういえばさ。」


花奏「ん?」


出来上がった温かいカレーを

ぱくぱくと食べている時だった。

歩はふと手を止め、

カレーとご飯を一部混ぜながら

気まずそうに口を開いた。


歩「嶋原の件、どう思う?」


花奏「どうって?」


歩「帰ってくると思う?」


花奏「…さぁ…どうなんやろうね。」


歩「私はさ、あの時言ったように、正直嶋原が戻ってこようが戻って来まいがどっちでもいいと思ってる。」


花奏「うん。」


それは、確かに学校での

話し合いの時に聞いている。

言い方からして、嘘ではないことも

何となく分かっている。


歩「でもさ…あー…うん、気を悪くしたらごめん。」


花奏「ええよ。」


歩「嶋原も、何回かは繰り返した覚えがあるらしいじゃん。」


花奏「…そうやね。」


繰り返した。

それだけで通じる出来事がある。

じり。

何やら、いつもより少しだけ強く

痛むような気がした。


歩「…何が正解かわからなくてさ。」


花奏「…。」


歩「嶋原にとってはどっちがいい世界なんだろうね。」


花奏「そりゃ向こうやない?」


歩「やっぱりそう思う?」


花奏「だって、私がもしあの時繰り返す手段がなくて今日まで生きて、それで別世界に歩がおるっていうんやったらそっちを選んでる。」


歩「…説得力がありすぎて嫌になってくる。」


花奏「あはは。」


歩「あれだよね。幸か不幸か私たちが居てしまったから向こうも悩むことがあるのかもね。」


花奏「そうやな。1人やったら好きな人のおる世界に居ればいいだけやもんな。」


歩「戻ってくるように言った?」


花奏「ううん。言いたいんやけど、思い出すことが多くて。」


歩「辛いんならしないが吉だね。」


花奏「でも…うん。少しは戻ってきてほしいって思ってるんよ。このまま気まずいままも嫌やし。」


歩「そう。」


歩はそれだけいうと、

また静かにご飯を食べ出した。

そういえば、歩は美月と喧嘩した時、

気まずくてもそのままにして

距離を取るという方法を

とっていたのを思い出す。

梨菜との関係もその方法を

取るのかもしれないと

想像できてしまった。


カレーを食べ終えた後、

しばらくは部屋でくつろぐことにした。

歩からお風呂が沸いた旨を聞き、

ありがたいことに先にいただく。


シャワーに打たれている間は

どうしようにも1人になるわけで、

さっきまで楽しくご飯を食べていたのに

それが一気に墨によって

汚されていくような感覚を味わう。


花奏「…ぅ……。」


…思い出すことが多すぎる。

そう、多すぎるのだ。

シャワーを浴びているだけなのに。

歩の家だからというのも

もちろん大きな要因だろう。

もう少しマシになったと思っていたのに。


花奏「……ぅー…。」


脇腹を抑えて少しだけ前屈みになる。

座ってしまったら動けなくなることが

目に見えている。

大丈夫。

流石にもう、迷惑はかけない。

深く息を吸おうとすると、

ずきりと重く痛みが走るものだから、

浅く浅く呼吸をしながら

体や髪を洗ってゆく。


髪、長くなったな。

やっと少し伸びた気がする。

とはいえ、この長さにまでなって仕舞えば

伸びたのかどうか

あまりわからないけれど。


ほんの少しだけ湯船に浸かり、

体が芯から温まる前にお風呂を上がる。

そして寝巻きを着てから

髪を乾かすかを一旦考えた。


花奏「…もう少し拭き取ってからかな。」


髪の毛は随分とまだ湿り気を有していて、

ぽたりと足の甲へ落ちていった。

タオルで幾分か水分をとり、

歩に許可を得ることなく

ドライヤーを手にした。


あの時は、確か歩に。

…。

そういえば、もっと前も

乾かしてもらったことあったような。

今日はそちらの方を

思い出せますように。


…けれど、やはり私の記憶力は

一時的かどうかわからないけれど

著しく低下しているようで、

どんな会話をしただとか、

どんな乾かし方をしていたとか

詳細なことを思い出すことができなかった。

そんなこともあった…よね?

そのはず…だよね。

夢じゃなければ…。

…。

夢なのかどうか、あまり自信がなかった。


ある程度乾かしてから

歩のいる方へと戻ると、

何やらスマホで動画を見ているようだった。


歩「あ、終わった?」


花奏「うん。お先、ありがとうな。」


歩「全然。ゆっくりしてて。」


ふと思えば、歩は髪をひとつに縛っていた。

いつからだっけ。

歩も髪が伸びたらしい。


スマホの画面を即座に消しては

隣を通り過ぎ、浴室へと向かった。

その背中をぼんやりと見守った後、

私は歩が普段使っているだろうベッドに

全身を放り出した。


けれど、大の字になるのも落ち着かず、

そっと掛け布団の下に潜っては

近くにあったクッションを抱きしめた。

もちろん、左半身は上になっていた。


花奏「…。」


今でもずっと思い出す。

歩を見ても、包丁を見ても、

関係のない交差点を見ただけでも

時折記憶の奥底から浮かび上がってくる。


あの鮮烈な痛み。

脇腹から血肉が溢れ、

指先の感覚はどんどんと無くなっていく。

それなのに、刺された部分だけは

延々と燃えるように痛覚が刺激される。

叫んでも叫んでも痛みはひかない。

むしろ酷くなるばかり。

それでも叫ばずにはいられない。

声を上げられずにはいられない。

だんだんと頭の回転が鈍くなっていく。

視界が朦朧としだす。

ピントが合わなくなって、

紅色に滲み出していく。

音が遠ざかる。

頭の中で囂々と漏れる血の音だけを聞く。

砂を噛んでいることもわからなくなる。

不味いことに気づかず、

涎だけは流れ続ける。

けれど、口を閉じる力はなく、

声を上げ続けている間に

はしたなく頬を伝っていく。

匂いを感じ取れなくなっていく。

あなたの匂いはおろか、

血の匂いも、外の風の匂いも全て。

力を振り絞って身を捩れば、

体が2つに割れてしまったのではと

錯覚してしまうほどに脇腹は煮えた。

深い傷口に熱湯を

かけられているのではとすら思った。


最後に、あなたが手を握る。

多分、暖かかったはずだ。

でも、異常な速度で血の巡る私からすれば

その手は大層冷えていた。

あぁそうだ。

11月だからだ。

まだ11月だから。

もう夏になっていても、

夏を過ぎていたっておかしくないのに。

私だけが置き去りで、

私だけが同じ時を繰り返して、

私だけが。

私、だけが、救われなくて。

私だけが、覚えていて。


花奏「…わ、たし…。」


ベッドの上でぐっと膝を抱えて縮こまる。

助けて。

助けて。

歩の方が辛かったことなんて分かってる。

わかりきってる、そんなの。

何回も繰り返す中で

嫌というほど、頭がおかしくなるほど

彼女が痛みで顔を歪ませるところを見てきた。

11月がすぎても延々と頭の中で

その映像を見続けた。


分かってる。

でも、私だって助かりたい。

楽になりたい。

楽に、生きていたい。

それが無理なら死にたい。

死にたい。

寝るかとはおろか呼吸するのも辛い、痛い。

忘れたい。

眠りたい。

眠って忘れようとしても、

目を閉じればいつだって

頭のない歩がそこにいる。

学校の椅子に力なくだらりと座って、

私を責めるように正面に居続ける。


もう嫌だ。

こんな生活続けたくない。

苦しみたくない。

痛いのは嫌だ。

痛いのは怖い。

これからも痛みに耐え続けるくらいなら

さっさと死んで楽になりたい。


そう考える間にも、

脇腹はじんわりじんわりと

熱を帯び始めているのが分かった。


花奏「うー…ぅ゛ー………っ…。」


声を上げるな。

歩には心配かけたくない。

もう普通なんだから。

歩の前では、普通なんだから。

だから。


…。

唸り声を止めると、シャワーの音が聞こえた。

あ、そういえば。

歩はシャワーヘッドが落ちて

死んだこともあったっけ。

あぁ、あ。

そうだ。

あったよね。

あった、そんなこと。


その後。

そのあ、と。

そうだ。

ずっと2人で話したんだ、あの時。





°°°°°




花奏「…よし、朝まで話そうや。な?」


歩「…。」


朝まで話していよう。

一緒に、今日の夜を一緒に。

そして一緒に明日を迎えよう。

私がずっと欲していた歩と迎える明日。

そこであなたと朝日を見たら

私は歩とお別れする。

決めたんだ。





°°°°°





夜から朝まで、これまでのことを

全てなぞるように話した。

出会いから、はじめてのお泊まり会、

花火大会、私の過去の吐露。

それから、助けてと泣き喚いた。

11月11日と12日を繰り返してたんだよって

歩を助けるために実は頑張ってたって

固唾を飲みながら言った。

伝えた。

誰でもないあなたに。

でも、返事はしてくれなかった。


覚えてる。

あの体温を。

だんだんと緩くなっていく温もりを。

失った命の重みを、

ぐだっとした体重から知った。

覚えてる。

クッションを使って

生きることを忘れたあなたを支えたことも、

肩にこつんと頭を傾けさせたことも、

子供のように指を絡めたことも、

骨が軋むほど抱きしめたことも。





°°°°°





大切なあなたへ。

ありがとう。


カーテンは閉じ忘れたままだったらしく、

朝日が投げやりに差し込んでくる。

なのに歩は温まることなく

今の今まで眠ったままだ。

もう起きない。

目を開けて話すことはない。

そんな13日だけど、

今日はきっといい日だ。

きっと今日も幸せだ。


花奏「……よし。」


私はもう泣かない。

一昨日沢山泣いたから。

歩の隣で沢山泣いたから、だから今日こそは、

ずっと目指していた明日が来た今日こそは

笑って歩とお別れしたいんだ。


歩から手をそっと離すと、

微かな温もりはあっという間に

空気に溶けてしまった。

聞いたことのあるような小鳥の囀りが

心地よく浸透する。


声は聞けないけれど、

冷たくなっても匂いは残っていた。

もしも次会えたなら、

まずは声を聞きたい。

その時は。


花奏「……花奏、って呼んでな。」


頭をひと撫ですると

やっぱり他の誰でもない歩の香りが漂った。

布団から足を投げ出し

久々に着いたラグは

昨晩と何ら変わりはなかった。

違ったのは日差しだけ。

私も歩も変わらずに。


それからベッドの真ん中に

出来るだけ綺麗に寝かせた。

とはいえ思うように動いてくれなくて

シーツはくしゃくしゃに顔を歪めてしまった。

歩は笑顔とも真顔とも言い難い表情のまま。

それでも今までと比べたら

とんでもないほどに綺麗だった。


最期。

最期にもう1度頭を撫でる。

やっぱり怒らないんだね。

ちょっと……ちょっとだけ寂しかった。

最期くらい歩らしく

嫌がって欲しかったな。


今ならあなたの隣で

心地よく永遠に眠れる気がした。


花奏「おはよう、歩。」


歩「…。」


花奏「おやすみ、歩。」


歩「…。」


花奏「……。」


歩「…。」


あなたに、何の変哲もなくて

つまらなすぎるくらい

普通の明日が来ますように。


花奏「……じゃあ、行ってくるな。」


とびっきりの笑顔で。

頬が攣ってしまうくらいの笑顔で。


花奏「ばいばい、歩。」





°°°°°





大切なあなたへ。

ありがとう。

ずっとずっと、大好きだよ。

幸せをくれてありがとう。

ありがとう。


そう心の中で唱えた。


忘れられるはずない。

忘れられるわけがない。


忘れられたら苦しくなかった。

時間が解決するなんて嘘だった。

私、今でもずっと苦しい。

時間が経てば立つほど

渦の中心へと巻き込まれていくようで

出口が遠ざかっていく。


苦しい。

苦しい。

…苦しい。

…。


花奏「…ぅー……ぇ、ぅ……」


眠れたら、よかったのに。

泣くことができれば、よかったのに。


そうだ。

はっとしてベッドから出て、

鞄の中から錠剤の詰まった瓶を取り出す。

からからと音を立てていた。

冷たい。

無機物だった。

…。

あの時の歩と一緒だった。


蓋を開けようとすると、手が滑って

関節が変な方へと無理に曲がる。

じんわりと痛みが広がっていく。

まずい。

そう直感しては

さらに慌てて蓋を開けようとした。


からん。

開いたのを確認して、

錠剤を10錠程度手のひらに広げる。


睡眠薬を買うようになって、

数ヶ月だけ経た。

いつしか、まとめて買って

瓶に入れるようになった。

睡眠薬というのは本当にすごい。

自然と眠くなって、

痛みを思い出す前に、思い出しても

できる限り早くに真っ暗になる。

次の朝、信じられないほどに

すっきりと起きられるようになってから

睡眠薬を過度に頼るようになった。


今度は、痛みを僅かすらも

感じる前に眠りたい。


明日は、明後日は。

これから先は。

今日のように眠れるだろうか。


不安からか、少しずつ1回に使う

睡眠薬の個数は増えていった。

10錠以上飲むようになってからは、

自然と眠りにつくよりも

シャットダウンする感覚に近くなっていった。

痛みでもがいて、

父さんにばれないように唸って、

耐えきれなくなる頃に暗転する。


やっと、眠れる。


ひと晩中暗いところで

頭のない彼女と対峙する。

ああ。

多分、眠れたことに安心したんだと思う。

彼女の隣に行って、椅子を持ってきて座る。

隣に居続ける夢をみる。

目を開けば、朝。

待ち望んでいたはずの朝。

タイムスリップしたように一瞬で

朝に飛ぶのだから、

これ以上ありがたいことはなかった。


でも、このままの生活が

続くとは思っていない。

続けられない。

悪化する一途なのは目に見えてる。

それでも。


花奏「…。」


今日は眠れなきゃ駄目だと思った。

そう思い続けてる。


薬をばりばりと噛んで砕き、

それから水で流し込んだ。

精一杯息を吸う。

苦しい。

何となく、苦しい。


ベッドから這い出て

瓶を片付けようと思ったけれど、

体のどこにも力が入らない。

どうしようもなくてベッドに転げた。


近くにあったクッションを抱える。

歩の家の匂いがする。

抱き抱えていたクッションから

歩の匂いがした。

あの日抱きしめてひと晩話した、

雨の中抱きしめられた、

私の家で、座り込んだ私を抱きしめてくれた

あの匂いがする。

強く縛るように抱きしめてくれた

あの感触を思い出す。

やるせなくて自分の存在そのものに

憎しみを抱くあの感情を思い出す。

もう、名前で呼んでくれているのに

いつだって頭の中をよぎるのは11月。

存在すら否定したら、

お母さんに申し訳なさすぎる。


感情の行き場をなくしてしまって、

窒息するかと思うほど

クッションを抱きしめ顔を埋めた。


窒息、できたらよかった。

そのまま唸り声を上げることも忘れて

そっと目を閉じた。

瞼の触れる音ですら私の心に棘を刺す。

視界が暗くなったら最後、

私は。


…。

あ。

今日は疲れてたのかな。

時間、どれくらい経っただろう。

シャワーの音、どこだろう。


ああ。

今日、疲れてたみたい。


暗くなるのが早かった。





***





「花奏。」

「花奏っ!」


ぐらりと肩を掴まれて

強く強く揺すぶられる。

何かと思って目を開けようとしても

上手く瞼が離れてくれない。

揺れるがまま、更に力を抜く。

ぺち。

今度は頬を軽く叩かれる。


「花奏、起きて!」


ぺち、ぺち。

痛くはないけれど、刺激があるってわかる。

目を開けなきゃ。

呼ばれてる。

そうわかっているのに、

目を開くことができない。


「花奏ってばっ!」


がくん。

頭の落ちるような錯覚を覚えて、

びくりとして飛び起きる。

飛び起きた、つもりだった。

実際は目を見開いていただけらしい。

真横になった世界、

視界の隅では黒髪が揺れる。


歩「花奏、花奏っ、そのまま起きてて。」


肩に手を置かれたままだからか、

じんわりと熱がこもっていく。

気持ち悪いと思ったのかもしれないし、

暖かくて心地よかったのかもしれない。


歩「この薬、何。」


すると、彼女の片方の手には

さっき私が片付けるのを諦めた

睡眠薬の詰め込まれた瓶があった。

それ、大丈夫。

悪い薬じゃない。

そう言いたかったけれど、

口を開くことすら

疲れ果ててしまってできない。


ああ。

眠たい。

眠りたい。


歩「花奏、お願い答えて。」


瓶を机の上にがこ、と強めに置いたあと、

私を起き上がらせようとしたのか

脇の下に手を通そうとした。

びり、と脇腹に嫌な感覚が広がる。


花奏「ゃ……あ、ゃ…っ。」


歩「じゃあ、言って欲しい。心配なの。」


ごめん、わかって。

そう言っているようだった。

いつだって彼女は私のことを

気遣ってくれている。

あなたは優しい。

踏み込む勇気だってある。

私、今でも多分

歩のことを見れていないのに。


花奏「…………ゃ、う…。」


私。

ごめんね。

今でも、死に続けている

歩を見ている気がする。


花奏「すぃ、い、ん………や、う…。」


歩「すいい、ん…睡眠…?」


花奏「…。」


歩「睡眠薬で合ってる ?」


逃げるように、その質問に肯定するように

ゆっくりと瞬きを1度したあと、

今度は重力に負けて目を閉じる。

納得がいったのか、

歩はゆっくりと私から手を引き抜き

これ以上揺さぶりも

話しかけもしてこなかった。

未だに残るのは肩に刻まれた体温だけ。


その体温は、私が彼女のことを

助けた証拠の1つらしい。

なんだか、変なの。

私はまだあの場所にいるのに。





***





次に目覚める前も、

私は彼女の隣にいた。

無論、頭のない彼女の隣に。

手を伸ばす。

擦り寄ってみる。


あぁ。

体温がない。

冷たい。


花奏「…あっためてあげなきゃ。」


じゃなきゃ。

私、この罪を償いきれない。





***





びり。

嫌な感覚がして目を開く。

うっすら、うっすらと

光を瞳に差し込ませてゆく。


花奏「…………ぅ……。」


痛い。

でも、叫ぶほどではない。

どしんと圧を感じるし、

きっと形は鋭利なものなのだろう、

先のとんがった何かが刺さっているような

奇妙で不快なものが延々と

蔓延っているけれど、

多分、入院してた時ほどじゃない。


うとうととしているからか、

痛みへの感覚も少しくらいは

鈍くなっているだろう。


だから、大丈夫。

大丈夫。


花奏「ぅ………ぅぁ゛………っ…。」


なのに。

どうして声が漏れるんだろう。

黙っていれば、何もないように振る舞えば

目の前にいる彼女だって

心配しないで済むはずなのに。


歩「…痛い?」


花奏「………ぅ…ぅ゛…。」


歩「…痛いよね。」


いつからか左腰が上になるようにして

小さく縮こまって眠っていた。

今回も例に漏れずその通りになっている。

遠慮がちに放られた私の手を

そっと握ってくれるのがわかった。


夢の中ともあのひと晩を

明かした時とも違い、

歩の手は熱くて仕方なかった。


歩「おやすみ。」


花奏「……ぇぅぅ゛…………ぅ…。」


歩「ゆっくり休んで、花奏。」


唸る私がまるで見えていないように

人形みたいな正気のない手を握っていた。

あなたの顔を見ることは愚か

手を振り払う力も残っていない。

出来ることといえば、

更に背を丸めることだけ。


睡眠薬が効いているのか効いていないのか

途中で覚醒した時点で

あまりわからないけれど、

焦らずそっと目を閉じた。


もう2度と瞼が開きませんように。

そう願っている自分が

どこかにいるような気がしてならなかった。


変だな。

…。


変だな。

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